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竜は夜に飛ぶ  作者: dora
第六章 雷挺よ、深淵を穿て。
57/66

1.

 遠く、近く、波濤の岩に砕ける音が響く。

 じっとりとした空気の中を、汗を拭いながら歩く。背負った機材が肩に食い込んでいる。ゆすり上げて血のめぐりをマシにしようとしたが、すぐに肩ひもが食い込んで痛みを訴え出す。

 早く終わらせて、酒でも飲んで寝てしまいたかった。

 足場は良くなかった。うっかりと足を踏み外せば、フナムシの群れに飛びこむ羽目になる。踏み出すたびにざわざわと地表が蠢いている。一面のそれはひどく怖気を誘った。


「おい、そろそろ目的地に到着するぞ」

「ああ、やっとか」


 相方の声に、顔を上げる。ぐねぐねと不気味な岩が得体の知れない角度で生えだした岩肌に、何時何処の物とも知れない文字がびっしりと刻まれている、意味は解らないが、ひどく冒涜的に思えた。


「あんまりそこいらをじっくり見んなよ、おかしくなるぞ」

「あ、ああ……すまん」


 頭を振って、歩きだした。

 まったく不気味な場所であった。魔法王国の時代より、数百年は後の遺跡のはずだと言うに、まるでもっと古い様な風情を醸し出している。それは、この遺跡全体に漂う、まるで自分達とは思考形態が違う、相互に理解する事が不可能である様な雰囲気のせいなのかもしれない。

 そもそもこの遺跡の作られた目的自体が危険な代物なのだ。

 ここは、魔法王国が滅びた後に、突如海から現れた異形の多頭竜を封じた神殿だと言う。

 なんだよそれ。

 内心で吐き捨てた。

 多頭竜という時点で充分に異形だと言うに、異形のと形容する意味が解らない。

 詭弁であった。

 事前調査の段階で、残されている資料を確認したのであるが、そこに描かれていた姿は、まさしく自分が今現在まで、常識と現実の中で生きて来た事を感じさせつつも、突如その基盤がまるで虫の抜けがらの如く容易く崩壊し、背徳的で冒涜的な悪夢の渦中に叩き込まれ墜落した事を実感させるのに相応しい代物であった。

 そこにあったのは精神の均衡を失った画家が描いたとしか思えない、狂気と汚辱に満ちた我々と異なる世界から来たと思しき邪神の姿であった。


「―――ぃ、おい!」

「……と、すまん、なんだ?」


 ふと気が付くと、相方が肩を揺さぶっていた。

 嫌に暑い。袖で額を拭うと、べちゃりと何かのつぶれた感触がする、顔をしかめてそれを見た。何かの幼虫を纏めて潰してしまった様であった。


「しっかりしてくれよ、お前がおかしくなっちまったら、俺はお前を担いで帰らなきゃならんのだぞ」

「すまんすまん、とりあえず、帰ったら一杯奢るから勘弁してくれ」

「いーや、二杯だな」

「はは、解った。了解だ」


 頬をぴしゃりとはたいて意識をはっきりとさせた。

 そもそもこんな場所に来る事になったのは、昨日の地震のせいである。

 件の―――の封印以来、地震など終ぞ経験した事の無かった港湾である、上層部でただちに異神との関連性が取り沙汰された。

 何もなければ良い、何もなければ笑い話で済ませる事が出来る。きっと何もない。後で笑い合おう。そんな、前提で組まれた調査団である。十人で五組を作り、自分達はその内の一つであった。

 それほど大きくは無い島である。元来人間の立ち入りを禁じて来ただけあって、その異様な島影は人をそれこそ拒んでいるかのようであった。

 船を付けるのも一苦労であった。そもそも港など存在せず、岩場に半ば乗り上げる様にして船を寄せたのだ。


「早く終わらせて、エールでも飲みに行こうぜ」

「ああ、そうだな、どうせ取り越し苦労だ」


 笑いあって、ふと相方の目を見た。

 ぞぞ、と、全身の毛孔がすぼむ。目が笑っていない。べたべたと臭い、脂汗に塗れている。細かく震えている。そうだ、相方も気が付いている。この島の異常さに。

 そうだ。そもそもの前提が間違っているかもしれないのだ。

 何もないはず。何も起きていないはずだ。

 だが―――本当に何も起きていないのであろうか?


「……見えた、あれが封印式を納めてある祠らしい」

「ああ、あれ―――か」


 耳元でどくどくと鳴る血流がひどくうるさい。見た物を信じたくないが、此処まで明確では信じざるを得ない。

 

「……なんてこった、あああなんてこった!」


 言葉も出なかった。

 祠が崩れている。否、崩されている。まるで冥界からの呼び水がごとく、穢れた色の水を湧き出させながら、もともとは封印の呪式が刻まれていたであろう石板が砕かれている。

 全身が、魂が恐怖に震えた。


「あれが起きる」

「あああああああ」


 失禁した。口からは情けない声がただただ漏れる。いつの間にか泣いていた。ざわざわと不気味な音が聞こえる。いつしかそれが声である事に気が付いた。声は相方の口から聞こえてくるようであった。


 ―――ぐん ねる くす あい あい きたり ぐるい ぐんとぅ いあ いあ れうぃえ れうぃえ

 ―――ぐん ねる くす あい あい まきり なふる ぐんとぅ いあ いあ れうぃえ れうぃえ


「な、なんだよ……おまえ、何言ってるんだよ?」


 ざわざわと肌が粟立ち、それが細波の如く全身を巡った。いつしか怪異は周囲全体に広がっている。はっとして、周囲を見渡した。

 目だ。

 岩の陰から、木の陰から。

 無数の血走った眼が此方を覗いている。

 指だ。

 不気味にはいずる芋虫じみた、赤銅色の漁師の指が、爪が剥げるのも構わず岩肌や樹皮を掻きむしっている。

 がりぎりがりがりぎり。

 口から胃の中身が噴き出した。あまりのおぞましさに、内臓が反乱を起こしたかの様であった。

 女の声が聞こえる。それはそれは美しい声である。声は啼いていた。苦痛と快楽に喘ぐ、淫らで官能的でありながら堕ちた声であった。絶望に満たされていた。無限に続く真におぞましい境遇から決して脱出できない事を知り、その上で発狂する事も出来ず正気で狂わせられ続ける事を理解させられ、事実解放される事無く犯され冒涜され続けている事が解る喘ぎ声であった。


 ―――ぐん ねる くす あい あい きたり ぐるい ぐんとぅ いあ いあ れうぃえ れうぃえ

 ―――ぐん ねる くす あい あい まきり なふる ぐんとぅ いあ いあ れうぃえ れうぃえ


 今やその声に唱和するかの様に、意味の解らない祝詞があらゆる方向から聞こえてくる。

 それもそのはずである。既にその冒涜と狂気に満ちた言霊は、己の口からも自然と湧き出していたのであるから。

 顔がびくびくと引き攣った。

 なんて恐ろしい、何が恐ろしいのか解らないがそれでも恐ろしい。暗闇の中で、得体の知れない異形に追いかけられる方がまだましだ。

 自分がゆっくりと狂気に犯されて行くのを、正気のまま見つめねばならないなんて、恐ろしすぎて気も狂えない。

 気が付けばげらげらと笑っていた。口からはただ背徳の祝詞がこぼれている。

 視界が大きくぶれた。

 また地震。

 それだけを認識した後に、何か巨大な物が自分にのしかかってきたのを感じ、男はひしゃげて島の一部になった。





1.

 蝉の声が聞こえる。木立の中から、そこいらから、短い夏を謳歌する様に、精一杯の声が響いている。生命の情熱と勢いに満たされた大気の中を、私達は歩いていた。

 ちらりと男の姿を伺う。目に映る姿は今までと何ら変わらない。だが確実に何かが変わっていた。

 以前であれば、此方の視線に気が付くと、目を合わせた上で、ひょいと眉を動かし、無言のままに「なんだ?」と問いかけて来た気配が今は無い。視線に気が付いているのかいないのか、どこか茫洋とした目つきで遥か行く先のみを眺めている気配が在る。むしろ、その視界に何かが映っているのかすらあやしく感じられた。

 男の背に剣は無かった。

 外面だけ見るのであれば、荷駄つきの人足に見えない事も……いや、剣があろうが無かろうが、確実に戦士にしか見えない。この肉体で、他の何かであると言えば百人中百人が嘘と答えるであろう。

 だが。レイマルギアは、確かにあの瞬間から失われていた。

 


 

 死を覚悟した。

 異様な力の高まりを感じ、その場に急いでみれば血まみれの男が居る。すわ何事かと近付けば、見事に意識の外側から、砕けた右腕での一撃が私の首を狙っていた。

 死んだ。私がそれしか考えられない中、男は瞬間的に正気に戻ったのであろう。鞭の如くしなる右腕を左手で引き戻す、ほんの薄皮一枚の差で、私の命は救われた。

 だが、その先にあった光景は、私の想像を絶していた。

 何しろ壮絶な自殺だ。身の丈ほどもある大剣、その柄を握ったまま、自らの心臓を貫く。まるで子供の描いた悪戯書きの様な悪夢じみた光景が記憶をよぎる。

 自失は刹那の間に終えた。

 助けねば、そう踏み出そうとした時に、男が光った。

 ……何度考えても、そうとしか表現が出来ぬ。

 目が眩んだ。あれは、そう。男が全身を霊素と魔素そのものに分解したかの様な輝きであった。そこでどのような作用があったのかは、男にも解らないらしい。ただ、確かに食い合いが在った事は確かである。結果的に男が勝った、と思いたい所であるが、彼の姿を見る限り、完勝であったとは言い難そうであろう。

 光の乱舞は数十秒続いたであろうか。空間が落ち着いた時、そこには襤褸屑になった男の姿が在った。

 両腕は砕けて腫れあがり、あちこちから血を噴き出している。

 抱え上げて、走り出した。最早路銀どころの話ではない。とにかく落ち着ける場所を、そう考えて、街道のすぐ近くを疾駆する。

 猟師小屋らしきを見つけたのは小一時間も経た頃であった。

 心配どころの話ではなかった。今こうしている間にも、男の体が冷たくなって行くのでは。そう考えると死にそうな心地になった。

 とにかく傷の手当てをせねば。力任せに衣服を引き裂き、男の状態を確認すべく全裸に剥きあげる。


「これ―――は」


 どういう事であろうか。確かに男は自動化された治癒の呪式を己に仕掛けている。だが、あれは此処までの重傷から復帰できる程の物ではなかったはず。

 傷跡こそ残っている物の、胸の中央には細く長い傷跡、背中にも同じ、確実に心臓を貫いたそれ。男の体の傷自体は既に癒えていた。


 四日の間、猟師小屋で私達は時を過ごした。

 男はなかなか目覚めない。生きているのは間違いない、だが、魂が抜けてしまったかのように、半眼を開いたまま覚醒に至らない。酷く胸が騒いだ。

 命は繋いでいる。しかしこのまま目覚めぬのであれば、それは死となんら変わりはないではないか。

 背筋に氷を滑らせられている気がした。

 それは嫌だ。御免被る。やっと出会えたもう一人なのだ。たった一人の貴様しかいないのだ。

 濡らした手拭いで肌を拭ってやった。男の荷物から干し堅焼きパンを見つけ、咀嚼して口移しに飲ませてやった。三日が過ぎて目覚めなかった時には、このままこの場で自分も死んでしまうのではないかと言う気分になった。

 小娘の様に泣いた。ぼろぼろと涙をこぼしながら泣いた。泣いて泣いて一日中泣いて、大声で泣いて泣き散らして、気が付けば泣き疲れて眠ってしまった。



 腫れぼったい目をこすりながら顔を上げる。いつの間にか意識を無くしていたらしい。睡眠など必要のない筈のこの身に、それだけの負担を強いるとは並大抵のことではない。

 どうやら無意識下で、自身を構成する因子すら男に流し込んでいた様子であった。


「……しるば」


 口から出た音に、胸がきゅうっと締め付けられた。

 こみ上げる何かに声が出ない。頭の中がこんがらがって、考える事すらできなくなった。涙腺が決壊したかの様に、また涙があふれてくる。

 そんな、ぎゅっと目をつむった瞬間であった。

 男の胸が、大きく上下した。それはまるで、それまで忘れていた呼吸を、たまさか思い出したかのように急激な動きであった。膨らんだ胸に弾かれて尻もちを着く。のそりと男が身を起こした。


「世話をかけた、みたいだな」


 しばらく此方を見つめた後、自身のてのひらを見つめながら、男は済まなさそうにそう言った。

 正直な所を言えば、礼も謝罪も要らなかった。

 私は、男がまた起き上がった事だけで充分であった。

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