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殺す気はない、高らかに、そう女が宣言した。それはいい。何も含むところがないことも聞いた、それもいいだろう。
だが、目の前のこの女は、良い笑顔で今、何を言った?
唖然とした。全部吹っ飛ばされた。ここまでの困惑も、罪悪感も、水の美味さも庭の見事さも。なにもかもどうでも良くなる衝撃だった。言葉が出てこないほどに。それほど唐突でばかばかしくて、意味はわかるが意味の通じぬ、それでも優しい言葉だった。
聞き様によっては、情熱的な告白だろう。女は自分の物になれ、いや、なった、だから新たな生命を生きろ、名を名乗れと言っている。それはわかる。挑む前のやり取りでも、確かにそうあった。だがそれは、殺すか殺されるかのことだと思っていたのだ。
そもそも伝え聞く魔竜の王は、人語を解さず、強大で巨大、滅びた国の廃城に住まう魔王の一柱だと。敵対したものはあまさず皆殺し、精強な魔軍を率いて人類に仇なすと。
それがどうだ、廃都に辿り着いてみれば組織的な抵抗はなく、飢えた魔獣が散発的に襲いかかるのみで、脅威足りえず、ただ魔素を無闇に散らすのみで、糧となっていった。
風の噂に聞こえていた、おどろおどろしい死者の群れは何処にもなく、ただ、がらんどうの廃墟が広がっているのみだった。
生きとし生ける者の気配なく、空には暗雲がたちこめる。雷鳴絶えず鳴り響き、火の山が焼けた岩の飛沫を上げる、光景など何処にもない。どこの魔境の話だ。聞いていたのとは全く違う。山からは鳥のさえずりが聞こえ、愛らしい獣が人の居なくなった、森と同化を始めた街並みに溶け込んでいる。なんなのだ、と、思った。これでは、これまでの道程と何ら変わりはない。
考えてみればそうだ、生きて帰った者など居ない、と、言うならば、何故に光景が伝わっているのか。女の言うように、殺さずに放り出された者が、自尊心を守るために吹聴した結果ではないのか。
しかし、廃城に近づくにつれて、圧倒的な気配が空間を支配しだした。
居る。
確かに。強大な者が、この地に君臨している。これこそが魔竜王の気配か。養父の仇である、魔王の気配か。萎えかけた心に、再び火がともる。なにくそ、と、思った。敵が何者であろうと関係ない。失敗することなど考えない。この手で打倒し、奴の首級を墓前に供えるのだ。
廃城に辿り着くころには、夜になっていた。ところどころに雲のかかる月夜、星は明るく、明かりを必要としない。担いでいた装備を下す。ここから先は邪魔になる。とぐろを巻く竜に、剣のみで立ち向かう。愚かだとは思ったが、無謀とは思わない。確実に敵を仕留められる自信が、この剣にならある。鋼の鱗すら断ち割り、溶鉱炉のようとうたわれる心臓をえぐってくれる。
静寂が玉座の間を支配していた。圧倒的な気配はある、だが、そこに巨体はなかった。
「人間か」
美しい声だった。
一気に肌が粟立った。若い女の声、どういうことだ。人語を解するのか、そもそも竜は何処に。馬鹿なことを、目の前にいる。存在質量そのものが違う。熱量が違う。比較するのも馬鹿馬鹿しい。
城のような巨体を、ヒトガタに押し込めた狂気がそこにはあった。
歯の根があわず、がちがちとみっともない。
「お前が魔竜の王か」
「なんでもいいさ、退屈をしていたところだ。少し付き合え人間」
終わったことだ。一度目頭を揉むと、女をまっすぐに見た。
認めよう。この相手は、父の仇ではない。魔軍などない。君臨すれども支配はしていない。それはつまり、この怒りの持って行き場がまだあるということだ。一度、深く息を吸って、己が名を告げる。
「……シルベスタ・ラン・ガーデンツィオだ」
目と口を丸く、呆気に取られたように、息をのむといやいやと首をゆっくり振る。
その上で、は、と、女は笑った。
「それはできすぎだな、偶然かなんだか知らないが」
女の言っていることがわからず困惑する。そんなこちらを見て、ああ済まないと、やはり笑いながら女は続けた。
「鏡を見たことはないか? そっくりだよ、貴様は。若い頃のスタローンに」
それこそこちらの知ったことではなかった。
「私はティタナと呼ばれていた」
恐らくは、鱗の色合いからだろう、と、ティタナは言った。
「もっとも、そう呼ぶものは滅んで久しい」
「何かがあったのか?」
「ああ、同種同族というだけだろうに、ふざけた輩が多くてね」
襲いかかってくるから、皆殺しにしてやったさ、と軽く言って笑った。それから、ふ、と、目を閉じ、くつくつと喉で笑っている。
「だめだ、耐えられない」
そんなにおかしかったのか、なにがそこまでおかしいのか、ずっと小声でランボーだ、ほんものだ、いや本物よりも強いランボーだと笑っている。居心地が悪かった。
なんだランボーとは。
それで笑われるこちらは、たまったものではない。憮然として、眉を寄せる。その様がまた女の笑いを誘った。
「いや、済まない。もうどれだけ笑っていないか、それすら忘れる程に面白いことに飢えていてね。……勝手で悪いが話を戻そう。
シルベスタ」
うってかわって、真面目な目をして女は言った。
「そろそろ私が貴様にとって仇ではない、と理解して貰えたと思う」
「ああ、そうなんだろうな」
「そこで、私は貴様の仇討ちに力と知恵を貸す」
「何故だ」
「私が貴様のものだからだ」
「ああ、なるほ……いや違うだろう」
逆ならば解る。だが、俺が女の物であると言うならば、損耗は避けるのではなかろうか。
そも、仇が女でないならば、何処から次の糸を手繰れば良いかが、さっぱり解らない。だと言うのに、女は力を貸すという。だが、常識の範疇外にあるこの相手に、それが出来るとも思えない。
そもそも話の主客がひっくり返っている。
「いや、そんなことはないぞ。かつて誓いを立ててな、我が身に一太刀浴びせたものがあれば、それにこの身を与えようと」
「それは、嘘だろう」
遮ると、実に意外そうに女は目をしばたいた。
「……なぜわかった?」
「お前は嘘が下手だ、そんな露骨に芝居じみた言葉で、俺が信じるとでも?」
腕を組んで、深く椅子に腰掛ける。ねめつけるように女を見た。いやに気安い。瞬き一つの間に殺されるであろう相手だが、どうにも調子が狂う。それを相手も望んでいるのであろう。砕けた調子を好むことは解った。
「……意外だな、もっと体で考える人種かと」
「ばかにするな、そんなに頭が悪ければ、今頃は剣闘士奴隷にでもされている」
済まない、と、女は短く謝った。
「本当の所を言おう、私をこの城から連れ出してほしい」
「何故だ」
「退屈なんだ」
「そんな理由か」
ふ、と、怒りが湧いた。だが、それも僅かなあいだに鎮められる。
一人でもそれは出来るだろう。むしろ、きままに我が儘に、その翼の許す限り行けるだろう。一人で、何処までも。
そうか、一人で、か。
それでは今と何ら変わらない。孤高で、孤独で、孤絶している。何物とも畏怖を通じてしかかかわれないのだ。
なんとなく、なんとなくではあるが、伝わってくるのだ。この正面に座る女の孤独が。
共感しているのか。
寂しいのだ、そう、言われた気がした。声には出ない。ただ、産まれ落ちて以来、見たことがない仕草。こちらにはない仕草だ。
「一人は嫌でなぁ」
不意に、すとんと胸に落ちた。
人ならざる者に産まれ、人の記憶を背負い、人に追われ、この城に辿り着いた。人と交わる事を望み、人を城に迎え、敵意と害意に曝され続けた。
殺さずに捕らえても怯えられ、疎まれ、後ずさられ。声をかけても命乞い、傷付けずに捕らえても、もてなそうとしても拒絶される。
見ろ、この会話を。
なんと拙い事か、これでは、とてもではないが、真意など伝わるまい。
すがられて居るのだ。
かつての記憶など怒りしかないが、端々の単語には、聞き覚えもある。共通した感性を、確かに持ち合わせている。仰々しい言い回しの裏側にあるのは、ただ、助けてくれと叫ぶ人の魂だ。
女にあるのは孤独だった。絶対的な強者、並ぶものがない力、脅かすもののない存在。そんなものを、女は望んで居ないのだろう。
それだけに嬉しかったのだろう。怒りと憎しみとは言え、言葉に言葉が帰ることが。恐れず厭わず、正面から女に向かう自分がある事が。
「わかった、シルバ、とでも呼んでくれ。俺はお前を何と呼べばいい?」
女の顔に喜色があふれた。飛び上がらんばかりに、その顔いっぱいで笑う。ここから連れ出してくれ、とは、魔王というくくりから解き放ってくれ、という意味だろう。石の玉座から、我を助けよ、と。
「ティタでいい、ああそれがいい!」
「そうか」
短く言って、剣を抜いた。女の表情は変わらない、それがわずかに悔しさを誘う。剣を石の床につきたてる。かつ、と、硬い音を立てた。
袖をまくり、右手の甲を浅く傷つけた。ティタもそれに倣うように、右手の甲を傷つける。見る間に緋色のしずくが盛り上がった。
「偉大なる竜王よ、ティタナよ、我が主よ。誓いをここに、我は我が身果てるまで汝の剣たることを誓おう」
「偉大なる王よ、シルベスタ・ラン・ガーデンツィオよ、我が主よ。誓いをここに、我は我が身果てるまで汝の剣たることを誓おう」
流された血が、魔素となって空間に魔法陣を描く。思わず笑ってしまった。主従の契約が、どちらも主と認識されている。傷口が輝きをあふれさせた、浮かび上がった魔法陣が回転する、徐々に速度を増しながら、それは互いの手の甲へと収束していく。もはや目を開いていることも難しかった。主従の呪印が、まるで見たことのない紋章となって、手の甲に宿る。
丸に、剣と竜と人。それが、ひときわ眩く輝いた後、紫の煙を吹き上げながら、焼印のごとく、刺青のごとく手の甲に焼きついた。




