7.
7.
さて、此処から母船までをどう戻るか。
このところ見せる頻度の高くなった姿で首を伸ばした。長い首から海水が煌めきながら滴り落ちる。船影は彼方に点として見えた。どうやら思っていたよりも距離が開いていた様子だった。
上陸に用いた小舟はシルバの雷と私の焔で蒸発している。帰りの脚がなかったが、どうにかなるだろうとは思っていたし、最悪質量と体積の数字さえ弄れば泳いでも走っても問題はない。だが男はそれを望むまい。
海面は穏やかだった、風はまるで男へ恋を語る乙女の様に優しく、柔らかく波頭の立たぬそこは、沖合いの深い、恐ろしさすら感じる濃さを見せている。男が事前に島のあった跡に張った結界呪の効果もあって、感じられる範囲に大きな変動は無い。
頭を巡らせてみれば、島跡の巨大な穴には、ゆるゆると海水こそ流れ込んでいるが、流石に島ごと浮き上がった悪魔の痕跡である、未だ海中にぽかりと出現した大穴に水の満ちる気配はない。此所に水が満ちるまでには、現在流入する量から考えて一体どれだけの月日が掛かることであろうか。何しろ見えていた島は、数ある悪魔の角の一つに過ぎなかったのだ。周辺の海底ごとごっそりと脱け出したそこは、今は流れ入るに砕けた飛沫が霧となって、底を見透す事も出来ない有り様であった。
結界を張った男の判断は賢明であったと言えよう。あそこを満たすだけの海水が一時に流入すれば、沿岸部にはまず巨大な引き波が生じ、その後に反動で起きる津波によって、近隣の沿岸域は滅びと言う名の災いをその記憶にいつまでも刻み込む事となったであろう。いや、或いはその記憶を止める者すら残らないかもしれない。
(いっそこのまま戻るか)
その辺りまで考えて、ふと考える事が面倒になった。気楽に言った私に、シルバは鼻に皺を寄せると実に嫌そうに応えた。
「よせよ」
心の底から嫌そうな男の声である。表情からシルバがその場合のあれこれを実に面倒くさく考えているのが読み取れる。その上で出てきた結論に、あらゆる望みを無くしたに違いない、勝利の余韻も何処へやら、男の顔は恐ろしく陰って見えた。神話の世界に両足をつっこんでいても、雷神と呼称される規模で世界を書き換えても、この男は人間であることにしがみつきたいらしい。
(案外受けがいいかもしれんぞ? 何しろ私は竜に拐かされていた姫君で、話には尾ひれがついて竜の巫女との話もあった。なに、雄々しく帆柱に寄せた後変化すればいい。それらしい光でも放てば外連味も――)
「絶対にやりたくない」
(――で、あるなら仕方がない。乗れ)
内心笑いながらも男を背に乗せると、水面を駆ける様に離陸する。なるべく低く飛びながら目指したのは近場の島だ。シルバも行く先を見て私の目的を察したらしい。元居た地点よりは相当離れたが、この際仕方が無いことだろう。
上陸した島で木を調達する、百m程奥に赴けば、それなりの太さの木材が見つかった。なかなかの太さであり、奥には更なる物もありそうだ。
パレテスの建築物は、ほぼ石造りであった、木造部分は窓枠と梁、屋根くらいのもので、そこにしても焼き物の瓦で葺かれていた。燃料としても建材としても、此処までやってきて、わざわざ気を切り出す物好きも居ないのだろう。手近な山で切り出した方が運搬も楽である、手間の有無と言うものは、労働者に大きく影響を及ぼす。ましてや一度海に出るとなれば航海技術の発展が乏しいこの地のことだ、遭難の危険性は陸上より遥かに大きい。
思い返せば途中の山々も、どれもほどほどに手が入っており、若木の姿が確と見えていたのを思い出した。大概が大きな切り株の傍らにあった点を考えると、シルバの入れ知恵に拠るものかもしれない。
後千年も文明文化が発展すれば、銘木と悦びつつ切り出す好事家も出るかも知れないが、現在はまだ原初の密林の気配を醸すその森は、まるで人の手自体を拒むかのように、鬱蒼と繁りつつ色濃い生き物の気配を此方に伝えていた。
風の唸りすら切り裂いて、男の剣が奮われる。何よりも、喪われた筈のレイマルギアが再び男の手に戻っていることに驚かされた。恐らくは既に顕現自在なのだろう、そして、新しい技術の開発に取り組んでいるらしい。見た目は体術にしか見えないのに、その動作の瞬間瞬間にだけ、大剣がその質量を顕現する。具体的には初動と直撃の瞬間のみだ。これにより、男の動き自体から予備動作と剣の軌道が消えた。これまで巨剣が見せてきた挙動が消えるということは、文字通りの消える魔剣が実現したということだ。そしてそれは素手だと思っていたらぶったぎられたという相手が出るということだ。まるで竜の隠し爪、かつて同族に居た手合いを思い出して唇が笑いに痙攣した。
これはますますやりにくくなったぞ、と、思いつつ、いずれ来る腕試しの日に内心気を昂らせた。
まず舳先が作られ、船底が姿を見せ、水平に奮われた剣が船尾を作ると同時に船を切り倒した。顎に手を当てて考えつつ木の前に立ってより、地響きを立てて倒れる迄がおよそ十秒。さらにそこからシルバは器用に剣と道具を使い、短時間でアウトリガーつきの丸木舟を拵えていく。私は時折男が振り返って言う「こういう道具がほしい」との言葉に鱗を用立ててやった。何しろ切れ味は折り紙つきだ、玄翁は要るか、との問いには要らぬと返る。さもありなん、男の掌と鉄槌打ちは、まさに金槌の威を持って鑿を打った。まるで粘土でも加工するかの様に、生木の丸太がみるみる小舟の形に成型されていく。
道の修理をしている時も見ていて思ったが、この男は見掛けによらず器用なものだ。並のヒトであれば音を上げる作業を、腕力に物を言わせて推し進めて行く。そのくせに芸が細かく、端材で補強なぞを施していたりもする。小一時間程の間に安定性抜群の舟を用立てると、徐にそれを担ぎあげて海に乗り出した。
が、流石に乾燥を経ていないだけあって重い。アウトリガー付きとは言え、喫水線が大きく沈み込む。二人が乗れば更に沈むだろう、そうすれば浸水は免れまい。この段階になって悩みだした男に失笑する。恐らくは、浮かない。思ったよりも重い。火を用いれば乾くが時間が掛かる、木目を考えれば舟が歪む、最悪割れてやり直し、さて如何にする。などと考えているに違いない。体重を弄れば、とか、結界でくるめば、とか、思い付く手段は幾らでもあるが、この男はこういう時無闇と常識に縛られる。
「水分か」
「ああ」
「ウンディネに働き掛けろ」
「……おお」
目から鱗、と言った風情だった。その様子に再び失笑しつつ、様子を見守った。
何時もながら精霊への働き掛けは、成る程と首肯する程上手いものである、実に自然かつ無理の無い様で、程よく丸木の舟は色と質量を変じて行った。
納得の言った面持ちで頷くと、男は改めて砂浜より舟を波間に押し出した。
「漕ぎ方は解るよな」
「ああ、任せろ」
男から受け取った巨大なパドルを、波間にそっと差し込んだ。
とは言え、二人とも千人力の剛力だ、漕げば漕ぐだけ速度が出る。調子に乗って漕ぐ力を入れていたら舟が悲鳴を上げ出してシルバにどやされた。もっともだ、壊してしまっては意味がない。
海面の大穴を迂回し、そのままいくと、じき水平の端から母船が見えた。
二人で漕ぎ出してより一時間程度が経過している。飛ぶように波間を跳ねていた舟の速度から考えれば、随分と遠くまで避難していたらしい。
そしてそれは間違いなく正しい判断であった。シルバが立ちあげた雷雲の結界は、彼等の認識から彼等を守っていた。とは言うものの、近場にいたらば漏れ出た障気によって精神と肉体に異常をもたらしていたやも知れぬ。
船上から振られた手を振り返す、私の格好は出発前と変わらないが、男は見掛けからしてぼろ雑巾だ。死闘の結果ではあるが、なんだか毎回この男は着ているものを駄目にしている様な気がする。
男が舟上でゆっくりと立ちあがり、だが力強く剣を突き上げると、かなりの距離を経ても聞こえる割れんばかりの歓声が海面を彼方まで轟かせた。
空気が甘く、芳しい。
砕けた波の塩の薫りが、少しずつだが港に近付くにつれ、胸を満たす大気が組成を変じていく。鼻の利かない私ですらこうなのだ、男からすれば芳醇な事この上あるまい。陰鬱に街を覆い尽くしていた、まとわり着くような、鼻をつく生臭い磯臭さが無い。じわりじわりと心を蝕む様な、いやらしく冒涜的で理不尽な深淵の気配が、快活で陽気な人々の営みに綺麗さっぱりと書き換えられていた。
感じるのは肌と胸を焦がす夏の陽射し、薫り立つオリーブと花々、からりとした山の風としっとりした海の風。それから、本能的に災いが取り除かれた事を知った人々の解放された事への喜びと生命の讃歌だ。
桟橋に船が寄せると、歓待の声がさんざめいた。
男の頬が緩んでいる。私はそこに大きな喜びと、一抹の寂しさを見出だしていた。
ああ知っているとも。貴様は何処までも人間で、本来人々の喜びの中で生きたいと望んでいる。ただ、接するに不器用で、要らぬ誤解を招く上に何事もやり過ぎた結果周囲が笑わなくなるのだろう。
貴様は強大過ぎる。貴様が居れば、この地は更に発展していくだろうとも。五年もあれば、エラリアの都など歯牙にもかけぬ栄華を誇るに違いない。結果としてパレテスは周辺と軋轢を生じ、貴様は胸を痛めることになる。一所に定まらぬのはそれもあるだろう。定まれぬと言っても良い。じきにこの喜びは、下らない自己嫌悪と否定感に曇るであろう、最後にはそれら全てを噛み殺して、何時もの仏頂面が出来上がるのだ。
で、あれば、この脆弱な心を持つ相方を慮るに、私の言うべき言葉は一つ。
「次は何処へ行く」
何でもないことの様に、水を向けるように私は訊ねた。
はた、と我に返ったように、男は眉を動かすと、その大型の犬を思わせる愛嬌のある顔を此方に向けた。
「……俺も、墓参りにでも行ってみようか」
「それもいいな」
一も二もなく私はその話に乗った。どの道行く先は男へ一任してあるのだ、生き急ぎがちな相方である、時折こうして水を向けつつ後を着いていくのが良い。
男の生誕の地となれば、このところ抱えた疑問も晴れるやも知れぬ。先日以来頭にあった疑問をついでとばかりに訊ねて見る。
「ああ、そう言えば貴様、シルフの力は何処で得たんだ?」
「知らん」男は眉を動かしながら言った「何の話だ」
気がついて居なかったのか、まあそんなものだろうとも思う。
出会った時からそうであったが、シルバはシルフへの働き掛けに黒い魔素を魔法陣として介在させ、あくまでも法ではなく術として行使していた。
私からすると、随分と無駄な事をしている。この辺りが人と竜の違いなのだろう、人の身と脳は力を行使するように出来ていない。だと言うのに、経験と努力によって強大な魔獣すら打ち倒すに至る。恐るべき生き物だ。
そして、男はその最右翼であった。
訝しげに眉尻を下げた男に笑いかけた。
「そうか、気付いて居なかったか、貴様の雷撃呪はシルフ由来のそれだ」
「そう、言われてもな」
小さく言ってから、男は中空にそっと指を伸ばした。歓声の響く中、ごう、と男を中心に風が巻き、握った拳に細い紫電が幾筋も雲一つ無い空から落ちる。
「成る程、今なら解る、が何故かは判らん」
「然も有りなん」
連続した破裂音に群衆が沈黙し、然る後に英雄の為した事と知って、歓声が巻き起こる。まるで人並みが爆発した様であった。
甲板の船員達がそれに応えて叫んでいた。
「そうだ俺達も見たぞ、恐ろしくおぞましい呪われた雲を、雷光と爆炎が切り裂いたのを!」
船乗りとは英雄の一端である。
港町に暮らす人間はそれをよく心得ていた。共に危地へ向かったと言う男達の、拳を振り上げて興奮する様が、心から男を称賛する声が、表情が、歓声への恐ろしいまでの後押しになった。
船を降りる事もままならぬ、民の桟橋を踏み鳴らす音、凱旋した英雄を称える声が港を席巻する。
「おい、シルバ」
「なんだ」
「収まらんぞ」
「……そうだな」
「貴様、煽った以上は何か言えよ、得意だろ?」
「ああ」
シルバは舷側に片足を掛けると、その大きな掌を下に向けて腕を開いた。途端、群衆が何かを期待するように水を打った様に静まり返る。海鳥の声さえ聞こえず、風も波も、精霊の協力あって、文字通り全てが凪いだ静寂が訪れた。咳一つ聞こえぬ静寂に耳に痛みすら覚える。
「親愛なるパレテスの友よ!」
よく響く声で男が言った。
「中庭の騎士の後継たるシルベスタ・ラン・ガーデンツィオが宣言する。忌まわしき、邪なる海神は我が剣によって討ち果たした。今後二度と、この世の続く限り、永久にこの地と我が友等が邪神に脅かされる事は無い!」
突き上げたシルバの手に、大きな稲妻が直撃する。悲鳴が民の間から漏れ出でた。だが英雄は微動だにせず、当然の様に害されもしない。そして目の焼き付きが消える頃には、その手には電光を纏った黒い大剣が突き上げられているのを民は見た。
そして、民達は身を震わせる。
今、まさに自分達が寝物語に、吟遊詩人に、道端で、酒場で、劇場で聞き惚れた英雄譚の一幕に描かれているのだと。
再び歓喜の声が爆発した。祝宴だ、ありったけの酒を出せ、そんな叫びの聞こえる中、男が私をひょいと片手に抱えた。
「なんだ、跳ぶ気か」
「ああ」
艀も歩み板を待つ気はない。男は言外に言うと私を抱えたまま当たり前の様に跳んだ。だが、桟橋の上は人でごった返し、当然の様に降りる場所はない。
男が脚を下ろしたのは、桟橋の脇に打たれたもやい綱を結ぶ木杭の上であった。
巨躯の見せた思わぬ軽業に、再び群衆が静まり返る。シルバは男臭い笑いを浮かべると「場所を開けてくれ、通れぬ」と朗らかに言った。




