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蝋燭と、鯨脂を燃やした灯り。
人が動くたびに揺れるそれらが、床に壁に化物の影を映し出す。多くの光源に影が混じり合う様子は、さながら海底に揺れる藻の様であった。
古色蒼然とした店内は雑多な喧騒に溢れている。大勢の声が壁に天井に木霊する。広さはかなりの物があるのであろう。しっかりと組み合わされた梁柱と、力学を感じさせる煉瓦の配置が高い建築技術を物語っている。
背景に流れる調子外れの歌といい加減な調子で掻き鳴らされる弦楽器、陽気な筈のそれらは、何処か悲しげで、気付かぬ内に足元に開いた、自分達ではどうにもならぬ落とし穴の存在から目を背け、ただ日常の享楽と酒精に耽溺するふりをしながら、小さく頼りなくなってしまった現実と常識に、笑いながら必死にしがみついているように見えた。
普段と何ら変わらない日常の風景から切り出された一コマ、いつも通りの夜会である筈なのに、少しつついただけで崩れてしまう、そんな砂の楼閣のごとき脆さと儚さが漂う空気には感じられた。
笑い顔を作りながらも、すっと頭の芯が冷えていく。緩やかさは無い。僅かに、などというものではない。日常の裏側に、それこそ足の裏程の近さに、影の様にまとわりつく異常が風に乗った腐敗臭の様に存在を匂わせている。男の笑みにも凄味が見える。壁の影を見詰める様に耳をすませた。
着席するとすぐに店の娘が給仕にやって来た。
何になされますかと問われるが、品書きを見た所で、事実として何があるのかが分からない。迷うのも億劫である。美味い酒と美味い物を、此方がもう沢山だと言うまで持ってきてくれと伝えた。
姿恰好はしっかりしているし、焦った風情や身を持ち崩した雰囲気もない。仕草には気品が在り、礼説も心得ている。娘もそんな客の身形を見て安心してはいるのであろう。とは言え一見の客である。何ら此方側の背景事情を知っているわけでもない。保証の無い客に、そう良い顔も出来まい。給仕の娘は少し困った顔をしてから、戸惑いつつも申し訳なさそうに口を開いた。
はたして娘が何かを言う事は無かった。それに先んじて彼女の手をとり、私が一枚の金貨を握らせたからだ。
掌の貨幣の感触に訝しげな顔をし、そっと手を開いて目を丸くする。何か言おうとするのを、開いた唇に人差し指で触れて留めた。そのままその指を、自分の口元に持って行く。し、と短く言うと、彼女は心得た様に無言でうなずいた。
戸惑う娘に笑いかけると、魂を抜かれた様な顔をして此方を見詰めた。焦れた店主の声に我に帰るまで、数分は呆っとしていたであろう。
娘から金貨を受け取った店主は、器用にその場で飛び上がらずに飛び上がると、此方の視線も気にせず、まず金貨をかじり、続けて包丁で叩いて本物かどうかを確かめていた。
がっしりとした。目の大きい男だ。くるくると変わる表情が、嘘のつけそうにない人柄を偲ばせる。恐る恐るといった風情で此方に視線を投げるので、愛想良く笑って小さく手を振ってやる。恥は知っているのであろう。顔を朱に染めた後、深く頭を下げると、真面目な顔を作り、颯爽と厨房に姿を消した。
男の選んだ席は、具合良く店内の話し声があらかた拾える位置であった。無論、自分達の耳の性能があってこその話ではある。しかも、灯りと灯りの間にあり、互いの押し出しの強い風貌が目立たぬ席でもあった。
店にあるもので、とびっきりの物を用意してきたのであろう。銀製の、こった装飾のゴブレットと、ワインが樽で運ばれてくる。大雑把に汲んで乾杯した。一息に呷って熱い息を吐いた。
相当に酒精が強い。ワインと言うよりは、カクテルと言うべきか。気にせず次をぐっと干した。味と香りを楽しむと言うよりは、と言った風情の酒である。
最初に出てきた料理は、港付近の海老と魚を、玉葱に似た根菜と香草と一緒に油で合えた物。早く言えばカルパッチョの様な皿であった。
「川の魚じゃあこうはいかないな」
「ああ、鱒で出来ないこともないが、海魚には敵わない」
良く切れる刃物で、かつ新鮮な所を捌いているのであろう。薄切りながらきっちりと角の立つ魚の身を口に運ぶ。まず辛味と爽やかさ、次に油の豊かな風味、最後にこりこりとした歯触りと、魚の甘さ、海塩の美味さが口いっぱいに広がった。
「これは、たまらないな!」
「なあ」
なんとも形容しがたい渋い顔で男が言った。
「なんだ?」
「お前、鼻が利かないよな」
「ああ、それが?」
「味は……解るのか?」
「当たり前じゃないか」
「そうか……」
確かに鼻は弱いが、まったく利かない訳ではない。流石に口に含んだ物くらいは解ると伝えると、やはり男は何とも表現しがたい顔で酒を口に運んだ。
男が次の品を運んできた娘に声をかける。人付き合いは下手なくせに、こういう時だけは器用にやってのけるから不思議なものだ。
「これは美味いね、流石に海の側だけある」
「ありがとうございます! お客さん、山の方なんですか?」
「田舎者でね、海の魚なんて初めて食べたよ」
「そうなんですか? でも残念、最近は港の近くでしか魚が獲れないんです」
本当は、いつもならもっと美味しいのもあるんですよ、と彼女は言った。
「へえ、大事じゃないか」
「そうなんですよ」
「それはまた、なんで?」
娘は困ったように顔を萎ませると言った。
「少し前に大きな地揺れがあったんです。その後も何回かあったんですけど、それから沖で魚が獲れなくなったそうなんです」
「それじゃあ漁師は商売上がったりだね」
「ええ、まったくです。それでいっつも昼間っから酒飲んでくだまいてますよ」
警戒が薄れたのか、ややはすっぱな口調で店にいる男達を扱き下ろすと、腰に手を当てて娘は苦笑した。
なんやかんやと話しながら、ゆっくりと、かつ確実に料理を平らげる。二人とも底なしの穴の様に食える体だ、次の皿が来るまでには、綺麗に食べ終わっている。水でも飲むかのように酒も呷っていた。少しさみしそうに男が言った。
「ちっとも酔えないな」
「……そか」
失われた何かを儚んでいる声音である。喉を鳴らしながら杯を干すと、男はもっと強い酒はないのか、と給仕の娘に声をかけた。
既に樽に半分は残っていない。一抱えはあるそれだ、娘は目を丸くすると、瓶になりますがよろしいですか、と言った。構わないと男は答えた。
鯛に似た魚の塩釜焼きを突く。実に豊かな脂と塩の風味だ。火加減も具合よく、身はよく火が通っているのにぷりぷりとして美味い。これだけ大きい魚だと、どのあたりでとれるのかと問えば、娘は河口ですと笑いながら答えた。
どうにも私を見る視線に、色っぽい熱を感じる。かつては気が付かなかったのであるが、実は今までもこんな事があったのではなかろうか。
「……んなあ、シルバ」
「お前が女を口説いているんじゃあないかって? 自覚がなかったのか。それはそれは」
酒を変えて、多少は酔いが回ってきたのか。やや上機嫌の男がからかうように言う。うろうろと視線を彷徨わせた。口は半笑いで、なんとも我ながらしまりがない。
「ほんとか?」
「嘘など言わん」
重ねて問おうとした時、男が唇に指を当てた。視線は鋭く奥の卓を伺っている。
同じく耳を澄ませた。余計な音を拾わない様に、娘に頬笑みかけるのもほどほどに意識を澄ませる。
「……ってこないらしいな」
「……査隊の連中か、確か、新婚の奴もいたろ」
「ああ、可哀想に」
「呪われた島になんて行くから」
「しっ、めったなことを言うな、あそこは呪われた島じゃあねえ、海神様を祀る島だ」
「でもよ、おめえ」
「うるせえだまれ、それもこれも長く海神様を祀って労ってねえからだ。だからこんな事になっちまってるんだ」
「じゃあよ、どうすりゃいいんだよ?」
「しらねえよ、儀式官の方も同行してたんだろう? それが帰って来ないとなっちゃあ」
「十人も行ったのに、一人も帰って来ないなんてよ……」
それきり声は押し黙ってしまった。沈黙と、酒を呷る気配だけが届けられる。
皿に目を向けると、今度はスープが来ていた。貝と海老と、小魚をワインと香草で煮込んだらしき、コクのあるスープだ。
「これは……たまらなく美味いな!」
「どうしようシルバ、私はもう山に帰れる気がしない」
ひどく切実な声が口を突いて出た。
男は一度目と口を丸くした後、頭を振りながら陽気に笑って言った。
「その時はまた来ればいいさ」
「それもそうか」
部屋に戻ると、蝋燭全てに明かりを灯し、備え付けられていたテーブルに地図を広げた。
「それにしても、だ」
「ああ、結構な情報があったな」
本格的な調査に移る前に、酒場で聞き込みでもと考えていたのであるが、聞き込みの必要性を感じられなくなるほどに情報が手に入った。
曰く、先月より地震が頻発している。最初に大きいのが来て、次以降は体に揺れを感じる程度の物。
曰く、同時期に沖の魚が取れなくなった。以前は良い漁場であったディオス・デ・ラ・イスラ・デルマ(海神島)周辺に至っては、小魚の影すら見えなくなったと言う。
曰く、同時期に、半島の裏側にある漁村との連絡が途切れた。
曰く、夜間に異様に磯臭い霧が出る様になった。
曰く、船底を長く大きな物が擦って行った。
曰く―――
「調査隊にとして派遣された儀式官含める十名が、連絡を絶った、か」
「当たりだな、海神島とやらに何かが在る」
地図に島らしきものは描かれていない。おそらく、地元の人間しか知らない様な場所なのであろう。
「一度渡ってみないとどうなのかは解らないが。……この状況では、船を出してくれる人間を見つけるのが大変そうだな」
「船を借りて自分で漕ぐのが一番早いかも知れないが……」
「シルバ」
「あん?」
「貴様、浮かないだろう」
「それなんだよ、沈められでもしたらと思うとだ、小さい船と言うのは少しな」
話し合いは明確な方針を打ち出さないままに終わった。先日も思ったものであるが、焦燥も危機感も感じないのは、此処が郷里ではないからであろうか。
一声かけて、眠ることにする。
眠ることも必要ではないが、人の形をしている以上、眠る事はヒトという精神のカタチを保つのに不可欠である。今まで当たり前に行っていた事というものは、考えている以上に重要であるのだ。例えそれが、機械の電源を落とすような味気ないものであったとしても。
人のざわめきに目を開けた。
木窓を押し開き、下の道に目を向ける。しっかりとした作りの、紋章が描かれた馬車が止まっている。
「貴族かな」
「パレテサッツィオ卿の紋章だな」
僅かに見て、正体を看破すると、男は身支度を調えて言った。
「行こう、恐らくだが、用向きは俺達だ」
「へえ、知り合いか」
「昔世話になった」
窓枠に頬杖をついたまま、眉だけ上げて返答する。街に到着して以来、目立つ真似をした記憶は無いのであるが、どうやら思っている以上に目立っていたらしい。
世話になったと言うからには王宮での話と察しをつける。
久し振りの寝台に別れを告げると、私は己の体に、失礼ではない程度に堅い装束を被せた。
「ガーデンツィオ卿! 久しいな!」
「お久しゅう、パレテサッツィオ卿、御変わり無いであろうか」
階下に下りると、男があまり見たことの無い顔で、長身だが痩せている、武器を振るう体ではない、壮年に差し掛かった男と抱擁を交わしていた。今一つ未だこの国の挨拶に慣れないが、どうしてこうも山ひとつ越えるだけで挨拶が変化するのであろう。
「良く此処がお分かりに」
「相変わらず自覚のない男だな、此だけの図体が街に入れば俺のところにも報告が来る」
屈託なく笑うと、パレテサッツィオと呼ばれた男は此方に視線を向けた。
「彼女が件の美姫か、なるほど、この方は確かに美しい。お前が竜から奪ってくるわけだ!」
シルベスタはそれを聞いて、何とも形容しがたい表情で、獣が威嚇するように笑うと体を此方に開いて言った。
「ティタナ、此方がベルナルド・パレテサッツィオ卿、この港町パレテスの領主であり、俺の学問の先輩に当たる。パレテサッツィオ卿、此方がイリ・クトロンニク・コロマイディズ・オ・ティターニア。察しの通り、俺が竜から奪ってきた竜の巫女だ」
「ベルナルド・S・パレテサッツィオと申します。ベルナルドと御呼びください。美しい方、お見知り置きを」
「どうぞ私もティタナと御呼びください、ベルナルド様」
どうせ朝食はまだだろう。そう言うと、ベルナルドは馬車に乗るように我々を案内した。
「屋敷で食おう、とびっきりのを約束するぞ」




