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8.
吐き気がする。全身が震える。視界が熱くいびつに歪む。憤死しそうだ。なんて腹立たしい。何より自分自身の愚かさが恨めしい。
「失敗した。くそ、人に説教しておいてなんて様だ」
軽やかになんて歩けない、重力制御は地面にめり込まない程度、一歩行くごとにハイマツと岩が砕けて散る。
そのままつぶれてしまいたかった。穴が在るならそのまま誰かに埋めてもらいたい程。是非殺せる物なら殺してほしい。だが自殺する度胸なんて持ち合わせていない。
あんなに気合を入れる必要なんてなかったのだ。所詮谷間の崩落地帯、不格好で良かった、頑丈でさえあれば。人間に出来る範囲で良かった。何よりも優先すべきは理解できるかどうか。人間が共感できる範囲でなければならなかった。
「それを、くそ、なんて馬鹿だ」
過ぎて見れば子供でも解る話、人間に出来ない事を人間は恐れる。
結果、俺が為したことが善でも人々はそれを受け入れられない。過ぎた英雄など魔王に相当する。
アンドレ親方の言葉は正しい。あれが、あれこそが人間の反応だ。徒弟の目を見たか。あの連中の視線からすれば、それでも控え目な、怒りと拒絶の中にも配慮のある始末だった。
俺は、情けを掛けられたのだ。
―――『 』君のやることってさ、独り善がりなんだよね―――
瞬間脳裏を過るのは、かつての生で言われた言葉だ。
ばぎきぎと食いしばった歯が鳴った。歯茎と鼻腔から血が噴き出したのが解る。おかしいと感じる余裕は無かった。感情の制御が失われている事も。
剣を握る手は痛い程に握りしめられている。空いた左手からは爪が肉に食い込んで血が流れ落ちている。痛みなど感じない。それよりも己が腹立たしい。
「ああそうだとも、如何にもその通り。俺がかつて孤立したのは、誰のせいでもなく自分に共感性が欠けていたからだ」
視界の歪みが更に赤く濁った。
そうだ、自分は特別だと思い込んだ。それで周囲を見下し、本当は自分が見下されている事に気がつかないまま孤立して行った。何処でもそうであった。行く先々で特別だと勘違いした。唾棄すべき記憶であった。
そして今、またも孤立しているのは、その欠点を克服できず、そのままに生きてしまったからだ。
人と交わる事を怖れ、人と戦う事に道を見出だしてしまったからだ。
何が英雄だ。
まったく嗤わせる。その実態はただの孤独だ。社会に適合できなかった人間の成の果てだ。その結果失敗した。結局今回も独り善がりだ。
自己顕示から生まれた歪みは自己嫌悪に発達する。なんだ餓鬼が。これは承認欲求か、今さら誰かに認められたかったとでも言うつもりか。
今更、それこそ今更だ。そんな生き方だって選べた筈だ。養父の剣を継いだ上でも。
近衛に残り国を守り立てていく事も出来た筈だ。
選んだのは簡単な方じゃあないか。結局戦いに逃げた、その方が簡単だからだ。怒りのままに鍛え、それを憎い相手に叩きつければ良い。なんて簡単な生き方。この期に及んで創造的な生き方だと? それこそ馬鹿げている。
歯噛みした。吼えた。滅茶苦茶にしたかった。何より自分を、愚かな自分を叩き伏せたかった。
今ははっきりと霊素が見える。方法は理解していた、吼えるままに嵐を召喚する。高く高く、何もかも吹き飛ばさんと暴風を呼び起こす。
皆殺しだ。八つ当たりだ、そんな事は理解している。だから殺す。徹底的に殺す。一匹足りとも逃がしはしない。
全力を解放する、ああ八つ当たりだ。それでもぶつける、視界は既に真っ赤に染まっている。毛細血管が破裂したのであろう。頬を流れるそれは深紅の涙だ。いつの間にか走っていた。黒い猿が視界に映る。随分と大きい。自分と同じか、それ以上の大きさがあるであろう。
踏み込んで切る、勢い余って周囲の諸共ごと切り裂いた。制御できていない。それが苛立たしくて吼えた、空間が竦んだ気がする。更に吼えた。雲がたちまちにわきあがる、急速に世界が暗くなって行く。地上のあらゆる物を巻き上げるかのような上昇気流が立ち上がる。早回しで見る様に積乱雲が立ち上る。見ずともそれが判った。
嵐の術式は呼吸をするのと同じように使いこなせる。上空から雷鳴が巻き起こる。準備は出来た。闖入者に憤っていた猿達が不安そうに空を見上げる。印を付ける様に一頭一頭を睨んだ、文字通りの雷道が出来る。
手をかざして念じた。世界から色と音が消える。周囲数kmに渡って一斉に雷が降り注ぐ、音は最早音として認識されない。ただただ無慈悲な威力を以て雷挺が遍く世界を撃つ。
悲鳴は無かった。見える範囲の猿全てが絶命している。薪と同じだ、ただ猿の形の燃料となって弾けて燃える。絶命までに思考するだけの猶予は無い、一瞬で命が蒸発する、それだけが慈悲か。対抗できる物は存在しなかった。
遅れて豪雨が世界をもう一度白く塗り潰す。燃え上がる猿達が、豪雨のなか音をたてて崩れて行く。
滝壺の視界。身を叩く雷雨は一切を容赦しない。身を隠す術は無かった、万象一切を白く塗り替えながら雨と雷が敵を撃つ。
手の中の剣が不満げに鳴く。甲高い音で震えながら敵を求めて発熱する。だが刃に届くだけの敵はいなかった。視界に映った瞬間に雷撃が敵を殺す。雷神にでもなったつもりか。たかだか水の支配者の力を継いだだけだと言うに。
吼えた。ただただ吼えた。
その度に限りなく、水の代わりに雷が降り注ぐ。喉が裂けて口からも血がほとばしった。感知できる範囲の敵はものの数秒で消え去った。もはや目前に敵は存在しない。
彼方で黒い霧が湧きあがり、立ちどころに消失した。
ああ、何と言う事だ。唯一叩きつけられそうであった相手すら、誰かに殺されてしまった。
剣の鳴く声はいよいよ高く、このままではとても収まりそうにない。それならば―――
「―――ぐ、があああああああああっ!?」
右手に激痛が走ったのは、まさに敵首魁を討ち果たしたと思しき存在を殺しに向かおうと考えた時であった。
終ぞ感じた事のない痛みである。この度の生に於いて初めて得た激痛である。痛みのあまり手を放そうとして、剣が手から落ちぬ事に目を見張った。
「……なん、だこれは!」
突き刺さっている。突き刺されている。柄から生えだした幾億の針が、我が手指をことごとく刺し貫いている。
ただし出血は無い。掌から入り込んだ極細のそれらが、神経に絡みつき、なぞり上げ、愛撫し、焼け付く様な激痛をもたらしているのだ。
びきびきと音を疑似的に響かせながら、血管と筋肉、リンパと骨に棘が絡みついていく。
「あ、ぐ……あ。ぎ、があああああああああ!」
吼えた。吼えでもせねば堪えられぬ。感じた事のない痛みは内側から湧き上がるのだ。剥き出しの傷口を卸し金で磨るがごとく、板に打ちつけた神経に力一杯釘を打ち込むがごとく。爪の間に焼けた塩の串を突き込むがごとく。
痛みが、視界を赤と白のモザイクに塗り分ける。
顔面に衝撃が走った。いつの間に倒れたのか、顔に食い込んだ石が砕けて散る。右手を引き千切らんと左手で手首を掴んだ。右手は既に痛みのみで出来ている。いっそ握り潰してしまえばこの痛みから解放されるであろうか。
―――食われる。
明滅する視界の中、出た答えはそれであった。
一瞬たりとも意識は手放せない、これは剣の浸食だ。制御が出来ず暴走した剣が我と我が身を喰らわんと欲しているのだ。黒く視界が消えた後は徐々に痛みが這い上がっている。ぎりぎりでも意識を保っている間はそれ以上上がってはこなかった。
「く、があああああああああ!」
のたうちまわった、滅茶苦茶に振り廻した。叩きつけられた腕が岩を砕く。同時に骨も砕けた。分厚い筋肉に封じられて飛びださない物の、既に右腕は骨の無い生き物が如く、鞭の如く垂れ下がっていた。
激痛が走っているはずであった。それでも掌から手首にかけて湧き上がる痛みの方が強かった。
腰の後ろに吊るした短剣を引き抜いた、力一杯手首に向かって叩きつける。身に付けた技術はこんな状態でも健在であった。確実に肘と手首の中間で腕を断つであろう短剣はしかし、接触した瞬間にひしゃげてその役目を果たさなかった。
絶望が心を支配する、切断する事すら叶わず、意識を失えば痛みで叩き起こされる、しかもその範囲が拡がってしまう。
「シルベスタ!」
声が聞こえたのはその時だ。体が勝手に反応する。折れ砕けて鞭の如くしなる腕が彼女に切り掛かる。
ざっと血の気が引いた。それは駄目だ。それだけは許せない。例え自身が消滅しようと、それを行う訳にはいかない。
茫然と立つ彼女の首目がけて剣が走る。致命傷だ、首を刎ねるに確実な角度と威力である。
左手で、力一杯引き寄せた。剣の重量で腕は倍ほどの長さになっている。急激な制動で切っ先が此方を向いた。
構うものか。
そのまま引き寄せた。音を超える速度で剣が迫る。
良いだろう、上等だ。どうせ鞘の無い剣、いっそこの身を鞘とするが良い。
衝撃が体を貫いた。心臓が、確実に貫かれて鼓動を止める。
だがまだだ、まだ負けていない。
彼女の声が僅かに冷静さを呼び戻した。喰らいに来た相手なら飲み込んでやれば良い。なすべき事は簡単だ、この剣を砕いてしまえば良い。
ただ絶望的時間がない。
二秒だ。二秒しかない。
心臓停止から、脳が酸欠で意識を失うまでが二秒、それを過ぎればただ即座に死に至る。
思考を加速させた。ありったけの魔素と霊素で知覚を無限に引き延ばす。恐ろしい勢いで体内の黒い魔素が吸収されていく。
くそったれめ。負けてなる物か。
紡いだ事のない呪式を紡ぎ出す。出来た端から大気に解けそうなそれを、命を燃料に固定する。
思い描くのは剣だ。レイマルギアとは違う。文字通り、万物を切断する為の利器だ。
弾けた。数本の脳の血管が切れたのが解る。これはまずい、あと一秒も時間がない。それまでにこいつを殺さねば。
意識が、視界が漂白されていく。何もかもが失われていく。思考と記憶があやふやになる中で、完成したそれを存在しない腕で叩きつける。
彼女が何かを叫んだ気がした。だが、真っ白な世界では、その声もまた真っ白な音でしかなかった。
「よう」
声に、意識を呼び戻された。
目前に男が一人、後はただただ黒い空間であった。
むしろ、目の前のそれを男と表現できる物であろうか。
考えてみれば、ただ声の調子から男であると考えただけに過ぎない。
ただあやふやであった。
「やってくれたな」
何かを言っている。だが意味が判らない。
そもそもどうして此処にいるのかわからない。
なにより自分自身が何者なのかが思い出せない。
「おい? ……しっかりしろよ。なんだ、見かけと違って脆弱な魂だな」
何かを言われている。
だめだ、わからない。
「おい、おいおいおい、そんななりでお前、俺の器を砕いたってのか?」
器。
わからない。
「……仕方がねえな」
声は何かを呟くと、それだけは理解できるだろうと言った。
「お前、名前は?」
『 』
「そうじゃあない、それじゃあない。お前が今、呼ばれたいと思う名前の方だ」
なまえ。
なまえ?
『―――シルベスタ』
「そうだ、それでいい」
がきりとなにかが嵌った音がした。がちがちと部品が組み上げられて行く。
鋼が我が身を作り上げ、ぐらぐらと沸き立つ鉄が血管を流れ出す。
稲妻が神経を駆け抜け、呼吸する炎が力を呼び覚ます。
そうだ、俺の名は。
俺の名はシルベスタだ。
「ふん、まあ、いいだろう」
声は満足そうにうなずく気配を見せると、最後にこう言い残して消えた。
「―――俺の名はレイマルギアス。
これからも宜しくな、相棒」




