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先ほどまでの何かしらに掴っていられる状態とは違う、圧倒的な浮遊感。肛門が引き上げられるような不快感は、何も頼るところの無い事を否応なしに実感させる。即座に脳裏に浮かぶのは死の一文字だ。
彼女の物理防御の外側に放たれた瞬間、叩きつけられる空気圧と衝撃波は特に激しい痛みを伴って心身を苛む。ティタナから放たれた体は、風に吹き流される木の葉の様に、あちらこちらに回転をしそうになる。
暗い雲の中で一度でも方向を見失えば致命的だ、そこに待つ死を回避するために死の中に頭から飛び込んでいく。
物理防御を最大に、それでも乗り越えて風が我が身を切り裂き引き千切ろうと渦巻く。度を越した速度というものはそれだけで暴力と言える。瞬きごとに倍になる大きさは原始的な恐怖を誘う。目標との近接時間からして音速の四倍は軽く越えているであろう。
血の気が引く、等と言う領域の話ではない。下を向いた側から順番に絞られる感覚。血が頭から足に圧縮される。血管があちらこちらにで破裂して、靴の中は血溜になっているであろう。視界が白く黒く斑になるのを歯噛みして耐える。遠ざかる意識を力尽くで繋ぎとめる。そうでなければ一秒後の死が待っている。
聞き慣れない音を上空に置き去りにしつつ、あちこちの皮膚が裂けていく。労しげに風霊と火霊が寄り添う物。それらの加護により相当な負荷が軽減されているとは言え、衝撃波自体を無かったことには出来ない様子だ。
そもそもの話、人間は空を行く様に出来ていない。
ごうごうと衝撃波を撒き散らしながら、黒い人影の様な敵弾幕が至近距離を過っていく。相対速度を考えると、恐らく衝突した瞬間に双方の熱量で爆裂四散は確実であろう。じっとりと背に浮かんだ冷や汗が、即座に風に吹き流されて乾いていく。
全身で数十ヶ所、あるいは数百個所の毛細血管が弾けた、所によっては皮膚が捲れた所もある。厄介なことに、そこからまた衝撃波が発生するのだ。ずたずたになった皮膚が筋肉を巻き込んで弾けていく。着弾が先か、空中分解が先か。
計算通りであれば着弾が僅かに早い。呼吸器も酷い有様であった、口の中は鉄錆で溢れている。吐きだす事は出来なかった、唇を僅かでも開けばそこから新たな衝撃波が発生する。唇なぞを起点にしようものであれば、それこそ顔の下半分から首を引き裂くであろう。
これ以上の加速は望めない。望めばそれこそ死が待ち受ける。それでも加速する。落ちるだけならば幾らでも速くなれる。首を手足をもぎ取られそうな暴力的な風と音の圧力の中、赤く白く尾を引きながら目標に迫る。
狙うのは声の出所だ。
恐らくはそこがこの敵という現象の中心、巨大で異形である歪な存在の魔核。呪詛の要であり悪魔の依代である何かを打ち砕くべく、全身を固く締めながら突撃する。
「ぬ……ぐ」
一部力の入らない箇所もある、予想よりもがたが来るのが早かった。内心焦りを感じながら加速すべく魔素を増やす。早ければそれだけ壊れない、だが速ければそれだけこの身が砕かれる。
重力の制御はない。完全に個体の重量質量を解放している。当たればその質量だけで城壁すら紙のように貫通する体当たりは、通常であれば自身の死も確実である。
賭けと言えば賭けだ。むしろそれ以外の何物でもない。命をまな板に載せる生きるか死ぬかの大博打だ。魔剣の、魔王の力を引き出せれば或いは、といった具合。分はひどく悪かった。
今になって突撃した事を察したのであろう。ティタナの驚愕が繋がった精神から感じ取れる。薄く歯を剥きそうになって締め直す。話す時間も説得する時間も惜しい。何より納得するとは思わなかった、自分が相手であれば、殴り倒してでも引き留めたであろう。
高機動格闘戦闘機から打ち出された超質量無誘導型徹甲弾。超高高度からの急降下爆撃は、直撃すれば旧世界の大和ですら一撃で貫通、撃沈せしめる自信がある。それに比較すれば今生の敵、生肉の航空空中母艦なぞ何するものぞ。ひどく愉快な心地になってきた。着弾までの刹那、無限に引き伸ばされた時間に笑う。
今死ぬか、後で死ぬかの違い。起死回生の手段がぽんぽんと思い付くほど賢くはなかった。着弾まで瞬もない。視界一杯の敵は大地に等しい。対空防御の弾幕は凄まじいの一言に尽きる。一撃当たれば粉砕される。速度と運を信じて落下する。減速はない。未だ自分以外の意志は感じられない。それでも剣を手に思い描く。何もつかめない。だが、確かにこの身は運命を掴んでいる。
着弾までゼロ秒。誰かが苦笑した気がした。
柄を握った。
そう思った。その腕を伸ばした瞬間に意識が飛んだ。
―――なんとも呆れた奴だ。
おい、お前の望みはなんだ。
俺、の。望みは―――
見るものがあれば見ることが叶ったであろうその光景。
天空を往く悪夢そのもの。
それを貫き亡ぼした、赤く輝く一筋の降り星。
惜しむらくはその姿故に、物語の紡ぎ手が見れば残らず正気を喪う事であろう。
顔を撫でる潮風と、眩い日に意識が戻る。
数秒呆けていた。此処が何処で、自分が誰で何をしていたのかが判然としない。酷く穏やかな心地であった。
身を動かそうとして、全身に激痛が走る。それでやっと思い出す事が出来た。
なるほど、どうやら成功の上で生還したらしい。
意識が浮上したのは、文字通り着水し再浮上を果たした後である様であった。
直上に雨雲も妖しい気配の雲もない、美しい夏の碧い空が輝く太陽を背景に澄み渡っている。上空より降り注ぐ陽光がきつく目を焼く。そこに穢らわしさは存在せず、激しくも生命力に満ちた夏海の香りを醸し出している。
ほう、と、長く息を吐いた。穏やかに揺られる体が眠気を誘う。疲労は色濃かった、出来ることならこのまま眠ってしまいたい程に。
眩しさに手を翳し、手のひら越しに透かし見る。
「……やった」
柄にもなく声が漏れる。
体はぎしぎしと軋むが、動けないことはない。顔を洗う海水の冷たさが心地良い。沈まないのはウンディネの眷属が支えに依るものか。嘗ての王と違い、まともに労えない事を申し訳なく思う。
図上には輝く赤い光点があった。その周囲に張り巡らされた、黒く野太い魔方陣も。
「やった」
もう一度呟いた。
最大の敵影は消え、自身は五体満足、被害は軽微。およそ考え得る最高の戦果と言えるであろう。
ぐったりとした耳に、力強い羽ばたきが届く。どうやら波間に漂う自分が見つかったらしい。少しの間上空を旋回すると何事かを吼えるとゆっくりと下降を始めた。
彼女の呼びかけに水霊が集い簡易の足場を作る。試した事は無いのであろう、おっかなびっくりそこに着水すると、一息吐いた後、自分に向けてごうごうと吠えだした。子犬のそれでも煩わしいと言うに、全長が六十m近い彼女だ。巨大な頭部から放たれる吼え声は、物理的な圧力を伴って此方に叩き付けられる。霊素の圧力で、たちまちに僅かに残っていた陰の気が清められていく。とは言え傷に響くのでやめてほしかった。同時に叩き付けられる思念の渦も、罵倒と称賛と怒りとがない交ぜになって何を伝えたいのかが判然としない。とにかくうるさかった。そうとは言うものの、自分がやらかした無茶苦茶の事を考えると強く出る事もできないであろう。
焦燥は綺麗に無くなっていた。当面の危機は脱したのだ、水面に体を起こすと頭を振って滴を飛ばした。正直に言えば動きたくなかったが、まだ終わってはいない。
体を修復しつつ彼女の背に這い登る。
剣は手に無かった、だが、望めば今まで以上の力を引き出せる事が感じられる。恐らくは、核となっていたヒュドラを喰ったせいであろう。みなぎる力は文字通り、竜種のそれを喰らった物だ。
「言いたいことはあるだろうが飛んでくれ、後始末だ」
(貴様なぁ……だが、確かにその通りだ。やることが残っている)
呆れた気配を滲ませつつティタナが言った。一つ荒々しく鼻を鳴らすと、力強く翼が開かれた。所々にこびりついたなんとも言えない色の染みは、敵の体液がこびりついているのであろう。嫌そうにそれを一別すると、水面から羽ばたきと共に彼女が浮き上がる。ゆったりと羽ばたく彼女からも焦りは感じられない。
上空のあれからは、邪悪さを感じ取ることが出来ない。悪意の残雫は残っているようであるが、然程問題にするものでもない。
高みに見えた赤い光点。近付くにつれて、その正体が見えてきた。高度にして二千m程か。辛うじて鳥が飛べるであろう上空に、それはまるで空間に縫い止められた肉塊の様な有り様で固定されている、かつては人形をしていたであろう燃える蠢く屍だ。。
黒い野太い呪詛に絡み付かれ、身動きをとる事の出来ぬままにびくりびくりと身を震わせる娘の姿。何処か蜥蜴を思わせるその姿は、形容しがたいままに破壊され辱しめられ穢されていた。
体孔という体孔は破壊されている。内臓はそこから掻き乱され、脳髄も神経もまるで違う何かに作り替えられている。手足は生きたまま腐れ果てていた。肉とも筋とも骨ともつかぬ赤黒く青白い何かに変わり果てたそこから滴る、燃える血が痛々しい。幾つもの穴が追加された肉体は、その経緯を知らなければただの挽き肉にしか見えなかったであろう。二つの眼窩からは眼球が抉り出され、今はぽっかりと昏い孔が穿たれ燃える体液を止めどなく流している。
元々美しかったであろうその容貌は、徹底的に破壊され原型を思わせる物が骨格しか残されていない。二目と見れず、一目見れば永劫に脳裏に刻み込まれ、常に見たものを狂気へと導くであろう。およそ考え付くおぞましさの数倍は人の正気を犯す物に作り替えられていた。
そして、何より悲しくも狂気に導くのがその表情である。破壊され尽くしたその顔が笑っている、それがはっきりと此方に伝わってくるのだ。安らかとは言い難いものの、やっと正気を手放せる喜びに綻んでいた。
終わらぬ悪夢、恥辱と腐臭に満ちた、狂うことの許されない忌まわしく呪わしい陵辱から解放され、その瞬間に思考と精神を己の望み通りに微塵に崩壊させた成れの果ての、かつて高潔であったが故の喜びに彩られていた。
それらすべてが実に妖しく、怪奇的で狂気に彩られていた。
正常な精神では理解できない、だが、だが確かに異界の美とでも言うべき狂気の美学が其処には存在していた。
(シルバ)
見るに耐えぬと思念すら震わせて、切ってやってくれと、彼女が望んだ。
それを受け、剣を己の内から抜き放つ。声には出さず、冥福を祈ると、サラマンドラを縛る呪詛のみを丹念に切り裂いていった。空間に縫い止める最後の一綴りを絶つ前に、小さく一言だけ告げた。
「葬送ってやれよ」
友達だったのだろう。そう言葉の端に乗せると、彼女は一つ大きく首を上下に打ち振った。
「剣で、と言うのはもう終わった話だ」
嘗ての伝承に因れば、サラマンドラは山火事に生まれ変わると言う。であるならば、炎で送ってやるのが筋道と言うものであろう。
呪縛は絶った。
これであれば、再び縛られる様な事もあるまい。
細く長く、ティタナが炎を吹き付けた。抵抗する意思などないサラマンドラの肢体が、輝きの強い炎の中に崩れて消えていく。今度こそ、今度こそ確かな歓びの歌が聞こえた。穢れも不浄もない、霊素を燃やしたら真火が、最後の一欠片までサラマンドラを浄化していく。それはまさに浄火による火葬であった。




