5.
5.
東の空から夜が迫る。周辺を警戒しつつ、家の前まで戻った。敵の姿は見えない、気配も届かなかった。斥候を残すだけの智慧があるかと思ったが、粘り付く視線こそがそれなのであろうと納得する。
アントニオはまだ座り込んだままであった。無理もない、ただの村人だ、魔獣の襲撃などそうそう何度もある物ではない。人間が一生に一度会えば運が悪い方であろう。ましてや土地に固着した民である。
腰に手を当てるとため息を一つついて、腕を持って引き起こした。
面倒なことだ。人間と言う奴は、家族と言う物に固執する。これは個体が弱いがゆえに、群れとして強力であろうとする本能なのであろう。かつては自分もそうであったのかもしれないが、今となってはそんな記憶も霧の彼方である。
自失したままの男を中に入れる。
暗がりと言うのは恐ろしい、私は見えているから問題ないが、男の動作が明らかに硬くなる。赤ん坊の様にいやいやする男を押し込んだ。明かりをわざわざ探すのも億劫なので、早速魔法を披露する事にする。この程度であるならば、触媒も長い詠唱も必要ない。文字通り意志を声に乗せるだけで干渉する。
「“照らせ”」
手始めに、掲げた掌に明かりを灯した。空間はそれなりに広い、天井はそのまま屋根となっている様子で高い。死角が出来るのは好ましくない。そう考えて、いくつかの明かりを浮かべる。
天井から、柔らかい光が注ぐ。他にもいくつか温かみのある色で明かりを灯した。幸い梁の上に敵、などということはない。人間は明るいとほっとする物だ。持続時間を考えて、幾つかの調整をする。
何もかもが壊されている様な室内に見えたが、隠れられそうな場所以外はさほどの傷みもなかった。何か腰を落ちつける場所を、そう思って見渡すと、幾つか壊れていない椅子が見つかった。引っ張り出してアントニオを座らせる。
うじゃうじゃと面倒だ。手際よく説明してしまおう。
「さて」
一つ息を吸って鼻を鳴らした。
取り繕うのもいい加減面倒になってきた。別段本性がまれて困る、等と言う事もない。早々に普段通りの話し方で済ませる事にする。
「貴様の家族だが、生死は半々だ、食われていなければ生きている」
のろのろと頭が此方を向いた。非難めいた視線が気に食わないが、そんな事は後回しでよい。いちいち気に止めず言葉を続ける。
「どの家でも抵抗した人間は殺されている、だが此処に血痕はない、少なくとも生きて連れ去られている。よって、これから救出の算段を考える」
一度上を見た、顔にかかる髪を、首を振って後ろに送る。そのまましばらく天井を見つめた。
探し出したいのは貴奴らの本拠地だ。人間が囚われているその場所だ。
「追い掛けるも、探して見付けるも現実的ではない。貴奴らは必ず此処にやってくる」
確信がある。男であれば、いかなる方法かを以て必ず撃退する。
見た目からして屈強な大男と、雌と貧相な雄の組み合わせであれば此方を狙うであろう。本能的に強い方を避ける、なんてことは考えるまでもない。
視覚が発達している生物はどうしてもそれに引きずられる。知性があればなおさらのことだ。
「そこで私が術を打ち込み、その魔素の逃走経路から巣を割り出す、出来れば複数の相手に打ち込みたい」
そこまで一息に言うと、話を打ち切る意味を持って席を立った。やはりのろのろと頭を巡らせてこちらを視線で男が追う。鬱陶しさを感じつつも、四方の壁に障壁を仕掛けて行く。屋根には仕掛けず、中空に障壁を張った、単純な形ほど強く張れる事は経験的に解っていた。
一通り術を仕掛け終えると、崩れた机に寄りかかって外套にくるまった。時間つぶしには眠るのが一番良い。すぐに眠気が押し寄せて来た、男の事は、もう放置することにした。立ち上がらないのであればそれまでである。そんな人間など、既に興味は無かった。
眠らずとも戦えるし、生きて行ける。そんな存在に昇華したのはいつであったか。
これは人であった頃の名残だ。
決まった時間に寝て、決まった時間に起きる。狩り以外を常に半寝半起で過ごす竜とは違う。
そう、我が身に言い聞かせていた頃の名残である。
じゃり、と、土を踏む音に目を覚ました。
外に気配がある、数はそれなりに多い様子だ。
よく野生動物は気配を消すのが上手いと言うが、あれは嘘だ。臭く、大雑把で、雑な彼等は実に気配を殺すのが上手くない。ただ、生き物の目に目立つのは、動いている物だけである事を良く知っているだけだ。だから対象の目が此方を向いているときには決して動かない。
来たか。
予定通りである。体内時計からすると、夜明けはまだ遠い。唇がすうっと薄い笑いを形作った。
実に具合が良い。気分が昂っていた。何しろこれから先は狩りの時間だ。アントニオを見る、男は苦しげにうなされるとむせながら起きた、なんだこの臭いは、などと喚いている。どうやら敵は相当に臭いらしい。
こういう時は鼻が利かない事に感謝する、ただ、確かに何かが目にしみる。これほどであるならば、相当なものであろう。
饐えた何かの臭い、糞尿の臭い、獣の体臭、なんとなく感じられるのはそんな所だ。
下ばきに手を突っ込み、一つまみの毛をむしった。思わず小さく呻きが漏れる。ひりひりと僅かに痛むが、それは無視をする、緩く螺旋を描くそれを、しごきつつ魔素で針に変えた。
髪では長すぎるし、他の体毛では短い、鱗ではおそらく貫通するし、霊素から取り出せば貫通力に欠ける。何にしろ、具合の良いのはそれぐらいしか思いつかなかった。
屋根が軋んだ。上にも居る、楽しくなってきた。アントニオが不安そうに周囲に怯えた視線を投げる。驚かすのは上手い様子だ。
家の周囲には障壁をめぐらせてある、侵入経路は唯一入口のみ、少々考えた。
討って出るか、留まるか。
アントニオが再び悲鳴をあげた。
考えている間に最初の一頭が、余裕たっぷりにのそりと入ってきた。はたから見ても油断しているのが理解できる。動きは緩慢で、強者のおごりが表情に垣間見える。
小さな挙動で毛針を目と右肩に投げた、音も立てずに飛んだそれは、やはり音を立てずに根元まで刺さる。もんどりうって倒れ込む猿に、アントニオがまた悲鳴を上げた。毛はつまんで抜けぬ様、深く刺さった後に螺旋に戻る。あの太い指では目玉に突き刺さったそれは抜く事が出来まい。
獣風情には接待が過ぎるか。笑いながらそ倒れ込む猿を、蹴飛ばした。
球の様に蹴り転がしながら表に出た。
星星には、僅かに雲がかかっている。具合の良い夜であった。
屋根の上に三、周辺に五、少し離れて六。
十四頭。ざっと見渡して、それだけの数が居る。
猿はもがく仲間を見て、手を打ってはやし立てている。何を言っているかは解らないが、馬鹿にしているのだろう。
嗤う事はない、今に貴様達も同じ目にあう。
両手に持ったそれを、狙いが定まった順に投げつけた。それぞれ右目と、肩の関節に深く食い込んで元の毛に戻る。刺さった瞬間に敵の持つ魔素と、此方の毛が含む魔素とが反発して、激痛を走らせる。
しかも髪と違い、その毛は人の時の柔らかさを保持している。毛皮に交じればつまむ事叶わず、一度体内に入れば切開せねば摘出出来まい。
あちこちから悲鳴が上がる。狙いはたがわず全てを撃ち抜いた。
雄叫びが響いた。振り返ると、踏み越えて来た最初の猿が、怒りに文字通り顔を赤くしながら立ち上がった。
身長はそれなりに大きい、二m程か、シルベスタよりやや頭が大きい程度であろうか。尾は短かく、僅かに痕跡を残す様な代物だ。いかつい全身の中で、そこだけが妙なかわいらしさを醸し出している。全身は黒く短い毛に覆われていた。鬣じみた毛が、頭頂部から背中にかけて逆立っている。手足の毛は長く、特に肘膝から手の甲足の甲に至るまでのそれは、地に引きずる程だ。シルベスタよりも大きな掌が四つ、指は太く節くれ立ち、そこには太くたくましい鉤爪が生えている。脳は小さそうであった、代わりに筋肉がよく発達し、丸太でも噛み裂きそうなたくましい顎が見えている。歯列は人間とそう変わらない構成だが、臼歯が犬歯状に発達し、大きく張り出している。首も手足も太かった。そんな巨体の中で、一物だけは縮みあがったかのように小さい物が揺れている。
その体躯のばらつきに、歯を剥いて笑った。途端に起き上がったそいつも歯を剥いて奇声を上げる。威嚇の声だ。何処の世界でも猿に歯を剥く行為は威嚇に他ならない。
躊躇は無かった。撓めた体を開いて飛びかかってきた。臆す事無く前に出て、そいつの顎を真下から蹴り上げる。つま先があごの骨に当たった、土踏まずに強靭な筋肉の感触が、かかとに喉の張り詰めた感触がそれぞれ届く。己の勢いのままに首の向きを真上に変えられた猿が、硬直したまま仰向けにひっくりかえる。
意識は飛ばしていない、だが鞭打ち程度は起こしたであろう。苦痛をこらえかねてじたばたともがくそれを、容赦なく、かつ手加減しながら蹴り付け踏みつける。適当に腕の骨などを折っておく、その度に良い悲鳴が響いた。
周辺の敵意が大きく増した。風を切る音、背後の屋根から猿が跳び下りてくる。一歩退いて後ろに蹴り足を突きだした。丸太に自分から飛びかかる様なものだ、腹の中央を蹴り抜かれた猿が、胃液をまき散らしながら悶絶してのたうちまわる。すぐにその場から退いた。
横合いから引っ掻きに来た三頭目は、右の外受けで手首を受け止める、足を寄せて、相手の勢いも回転に変えて左の鉤突きを肋骨の辺りに突き立てた。幾本かの骨が砕けた感触がある。この猿はその場で崩れ落ちると、浅く短い呼吸を繰り返す置物と化した。
振り返ると上から振り下ろされる鉤爪、振り向くそのままに、左手で内受けして軸をずらす、がら空きのわき腹が見えた、じっくりとバネを溜めた肘を踏みこみながら肋骨に叩きつける。枯れ枝を圧し折る音がして、肘がめり込んだ。
そのまま止まらずに前へ。怒りを覚えたのか、この小さな雌相手に。走ってくる相手に一足で踏みこんだ。一足とは言え四mはある。不意を打つ形で眉間に上段の突きを打つ、鼻を掠める様にして打った。分厚い頭蓋の感触に口笛を吹く。もう少し強くても死にはするまい。それでも、威力は上に逃がしているので半回転して仰向けに浮きあがって落ちた。
六頭目が間合いに入った瞬間に、鉤爪が横薙ぎに振われる。体を回しながら左掌で撃墜する。そのまま踏み込み右掌で勢いよく鼻づらを地面に叩き伏せる。鼻と顎を押さえて転げる猿の顔を踏みつけた。無理やりに身動きをやめさせたまま、一度構えを解く。髪を掻きあげて残りを見渡した。
此処に来て猿の群れに動揺が走る。
小さな相手だ、だが恐ろしく強い。
示し合わせたように二体が飛びかかってきた、左右両正面、丹田に呼吸を落とした、横隔膜と肛門に力を込める、跳ね返る様に力が手足を伝う、閉じていた体を開きつつ前へ、螺旋と化した体が地に根を生やす。加減を間違えた。しくじったと思った時にはもう遅い。片目を潰された上に、歩法で距離感を狂わされた猿達が、目測を誤り半歩踏み込み過ぎる。突き出された両拳が猿の胸に炸裂した。
文字通りだ。体内で暴れ狂った力が行き場を失い、まず心臓、次いで心臓につながる臓器の血管を片端から破裂させた。脳とて例外ではない。体中の孔と言う孔から血を噴き出しながら猿は絶命した。
ああ。
ああ。もうたまらない。こらえるのも面倒だ。せっかくの狩りだと言うに、殺さない様に手加減するなど面倒で仕方がない。
歯を剥いて笑った。ぞわりと肌に鱗が生える。音こそないがびきりびきりと爪が伸びる。門歯犬歯臼歯の区別なく乱杭歯が顔をのぞかせる。胸一杯に空気を吸い込んだ、吐きだしたと同時に勢いよく翼が空を打った。
吼えた。音はない、ただ、空気だけがびりびりと震えている。高すぎて聞こえないのだ、人の耳には。生きている猿が一斉に耳をふさいだ。先ほどまでの余裕は何処にもない、哀れな被捕食者の顔が居並んでいる。どれもこれも死に取り憑かれた顔をしていた。だがどの猿も逃げようとはしない。魅入られた様に腰を抜かし、地面に穢い地図を描いている。
ふと気が付いて視線を切った。途端、死に物狂い、という表現がこの為にある、と言わんばかりの勢いで猿達は逃走に移った。
「よしよし、それで良い。巣まできちんと案内せよ」
高台に昇って、自らの毛の気配を追って行く。一度斜面の上に出た。
敵首魁を討つか、住人が殺されるか。面倒臭くなっていた。シルベスタの合流を待とうかと思っていたが、思ったよりも時間がかかりそうである。あの男の事だ、少なくとも、増援との引き継ぎまではきっちりと終わらせて来るに違いない。そうなれば、あと五日は此方に来ない計算になる。
それは頗る面倒である。
眉根を寄せた。気配を消したまま群れを追うと、やがて猿は広葉樹林と針葉樹林の境で止まった。
奇しくも人間の領域との境界線、そこに一際大きな木が見えていた。見ればその木に猿は集っている。遠く人々の姿も見えた。命はある様子である、男女とも一ヶ所に押し込められている。
奴隷にでもしたつもりか。
「ふん」
鼻を高く鳴らして踵を返した。
巣の位置は解った、敵は今後此方には手出しするまい。出すとしたら、敵首魁がその地位を確たるものにするために討って出てくる事であろう。そうであれば話は早く済む。
さしあたっては、人間に村人の無事でも知らせてやる事にしよう。




