5.
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耳に懐かしい、聞き覚えがある声だった。
歌う様に呪うように、昏い悦びの喘ぎが聞こえる。淫らで怪しく快楽に耽溺している。だが、それが望まれたそれでないことは明白であった。
犯されているのは魂だ。
穏やかで清潔で高潔であった彼女の魂が。望まぬままに穢れた快楽という、凡そ人形の者であれば耐え難き刺激であるそれを直に神経に脳髄に心に流し込まれ、理性の全てをかなぐり捨てて誇りも意志も忘れてしまえば楽だと言うに、それを赦されず心を正気で束縛されるままに、陵辱されるという甘い腐臭に満ちた絶望を啜られている。
既に生命と呼べるものではなく、最後の尊厳たる死の域にも無い。ただ穢れとしての終焉に飲まれたまま、廻る万物の輪にも霊素の循環にも乗れず、淫靡な呪縛が為されている。それは、おぞましき腐乱死体に腐臭と悪寒と反吐と糞便とはらわたの混じりあった汁に浸りつつ強姦輪姦されつつも、正気のままに絶頂させ続けられる事そのものだ。
怒りだ。怒りを覚えた。
それはたちまちの内に膨れ上がり、我が身すら焼き尽くす業火に変わる。
怒りだ。怒りに震えている。決して赦さぬ。必ず貴様を輪に還す。消滅させて理に納める。
耳に染みる懐かしい声は、永劫に続く断末摩と等しい。確かな声を最後に聞いたのは何時であったか。地に潜む火の精霊王であった彼女と、最後に会したのは。
ぐらぐらと沸き上がる釜は既に蓋をどこかへと飛ばしている。抑えることは出来ないし、必要もない。
シルベスタを乗せて飛んだ。一足で可能な限りの高度へ、雲を突き抜け嵐を食い破り、鳥すら飛べぬ高空より敵と周囲を睥睨する。がちがちと食い縛った歯武者震いに鳴る。
目標は身を震わせて、上に乗った物を落としている様子であった。
あの岩塊は垢のような物か。何でも構わない、一切合財のあまねく全てを消滅させる。男の張った結界が敵との射線を通す。
シルベスタが嵐を呼んだ。たちどころに水の精霊が王の呼び掛けに答え、大気に満ちるシルフの僕に呼び掛け巨大な積乱雲を作り上げる。
おお、その雲の威容よ。何とも勇ましく雄々しいことか。
高く高く純白に輝き、あらゆる光を遮って海面に暗い影を落としている。
ごう、と風が巻いた。敵の呪われた紫雲を吹き散らし、迸る力は火山雷の如く。沸き上がるその中で際限無く威力を増大させている。
輝きは黄金のそれ、だがそれすら漏れ出でる余波に過ぎぬと知れ。
自然現象を遥かに凌駕する陰陽の電子が、結界に阻まれつつ急速かつ迅速に蓄積されていく。それは、国一つ飲み込む水を湛えた堤に、致命的な皹と爆薬を仕掛ける作業に等しい。
「呼び水は引く、やれ!」
(おお!)
蓄積されたそれが男の制御から解き放たれた。世界を白く染めつつ周囲の全てが霊素に還元される。音など最早感じない、障壁の向こう側で、それでも目のくらむような世界に響く衝撃だけが届く。
途端目前に口中に体内に展開されていた魔術回路に、制御可能か危ぶまれる程の霊素が流れ込む。
臨界までものの数十分の一秒、現出した端から空間を燃料に熱量へと変換する光、霊素の大部分は制御のそれだ。解き放たれた瞬間に無限に燃え拡がる無限熱量に、方向性を持たせる物だ。空間に満ちる霊素すら燃やしながら、終末の光珠が海に落ちる。
着弾まで一秒もない。
あらゆるものを巻き込みながら、直径にして六kmが消失する。万象を燃料に荒れ狂い燃やし尽くしたそれが、その熱量を燃料に高次世界へと熱量を転位させる。
空間にぽっかりと巨大な孔が開いた。何もかもを消し去った筈だというに、終わった気配は存在しない。空間の中心に残された揺らぎが徐々に拡大し、再び悪魔をこの世界に産み落とした。
シルベスタが海水を制御したのであろう、未だ水の戻らぬ空間に、音もなく巨体が軟着陸する。これも男の仕業か。三千mの高空から数千mの巨体が地に落ちればその振動だけで湾岸が百度は滅びる。男の配慮は当然であった、また、あれだけの空間に海水が流れ込めば、反動で巻き起こる津波はパレテスはおろか内陸のかなりの所までを滅ぼすであろう。特に河川域は甚大な被害を被るし、その利便性ゆえに傍らに都市の多いエラリアでは国家存亡の危機に陥るであろう。
あちこちから煙を吹き上げるのは先程の残り火か。
緩やかに海水の流れ込む空間に、まるで重油の幕が拡がるように、ゆるゆると巨大な翼が広げられる。
飛ぶのか、その巨体が。
その大きさは男の制御した空間を遥かに超える。翼長にして八kmを超えるであろう。如何なる魔理法則が働いたものであるのか、羽ばたき一つでそれはゆっくりと浮かび上がった。
高空から見ている故にまだましではあるが、文字通り島一つ飛び上がった様な物だ。下から見れば余りの巨体に一目で絶望するであろう。如何なる生物とも似つかぬ怪奇かつ醜悪なその姿。虫とも蝙蝠ともつかぬ文字通り天を覆う翼が緩やかに巨体を運ぶ。
緩やかにとは言え、その移動速度は相当な物だ。羽ばたき一つで島一つ分の影が移動する。つまり三十秒で六kmは進む計算である。このまま飛べば一時間と掛からず、奴はパレテス上空に到達するであろう。そうなれば、視界を席巻するこやつの影だけで街は発狂し壊滅する。
「“嵐よ”!」
再び風が巻いた。此度は貴奴を台風の目に。
成る程暴風雨を目隠しに、街から姿を隠すつもりであるか。
周囲の霊素を用い、天を突く様な威容の氷柱を作り出し敵影に射掛ける。だがそれすら巨体を相手にしてはまるで蜂の一刺しであった。着弾する頃にはまるで見えぬ程に小さくなる。否、小さく見える。人間に爪楊枝を射掛ける様な状況であった。
ばらばらと腹の下から何かがこぼれおちている。砂粒の様に見えるそれらがたちどころに向きを変えて此方へと飛来する。異形の美に彩られた、悪魔共の空中母艦。放り出される様に産み落とされる物は、飛行型の悪魔か。どれもこれもが空中で姿勢を変え、編隊を組んで此方に鼻先を向ける。虫のような、山羊のような狂気に満ちた愛らしい声を上げながら。
「“雷よ”!」
声を合図に無数の魔方陣が展開される。描き出されたそれは雷挺の釣瓶打ち。紫電煌めかせながら、紫の輝きが飛び来るそれを撃墜する。
ふと、視界の端、巨体の背中から何かが射出された。空気を裂いて脅威が迫る。飛来するそれらよりも速く、直線的な動きで此方に襲い来る。翼を大きくうって回避する。
目があった。飛んできたそれは、私と視線を合わせると、さもあたらず残念であると喚きつつ、手足をばたばたと振り回しながら彼方の海面へと回転しつつ墜落していった。
おぞましきかな。この化け物は、おそらくその身の信奉者を転移にて呼び寄せ、歪にもそれを力付くで此方に投げつけているのだ。
男の稲妻と、私の火でその身を鎧っていた呪式は消滅したのであろう。当てれば攻撃は通っている。苦痛の悦びの歌に交じる。
焦りもあるのか。此方が近付く素振りを見せると、有無を言わさず恐ろしい数の生きた弾幕を展開する。肉体的な限界からか、半数以上が肉体を射出の圧力と大気の圧力とで破壊されながら、赤い霧を引きつつ飛んでくる。留まっては居られなかった。
次々に襲い来るそれを翼の力で回避すると、空間の魔素を吸い上げて火炎を吐いた。先程の様な強烈さはない。だが、いつかのキマイラ程度であれば一撃で消滅する規模のそれが、敵の本体に当たり小さな小さな着弾炎を上げる。
思わず首をかしげた。その余りの巨体に距離感が狂わされる。
徐々にではあるが敵の射撃が正確になってきた。掠めるように飛来する半魚人を、咄嗟にシルベスタが撃墜する。欠片でも当たれば鞍もない背、確実に彼は撃ち落とされるであろう。障壁を張った。途端動きが鈍ったのか、無数の赤い花が空間に咲く。
これは駄目だ。障壁にへばりついた死体で視界が限定される。振り落とされるな、そう思念を送って速度を上げた。弾幕を掻い潜り敵に接近する。
そこで、やっと敵の正体が見えて来た。
蛭ともヒュドラともつかぬ首、カタツムリの様で在りながら牙がある。ぬめぬめと蠢くその数も数えたくない数の首は、それぞれが別個の意思を持つ様にのたくっている。違う方向へ行こうとそれぞれが動くのか、付け根は裂けて血が滴っていた。
頭と思わしき部位に目は無い、頭だとしても、的が多すぎて狙い難い。しばし観察するように周囲を飛行する。
衝撃に視界がずれた。
何処だ。腰か。遅れて久しく感じた事のない激痛が襲ってくる。狙い撃たれたのか。混乱する判断力とは別に、獣としての本能が体の異常を見聞する。尾は動く、足も、重傷と呼ぶべきかもしれないが、生命活動に問題はない。ただ、その部分の鱗が軒並み砕けて肉が裂けている。足指こそ動くものの、筋肉組織の被害は相当に甚大だ。
半霊体とも言える体に神経がどうこう影響するかは解らないが、これが背や頭であれば一撃で死を見る事になっていたかもしれない。
ほっと息を吐いた時に、背中の軽さに鱗が逆立つ。見れば既に数百mは下に、男が落下して行くのが見える。声にならない悲鳴が漏れた。慌てて身を捻り、たまさか襲い来た編隊を爪で引き裂きながら急降下に移る、およそ三秒で拾い上げる事が出来た。心臓が早鐘を打っている、詫びようと頭をもたげて、背中に伝わる気にするな、との思念に頭を垂れた。
随分と高度を下げてしまった。見上げる程の位置に来た敵影に、強烈な圧迫感を感じる。行き掛けの駄賃とばかりに、敵の射出孔に炎を吹き付ける。
そのつもりで下側に潜り込んだ時、不意に強烈な視線を感じた。
上だ。
胸に当たる部分か。巨大な目が、それこそ数百mはあるであろう眼球が覗いている。
唇が釣り上がったのが解る。気色の悪い的ではあるが、この程度でどうこうなる程柔な乙女でもない。
(上だ!)
「おうさ!」
即座に反応した男が、背負いより長い鉄槍を取り出し組み上げ、それを投擲する。狙いは違わず、血走ったその巨大な瞳の中央に突き立った。暴風の様な風を起こしながら、その巨大な瞳が瞬きをする。女の様に長いまつげが、付近の編隊を巻き込んでばらばらに引き裂いた。
大きさからすれば角膜を貫通したかどうかも怪しい所であるが、狙いはそこではない。
「――― “連なりて撃てよ、猛き雷よ”!」
力ある言葉が解き放たれ、一斉に放たれた雷の矢が先に突き立った槍めがけて殺到する。剥き出しのそこに集中した力が、涙に拡散される事無く神経を焼き尽くす。
聞くだけで死んでしまいそうな絶叫が全身を叩く。何処に口が在るのか、そもそんな音が何処から出されたのか。今はどうでもいいことだ。
気にすることなく、敵の編隊を叩き落とし、焼き尽くし引き千切る。
やがて内側をかけていた雷が、体内から体表へ、体表から海面へ、敵編隊へと襲いかかりだした。血涙と鼻血を流しながら、男は雷を放ち続けている。
そっと彼にシルフの僕が寄り添うのが解った。なるほどこの男、どうやら味方には事欠かぬらしい。
そも雷撃使い、シルフの眷族とは縁深き男である。
(ウンディネの眷族よ、力を貸せ!)
下方の海に向かって吼える。効果は劇的であった。ざわめきはたちまちに荒れ狂い、水霊が今か今かと待機する。そも王の力は男の身に取り込まれているのだ。眷族が、僕が力を貸さぬはずがない。
「“水霊よ、敵を穿て”!」
彼女らの囁きが届いたのであろう。男もきっと海面を睨み据えると、力ある言葉で呼びかける。
ごう、と、水煙を巻き上げて水柱が敵を貫通した。
幾つもの幾つもの水柱が立ち上がりそのまま敵を縦横に切り刻む。どれだけの圧力が掛けられているのか、水柱は上空数十kmにまで到達し、そこからゆるやかに世界に散って行った。
女の声が強くなる。
絶望を、苦痛を、快楽を引き出されているのか。その陶酔と堕落を啜られているのか。
怒りにまかせて吼えた。
目を覚ませ。
目を覚ませサラマンドラ。
火の精霊よ。
彼女の眷族よ、力を貸せ。
長い夢から、彼女を引き起こせ。
シルフの眷族が、自ずから雷を巻き起こす。ウンディネの眷族が、それに道を作り流す。
いつしかヒュドラの全身からは激しく煙が巻きあがっていた。ごうごうと吹き出すそれに、ちらちらと火精が舞い踊る。
だが足りぬ。
これでも足りぬ。呪縛を打ち破るためにもっと、もっと強い力が居る。
私の火は打ち止めで、男の呪文では火力が足りぬ。
翼は空を叩く力を弱めず、刻一刻と刻限が迫ってくる。
「―――ティタナ、奴の上に飛べ」
(如何にする?)
「知れた事、こうなれば直に叩きつけるまでよ!」
男の表情は窺えない、声にはきっとした覚悟が在る。
直接乗り込んで剣を振う。出来るのか? あの剣が失われた今。
「大丈夫だ、俺に任せろ」
心中の迷いを察したのか、男は短く言うと霊素を練り始めた。そこにそっと三大精霊の眷族が寄り添って行くのが感じ取れる。
何か手段があるのか。
(―――解った)
短く返し、一気に高度を上げた。
「背中だ!」
(応!)
一度高空まで上昇し、後に急降下に移る。直下に敵影。張り巡らされる弾幕は雲霞の如く。螺旋を描いて落下した。時折頬などを敵弾が掠めて行く。
「ぎりぎりで引き上げろ!」
(心得た!)
前方に投影された障壁が赤熱し始めた。隕石の落下に匹敵する高速で、眼下の敵がみるみる迫る。光の矢となって落ちる。
「今!」
(お―――な)
男の声と同時に向きを変えた。背面すれすれを腹の鱗が磨って行く。
背中に男の姿は無い。声をかけた瞬間に、小さく呟いて背から離れたのだ。
速度を殺しながら反転する。そこには黒く脈打つ巨大な魔法陣が崩壊する様と、赤く、だが何処か穢れた色で燃え上がる娘の姿。それから、海面から立ち上がった巨大な水柱の姿が見えた。
男が死んだとは欠片も思わない。繋がれた絆は、紋章は未だに健在であることを伝えてくる。
だが、心臓が痛いほどに締め付けられていた。
今、最後にあの男は何と言った?
あの男は、離れた直後に。
――――起きろ、レイマルギアス。




