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夢は見なかった。目を閉じて、開ける。途中に記憶の断絶がある。深い眠りであった、油断していたと言っても良い。心地よさに自分を戒めた。
目を開いた。谷間にはなかなか日が指さないためか、気温が低く未だに薄暗い。だが山の空気は冷涼で心地良かった。深く息を吸うと外套をのけ、ぐっと伸び上がる。肺の中から浄化されていく気がした。幾度か肩を揺すって体をほぐすと、まずは顔を洗いに谷底に降りた。
水は澄んでいる。手を浸すと痺れる様に冷たかった。まず水を飲み、それから飛沫を立てて顔を洗う。緩んでいた意識の、引き締められる音が聞こえた。きんと意識が冴えわたっていく。見れば所々に魚影があった。僅かも迷わず、服を脱ぐと腰まで水に浸かり、しばらくそのままで待つ。やがて魚が慣れて近付いてくるのを、立て続けに掴んで岸に投げた。腹も減ってきた。朝食には丁度良い。
見渡したが、周辺には、既に薪になりそうな物はなかった。あらかた昨夜の内に燃やしてしまっている。体を拭った後に、仕方なく崖の上まで這い上がった。斜面に出ると、そこにはハイマツらしき背の低い針葉樹が、風の強い土地にしがみつくようにして、あちこちに生えていた。どうやら上までくれば、燃料に事欠かないらしい。とは言え、ここまで容易く上がれるのも、自分くらいの物であろう。
この類いは油をよく含んでいるからよく燃える。枯れた枝を探し、一抱え程集めて拠点に戻った。
昨夜の燠火は既に消し炭に変わっている。石の竈を組み換え、鍋を置く形ではなく、火を囲むようにする。燃え残りを集めると、その上で改めて解した麻を巻き、火打石を叩く。かつては手間取ったものであるが、今となっては手慣れたものだ。大きく散った火花が麻を焦がす。小さく煙が上がった、そっと息を吹き掛けると、ぼ、と音をたてて小さな火種が出来た。細かい葉の付いたままの枝からくべていく、次第に火が大きくなってきた。
エラとワタを抜き、塩を振って鉄の平串に刺した魚を並べていく。根本は石で固定してある。火加減に気を付けながら、じっくりとひっくり返す。やがてじわじわと泡がヒレの付け根から吹き出してきた。もうじきだ。思わず顔が笑う。腹がなった。喉をゴクリと鳴らす。やがて黄色い油が滲み出した。これで良い、一本を試しに抜き、かじりつく。頭からそのまま行った。まず松脂の蒼い香りが、次いで香ばしさが溢れる。ぴりぴりと塩が利いている。魚肉の甘さが、脂の旨味が一気に口に広がった。
上出来だ。骨ごと豪快に噛み砕く。ヒレも実に香ばしく仕上がっている。ものの数分で平らげると、鍋に汲んできた水を一息に干した。
「さて、と」
もったいつけて立ち上がった。
待ちに待った勤労の時間だ。生産的な活動と言うものは実に楽しい。
基本は一m四方の玄武岩を切りだし、他に幾つか特殊な形に切りこんで行く。逆に割り過ぎないようにするのが難しかった。振れば一撃で剣は岩を割ってしまう。たがねでいちいちそこは加工した。これも、岩を砕かない様に気を付ける。
道の奥から順に切りだした岩を並べて行く。強度を考えて、時折奥行きが二mの岩を混ぜる。この岩に、他の長い岩の重量がかかる様に気を付けた。ただ縦に並べては何かの拍子に崩れる可能性も出る。互い違いになる様に組み上げる。
思った以上に作業が捗っている。三m程積んだ所で、一息ついて額の汗を拭う。やはり、外側を中心に組んで正解であった。これを内側までみっちり積んでいたのであれば、今頃はまだ最初の段を終えて居なかったであろう。
出た切削屑を、積み上げた片端から中に放り込んで行く。ついでに付近に残っている崩落残土も円匙で投げ込んだ。水の圧力と言う物はなかなかに侮りがたい。土の堤は蟻の一穴から崩れる。最初から排水をきちんと設計しておかなければいけない。
前後の壁にも一m四方の窪みを作った、これも互い違いになるように、作業を進めながらだんだんに切り込んでいく。二つの面から切りこめるので、なんとか砕く事が出来た、最初は上手く割れてくれず、岩が砕けてしまったが、何度か試す間に徐々に上達した。此処にはやはり長さのある石をはめ込み、石積みと岸壁がそれぞれ独立しない様にする。なにしろおそらくは火山帯、記録に残されていない程の昔とは言え、地震が起こらないなどとは言い切れない。死火山という言葉は自分が生まれる前に死滅していたはずであった。
もちろん、ただ壁を作っていてもいずれ足場に悩む。そのために、同時に階段も組み上げていた、先に加工していた複雑な形のそれが、此処で生きてくる。幅は一m程取った。岩を運びやすい様にする工夫だが、完成の後は谷川の水を汲む為の通路となる事であろう。歩けばまだ最初の集落まで一日はかかると言う。水の補給は欠かせまい。
太陽が中天にさしかかる頃に、休憩を挟んだ。取り出した干し堅焼きパンを、ごりごりと噛み砕いて飲み下す。なんだかんだと保存食を試したが、これが一番携帯性と栄養価に優れているらしい。麦粉を各種薬草、蜂蜜と一緒に練り、パンを焼くにはぬるめの炉でじっくりと水分を飛ばして焼き上げる。最後に熱した獣脂をかけ、蜜蝋を薄く引く。こうすると傷みが遅く長持ちする、らしい。詳しい事は良く分からなかった。味は論外であるが、利便性から愛用していた。
日差しの強さに目を細めた。一息入れるにも、これではあまり良くは無い。消耗を誘う可能性もある。そう考えて、崩落している部分の手前に立った。おもむろに剣を岸壁に打ちつける。並の剣であれば一撃でひしゃげる所であろうが、あいにく素材どころか、剣であるかどうかすらあやふやな器物だ。如何に乱暴な扱いをしても壊れる事が無い。そう考えると、使いやすい道具と言って良いであろう。猛然と岸壁に切りつけ続ける。ほぼ目は瞑っていた、弾け飛ぶ破片が肌に食い込んでかゆい。二撃ごとに煉瓦程度の大きさで岩が砕かれていく。
一刻(二時間)程経つ頃には、数名が日差しや夜露を防ぐ事が出来そうな岩屋が出来上がっていた。換気を考えて、開口部は広めに取ってある。内側の方が天井を高く、床も高くしてあるので、多少の雨ならば濡れる事もあるまい。
切削屑を崩落部に落とし込むと、再び谷底で岩の切り出しに戻った。
ふと、血の臭いを嗅ぎ取った気がした。
心臓がたちまちに力強く脈打ち、筋肉に酸素と糖分を送り込む。体が瞬時に膨れ上がり、うっすらと汗ばんだ。酷使しているつもりであったが、まだ使われていない場所があったらしい。臨戦態勢をとる。風は冷やされる方に向かって吹く。であるならば、上か前だ。正面に何かの気配は無い。
上だ。まだ何の動きもない、だが、確信を以て視線を向けると、何か蠢く者がある。直後に落下してくる岩が見える。一抱えほどのそれ、投げ込まれた、と言うべきか。朝這い上がった時には、あんな岩は無かった筈だ。目測で、およそ二tと言ったところか。高さがあった、受け止めるには重すぎる、ましてや落下の勢いもある。重力加速を考えると、当たれば自分でも致命傷になる可能性がある。とは言え、迂闊にあれを避けても、岩の節理に衝撃が走る。最悪当たった個所の道が崩落するであろう。
瞬く間にそれだけ考えると、岩の下に一歩動いた。次の瞬間には岩が掲げた掌に当たっている。いなす様にして回転をかけた。落下する向きを、勢いの向きを変えてから道に落とした。表面を砕けさせながらも、勢いを違う方向に流されて岩は道に影響を及ぼすことはできなかった。後で素材にしてしまおう。そう考えて谷底に落とす。
頭上を睨みつけると、驚愕する気配があった。
なるほど、これが今回の敵か。次が来るか、身構えた所でちらと見えた影が引っ込んだ。逃げる気か。先ほどの殺気から攻撃までの時間を考えると、十五秒は猶予がある。岩壁に取り付くと、四足で走るようによじ登る。勢い余って斜面に飛びあがった。此処まで十秒もかかっていない。それでも周囲に敵の姿は無かった。視界の遠く、でこぼこの斜面に走り去る影が見える。四足ではあるものの、その偏った走り方を見せる姿は人を思わせる。
「なるほど、猿か」
ひとりごちて考えた。
今から追って追いつけるか。問題無い、駆ければ容易く追いつける。敵は単体か。否。複数は考えるべき。奇襲はありうるか。是。奇襲が自分ではなく現場に向く可能性。是。離れるのは得策ではない。せめて放置しても問題が無い状態まで持って行って置きたい所。
一度天を仰ぎ、踵を返して斜面を這い降りた。
追うか追わざるか。単体でも群れでもさほどの脅威には感じない。それであれば、放置して的を分散させた方が良かろう。敵もティタナと自分、両方に数を裂くことはできまい。それだけの気配は持っている。そうなれば、此方にとっては都合のよい時間がとれる。
それにしても、余程街道の開通が驚異と見える。
これは人間を恐れている証しだ。智慧を持ってはいるが、それゆえに此方を警戒していると見える。
であれば、まずは道の外枠を完成させる。次に、増援の到着を待って崖上斜面に拠点を構築、そこから圧力をかけて行こう。
方針は決まった、ゆるりと時間をかけて行いたい工事であったが、そうもいかなくなってきた様子である。
であれば、早急に外枠を積み上げてしまおう。
作業の回転を上げた。出来れば今日中に枠を作ってしまいたい。鬼神もかくや、と言う勢いで岩を削り積み上げる。ざっと四百五十の岩が必要であった。しばしば足りなくなり、仕方がなく対岸を崩す事もあった。それでも数の確保には手間がかかり、相当量の距離を、下流上流共に往復する。
岩を割る際に、失敗も増えた。僅かなぶれから、刃先が逸れるのだ。ほんの僅かな角度の違いで、岩は大きくえぐれて割れる。へこんでいる場合にせよ、飛びだしている場合にせよ、どちらにしろ隣や上下に悪影響が出る。
失敗した岩は、苛立ちと共に砕き内側に放り込んだ。
なんとか大きさを揃えて十二段目を積み上げるころには、日が暮れかかっていた。
早ければ明日には増援が街を出発する。自分達が急いだ事を知っている。明日、明後日、明々後日には到着するであろう。
後三段。九十個の岩を切りださねばならない。
大きさを揃える事は確かに重要であるが、今となっては意地の一言に尽きた。
明日はもう一度対岸を崩すか。そう考えて、寝床の支度をする。なんとなくであるが、今日は食事の支度をする気になれなかった。干し堅焼きパンを齧りながら、出来事を反芻する。石のように固かった。多くの岩をしくじって砕いてしまった。それさえなければ、もっと作業能率はあがっていたであろう。
「そうだ」
ふと、思いついた。障壁を、岩の中に展開する事は可能であろうか。もしそれが可能であれば、余分な失敗なく、無駄なく岸壁から石材を切りだせる。いわば、魔素、あるいは霊素にて節理を岩に仕込む様なものだ。
寝て居られずに跳ね起きた。以前とは違い、無色の霊素を確かに認識できるようになっている。階段を駆け降りると、流れを飛び越えて反対側の岸壁に取り付いた。急いで上まで登ると、試しに正面側に障壁を展開してみる。確かに霊素は岸壁の中に作用している。胸を高鳴らせながら、そこに切っ先を落とした。一撃で障壁は切り裂かれてしまったが、狙い通りの位置を切り落とした感覚がある。そのまま四方を同様に切り出し、最後に底面に切っ先を突きいれた。てこをこじる様に、剣をそのまま持ち上げる。はたして決して折れる事を知らぬ剣は、四角く切りだされた岩をなんとか持ち上げていた。
上首尾だ。これであれば、明朝からの数時間で外枠は終わる。
むしろ、道の壁際から内に切り進めば、道幅の拡張と共に休息場所として有効な地所となるではないか。小躍りしそうな気分であった。なんと遠回りをしていたのか。魔法とはかくも便利なものであるか。
様々な思いが胸中で燃え上がっていた。早速その岩を担いだまま、岸壁を這い降りる。三t程度であれば、片方の肩に担いで問題無く降りられた。
予定の位置に岩を置くと、改めて寝床に着く。
これで良い。実に良い事に気が付いた。
もう一つ、干し堅焼きパンを取り出して齧る。
獣の気配は無い。来るとしたら、また明日になるであろう。さて、明日は何処から切りだすか。
そうこう考えているうちに意識が途切れていた。空に輝く星に、僅かに雲がかかっていた。




