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物怖じせず男は角杯を受けとると、一息にそれを干した。足りなかったのか、残念そうに、見下ろすように盃を眺めると、僅かなあいだ弄んだ。無造作に盃を突き返した。こちらの対応を窺っているのか、無言のまま水を汲んでやる。また言葉なく受け取った。
三度男は盃を干すと、やっと落ち着いたと言わんばかりに、短くため息をついた。
昨夜着ていた革鎧は置いてきたのか、麻の上下と剣のみ背におっている。
たくましい男だ、上背は180cmをこえているだろう、分厚い筋肉が隅々までよく鍛えられている。見せる為のそれではない、柔らかく、しなやかだ。首は筋肉に埋もれ、相当な一撃でも折れそうにない。腕は私の腰よりも太かった。胸は分厚く、鎖骨が見えない。腹は言うまでも無いだろう。見えはしないが、強靭なそれが覆っているに違いない。
その上で均整がとれ、異形感は無い。肉食の獣のしなやかさだ。よく腱の発達した前腕は、その隙間をみっちりと筋肉が埋めている。体毛は薄かった。良く日に焼けて、鞣し革の様な色合いを見せる手首には、幾つもの傷跡がある。
分厚い皮膚だ。通常であれば出血し、内側を覗かせるであろう傷が、恐らくは真皮にまで達していない。柔らかい、皮の鎧を一枚身に纏っているようなものだろう。最早人間の皮膚とは言い難い。
殊更に手が大きい。なるほど、あの大剣を片手で振り回す訳だ。と言うよりは、片手でしか握れないのだろう。異様に太い柄も、この掌からすれば、取り回しの良い太さなのだろう。自分の手が、まるで子供のそれに見える。文字通り鋼のように鍛えられた体だった。ごつごつとした拳は岩のようだ。爪は分厚く、些少の事では割れそうもない、あの皮の厚さからして、剥がすのも一苦労だろう。鉤爪もかくや、というあの指は、容易く相手の肉を引きちぎり、臓腑を抉るだろう。
もしゃもしゃの黒髪に厚い唇、垂れ気味の目は、大きく開かれて鋭い。彫りは深い、鼻筋は通っているようで、よく見ると歪に左右にのたうっていた。細かい傷が無数に刻まれている。耳はずたずただった。傷だらけ、という状態ではない、所々が欠けている。顔だけで、男のこれまでに経てきた、過酷な戦いを物語っていた。全身その調子なのだろ。
滅多に笑うことが無いのだろう、むっつりと引き結ばれた口は、まるで犬のようにへの字だ。かといって、表情筋が発達していない、訳ではない。むしろ表情はよく動いた。見ていて飽きることがないくらい、眉が細々とよく動く。嘘のつけなさそうな顔だった。
笑う顔は文字通り獣のそれだろう。歯を剥き出して、鼻に皺を寄せて獰猛に笑うに違いない。思ったよりも髭が薄い、まだ若いのか、ちらほらと伸びたそれが、犬っぽさを助長する。美形ではない、だが、男臭くて愛嬌のある顔だ。
もっとも、と、思い直す。
それは、自分が圧倒的に、彼よりも強い事を自覚しているからであって、だが。
ただの小娘にすれば、ドーベルマンや土佐犬やチベッタンマスティフなんかがいきなり目の前に居たら、それはそれは怖かろう。
さあ、なんと話し掛けたものか。庭の感想か。それとも昨夜のことか。もともとそれほど人付き合いが得意な方ではない。さてどうしたものか、なにか話題はないか、などと考えつつ男を観察していると、居心地が悪そうに、男から話し掛けてきた。
「俺の顔に、なにかつい、ているか?」
たどたどしい喋り方、こちらに対する態度を決めかねているのだろう。
「いや、何も。しいていうなら汚れているな」
それは、そうだろう。と、困ったように男が言った。
困っているのはこちらも同じだ。何を話したら良いのかが、なにしろさっぱり解らない。話題が見付からないのだ。
また黙ってしまったこちらを、目をふせながら男は言った。
「何故、殺さなかった?」
「何故に殺さなければいけない?」
男の眉根が寄った。何故に、と、問われてもこちらが困る。
殺すことに理由があるならば、生かすことに理由は要るまい。
「私には貴様を殺す理由がない」
「何故だ」
男は心底不思議そうに言った。
「俺はお前を殺しに来た、お前に剣を向け、雷をうちかけ、命を狙った。お前には、俺を殺す権利がある」
「そんなものはいらない」
何故だ、と男は繰り返す。宜しい、解らないのであれば教えよう。
「貴様に私は殺せない」
「ぐむ……」
「その剣、その剣は魔素を食らって育つ類いだろう? 確かに時間をかければ、その剣は我が鱗すら切り裂くに到るだろう。だが、その前に私を殺さなければ……」
男はようやく、理解が出来たようだった。
「……ああ、そうか。俺では、俺の膂力では振るえなくなる」
「そうだ。察するに、その剣。もとは、もっと細身で軽かっただろう。薄く、短かっただろう。貴様と共に育ってきた剣だろう」
「その通りだ」
時間をかければかけるほどに剣は強く、重く、長くなる。そして、いずれ男の手に余る。
「脅威足りえまい?」
「その……通りだ」
苦いものを噛んだかのように、男は食い縛った歯の間から声を押し出した。
確かにある程度は、戦いの最中でも、調節出来るだろう。だが、私を相手取って、その僅かな時間は致命的だ。一撃を耐えれば、一撃で死ななければ、私が勝つのは決定的なのだ。
それに。
「―――そもそも。何故に私が狙われなければならないのか」
「それは、お前が」
「貴様にも、ほかの人間にもの話だがな。根本的に何か勘違いをされているが、私は未だかつて、人間を殺したことが無いぞ」
「……お前は何を言っているんだ?」
まるで予想をしていなかった、という訳ではあるまい。目を泳がせて、裏返った声で男は言った、何を恐れているのか。顔から血の気が引いているのがわかる。
「確かに私はこの城に住み着いて長いが、魔王を名乗った覚えも無ければ、軍勢を組織したこともない。そもそも、人間を殺したことが無い。私が殺したのは同族と、目障りな死者の群れ、獣と、私を支配せんとかかってきた魔族だけだ。確かに人間もこの城に辿り着きはしたが、殺しはしなかった」
光り物と、食糧は没収したから、何処ぞでのたれ死んだかもしれん。だが、そやつらの末路までは知ったことではない。
「そんな、それでは……」
「逆恨みも結構だがな、私はただ生きているだけだぞ」
「……うぬ」
言葉も出ないのか。乗り出した身を小さく縮め、男は苦しそうに唸った。昨夜の言葉を思い出すに、男が自らの正義を裏切っていた、などと想っているのだろう。
「気にすることはない、私は生きていて、貴様に殺されるほど弱くはない。そんなことよりも、今日から貴様は私のものだ」
男の懊悩も葛藤も、そんなものはどうだって良い。
「喜べよ、貴様への理不尽は私への侮辱だ。貴様の怒りは私が振るおう。貴様が吼えるならば私が焼き尽くそう。今日から新たに産まれ直せ」
目を丸くする男を、笑って見つめる。楽しくて仕方がない。嬉しくてたまらない。会話をすることが、こんなにも胸弾むものだったとは知らなかった。
「貴様は私のものだ。名乗れよ、人間。そしてその名に誓え、命果てるまで私と共にあると」




