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竜は夜に飛ぶ  作者: dora
第四章 我が屍を越えて行け。
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6.

6.

 頭まで水に沈みこんだ。

 水温は低い。透明度は悪くなかった、ただ、やはり日差しが無い分水中は暗い。

 見上げた水面に幾つもの輪が広がっては消える、分厚い雲に遮られて暗いそこは、まるで夜のように揺らいでいる。雨滴が水面を叩く音が、遠く耳に響く。

 やがて水底に体が落ち着いた。それなりの深さであるが、鍛え抜かれたこの身にすれば水圧など大したことは無い。むっくりと起き上がって、身を清める。体を拭うよりも、最早丸洗いした方が早い程体液に塗れていた。

 仏頂面で髪を洗う。なんだかな、と、吐きだした言葉があぶくに変わる。

 女の言う通りになった。今まで悩んでいた事が、ばかばかしくなるほどに胸の内が透き通っている。

 水が濁ってきた。泥ではなく、身に帯びていたそれ由来と知って少し距離をとる。まだ肌からは揺らぎ立っていたが、少し擦るとそれもやがて見えなくなった。


 三日三晩絡み合っていた。休憩など無い、何度達しても止まることなどない。あいにくと体力は無限にあった。精力もそれに比例する。底なしであった。繋がったまま達し続けた。

 抵抗したのも最初の頃のみだ、途中から何もかもばかばかしくなった。

 あさましいと思うも、だが悪くなかった、とも思う。やはりあさましいと思いなおす。

 ふと手の甲を見ると、契約の呪印が大きくなっていた。丸に剣と竜と人を意匠したそれに、まるで稲妻の様な文様が加えられている。

 確かに、心身ともに漲る物はあった。望めば望むだけ、知覚が拡大し加速する感覚がある。勝つ賽の目が見えてきていた。見切る事さえできれば、勝率はぐっとこちらに針を傾ける。

 現金な物だ、知らなかった事を思い知らされただけで、何かを悟ったような気になっている。

 柔らかい水底を歩き、岸へと向かった。


 水から上がると、全裸のまま天幕の垂れ布を潜った。

 むっとする男女の体液の匂いに、くわ、と顔を歪める。流石に身を清めて来たばかりにこれは辛い物があった。

 顔を顰めながら、カンテラに油を足して火を入れる。徐々に大きくなる火に、ゆっくりと天幕の中が照らし出された。

 はたして女は眠っていた。いつの間に、どこから引き出したものか。清潔であったであろう白いシーツにくるまっている。そこかしこに大きな染みがあり、なんとも言えない気分にさせられた。


「おい、起きろ」

「……んん」


 目頭をこすりながら、身を起こすと、お腹がすいたな、と女は言った。

 それもそうであろう。かれこれ四日ほど、それこそ丘に向かう直前から何も口に入れていないのだ。


「水でも浴びてこい、その間に支度をしておく」

「ん、ありがとう」


 大きく口を開けてあくびをすると、器用にシーツをドレスがごとく纏いながら女は天幕の外に出て行った。

 さて、まずは換気から始めるとしよう。


 二時間ほどで女は天幕に戻ってきた。

 先ほどまで纏っていたシーツはどこにやったのか、今は真新しい旅衣装にその身を包んでいる。外套の雨粒を入口ではたき落とすと、何事も無かったかのように入ってきて、ぎょっと立ちすくんだ。


「どうした」

「なんでまだはだかなんだ?」


 確かにこちらは全裸のままだ。落ち着かないと思いながらも、掃除と炊事を同時にやってのけている。文句を言われる筋合いは無い。


「そりゃあ、なんでもなにも」


 そもそも下帯と下ばきはティタナに破かれて使い物にならない。上半身の鎧も養父殿に切り裂かれて無い。残されているのは敷布代わりの外套と獣の皮だが、これは互いの体液で塗れてどうにもならない。


「俺に濡れた天幕でも着て居ろと言うのか」

「すまん、私が悪かった」


 そういうと、ティタナは真新しい下ばきと、そろいの上下を手渡してきた。


「おい」

「なんだ?」

「下帯もくれ」

「貴様なんだか遠慮が感じられなくなったな」


 誰のせいだ誰の。そんな事を考えながら、下帯に下半身を納めて行く。動きやすい巻き方と言うのがある。一物をきちんと収納しつつ、いざという時に出しやすいそれを手早く施す。

 下ばきに縫い付けられた鉄の輪は、彼女の鱗に換装されているようであった。鎖状になったそれには継ぎ目が一切見られない。そもそもどういった具合にこんな鱗の生やし方を研究しているのかと、首をかしげたくもなる。

 とりあえず、今はありがたく受け取っておこう。

 




「で、どうだ」


 食事を済ませると、ティタナが切り出した。


「そうだな、養父殿をきちんと送ってやらなければなるまい」


 返答に迷いは無い、為すべき事がきちんと理解できている。身内の情は確かにある。失いたくないと思う心も、恩もある、言葉にできない物も多々存在する。

 だが、それ以上に歪められて尚存在させられ続けている、亡霊として土地に括り付けられている父の姿が不憫でならなかった。


「勝算は」

「ある」


 今であれば、剣が見切れぬ事はあるまい。

 問題はその先、如何にしてあの切っ先を掻い潜り致命傷を与えるか。

 養父殿を超える力を以て剣ごと叩き斬るか、養父殿を超える速度を以て剣ごと叩き斬るか。そのどちらかしか道はなさそうだ。


「だが現状で逸れば、どちらかが死ぬ。結果の針は此方に僅かに傾いているだけだ、確実じゃあない」

「うむ……」


 その天秤をこちらに傾けるだけの、なにかが必要だ。一番は魔素だ。今更鍛え直す時間もない。しかし、そうそう都合よく魔獣や魔人も落ちているはずがない。


「近場にあのキマイラ程度の魔獣がいれば、話は早いんだが」

「あ」

「あ?」


 何かに気がついたように、ティタナが天幕の上を指差した。


「ある、あるぞ」

「なんだ、精霊王の涙雨でも止める気か?」


 あれはおとぎ話だろう、そこまで言って、彼女の強い視線に口を閉ざした。


「それだ、冴えている。ウンディネの涙を止めてやろうじゃないか」


 勝ち目が見えた、そう言うとティタナは徐に天幕の外に出て、空を睨み付けた。


「止めるってお前」

「彼女は昔の知り合いだった、滅びる間際の事も知っている。広大な空間に、豪雨の呪詛を仕掛けたのも知っている」

「ほう」

「あの雲の中だ、あそこに貴奴が遺した大呪詛陣がある」

「それはどの程度の物だ?」


 女は鼻を鳴らして笑うと、腰に手を当てて言った。


「八百五十余年前より延々と雨の降り続ける薄暗き世界を、先が見えぬほどに維持するだけの力だ」






「死の直前、彼女は己の存在全てを魔素に変えた。更に土地のもつ魔素を利用して、此の地に完全な循環型結界を構築したらしい」

「それがこの雨の正体か……」

「そうだ、見たところ呪詛の核は上空にある、そこを破壊すれば、魔王一柱分の魔素が宙に浮くだろう」


 朗報だ、それならば行ける。高純度の魔素で、かつそれだけの量などまず手に入らない。

 開いた地図に目を落とす。丘陵地帯の上に掛かる勾玉型の積乱雲。それはちょうど街道に添っていた。

 女は雲を睨み付けている。だが、それは少々違うであろう。遠目に見ていた雲の形は、西から東に雲の頭が棚引いていた。であるとすれば。


「なるほど、東から来る風を受けて雲が湧く仕組みか。となると、核は雲の中には無さそうだな」

「え、なぜだ?」

「水自体は結界の中を循環する形なんだろうが、これは恐らく海まで範囲に入っている。そうでなければ説明がつかない」

「そんなにか、続けてくれ」

「ああ、それで、この巨大積乱雲群自体は雲の底から見るに街道に沿っているわけだが、この曲線からすると本来は……」


 ざっと雲の曲線を延長し、地図に円を示す。

 雨天の場合、我等の体力を省みても、行軍速度はさほど出ない。今回は、荷物こそ積めたが馬が足枷となった。進めたのは良くて日に二十㎞。

 雨季の雨ではなく、呪詛で括られた雨の領域に入って十日程、曲線を街道が描いているとして、半径百五十㎞程の円が結界の範疇であるだろう。


「……でかいな」

「ウンディネめ、こうしてみるととんでもない物を仕掛けていたものだ」

「成る程、な。この西側に砂漠が出来るわけだ、山脈もない、無闇な伐採の記録もない、なのになぜだ、とは思っていたが」


 こんなものは、最早積乱雲とは呼べまい。これでは常時同じ空間に存在する巨大台風だ。

 恐らく呪詛の核自体は巨大上昇気流の維持と固定化。海から届いた湿った空気、これがウンディネの成れの果てなのであろう。呪詛がそれを巻き込み上昇、冷却した結果、結界の東側のみに巨大積乱雲群が発生、永遠に続く豪雨の結界が完成する。

 これが魔王同士の戦争が起きた結果か。規模の大きさに、頭が痛む。


「話が逸れたな、先に述べた事から、結界の中心は此処から西北西に約百四十㎞の位置、晴天の空間に存在すると考えられる」

「台風の目か」

「そうだ、おそらくは高度九千m付近だろう」


 そう言って女を見た。彼女はにっと力強く笑うと言った。


「出番だな、貴様らの言う所、万色の魔竜王が雄姿を見せてやる」





 ごうと風が吼えた。

 離陸して数十秒、風は既に身を切る様な冷たさを呈している、叩きつけられる雨粒が肌に痛い。速度は時速にして四百km程か、最短の距離を飛ぶべくティタナは加速を続けている。

 背に並ぶ棘の様な鱗にしがみ付いている。

 呼吸するのがやっとの加速、手綱も鞍も鐙もない。落ちても拾ってやるから、とは言う物の、行く先は生身の人間が存在を許される場所ではない。

 現在高度は約二千m、酸素が既に薄くなっていた。目標地点は幾ら吸っても吸った気にならず、むしろ血中のそれを無駄に吐きだすことになる魔の空間である。濡れた体が凍りつく心配もした方が良いであろう。

 高度三千、雲を突き抜けた、背後に壁の様な積乱雲が聳え立っている。ぐん、と、体が押しつけられる様な感覚。上昇気流に乗ったのだ、滑空するだけでも上空に持ち上げられる。そこを、さらに力強く翼が大気を打つ。時速は六百kmを越えている。ゆるゆると流れる地表が、それでも瞬く間に景色を変えて行く。霞む世界の向こうに、広大な砂漠が広がっている。

 不覚にも涙した、体から僅かに離れただけで、涙滴が凍りついて彼方へ吹き飛んで行く。美しい世界であった、ここは地上からあまりにも遠い。決して人には見る事の出来ない絶景が広がっている。


(見えたぞ)


 声は届かない。思念が直に脳裏に響く。正面を見据えた、空色に溶け込むように、巨大な積層魔法陣が確かに存在している。

 ティタナが速度を急速に緩める、今度はつんのめりそうになりながら必死で耐えた。肌はあちこちが凍りついている、軋む関節に無理をいって動かす。ぎしぎしと体が軋んだ。

 だが心配はない、速度も威力も要らない。斬ると決めて、心のまま打ち奮えば良い。背から剣を抜き放ち、背に立ち上がる。

 構えようにも風の抵抗があまりにも激しい。だが、構えた直後に嘘のように圧力は消えた。頃合いの速度だ、一度高く上がったあと、勢いを殺しながら滑空している。これであれば振るえる。相方の頃合いな気遣いに感謝する。

 突入した、水面を断つ心づもりで振り上げ振り下ろす。目に見えぬ何かを断ちきった気配があった。見え隠れしていた呪詛が風にほどけていく。力ずくで縛られていた上昇気流が乱れ、呪詛核を失い幾つにも分裂していくのが感じられる。

 魔素が放出された実感は無かった、黒い霧は出ない。いぶかしむ間も無く、ただ空間に満ちた力が身に詰め込まれていく。不調が何処かへ消し飛んだ。凍えるような大気の中で、まるで冷える事なく存在できている。己の中で何かが書き換わった気がした。

 そうか、これが話に聞く無色の魔素。

 これこそが、真なる霊素であるのか。


「ティタ」

(ああ)

「戻ろう」

(急ぐか?)

「いや、ゆっくりで良い。養父殿に、久方ぶりの空を見せたい」

(心得た)


 腰を下ろし、胡座をかいた。

 吹き付ける風が心地好い。

 勝てる、確信があった。それが何よりの孝行になることも迷いなく実感していた。





 その日、国中のあらゆるものが空を見上げた。

 何事かは解らない、ただ、雷の様に大気だけが轟いた。

 高空を渡る鳥だけが、わき上がるその風が失われた事を知った。

 亡霊も例外ではない。ふと、雨足の弱まったのを感じた。

 その勢いをみるみる減じながら、同時に付近が明るくなって行く。

 いったい何が起きたのか、雲が風に吹き散らされ、激しくも懐かしい、初夏の西陽がコリナ・イルヴィア・ラルガに射し込んでくる。


「……おお、お」


 なんと、なんと暖かいことか。

 雲に栄えて赤く、黄金に、朱金に輝く太陽。

 涙の枯れた体に、それでも目頭が熱くなる。

 膝をついて手を組んだ。誰がこれを成したかは知らぬ。だが、為せるとしたら一人であろう事は気が付いている。

 赤々と燃える太陽を、眩しさに目を細めながら見る。黒い点が生じていた。否、こちらに向かう飛竜の姿が、否、魔竜の姿が見える。

 一度、満足気に頷いた。あの男は再び立ち上がったのだ。それが一人でなのか、助けられてなのかは知らぬ。結果だけが肝心だった。今はまだ遠く、竜の背に燃える太陽を背負い、最中に雄々しくも剣を下げて両足を踏みしめるその姿。まさしく最期の相手に相応しい。

 一目見て、勝てぬと感じていた。それだけに喜びがある。何と言う気遣いか。我が全てを受け継いだ我が子が、我が最も愛し、人生の芯に据えて来た剣を以て我を斬り殺す。

 人斬りに生まれ修羅に育ち斬り合いに死す。なんと贅沢な一生を送らせてくれるのか。

 見る見るうちに近づく竜の姿。一度大きく勢いを減ずると、上に向かって飛んだ。背に男はもういない。数えて十五歩に、片膝をついて着地している。


「男子三日あわざれば、括目して相見えるべし、か」


 笑って、目を瞑った。


「嬉しいぞシルバ、でっかくなったな」


 ああ、良い顔をしている。

 どこまでも透き通る夜の星空の様な、清らかな湧水を覗き見る様な、澄み渡る剣の鉄色のような。

 先日の子供とは違う、立派な男の顔がある。

 こんな人斬りにも、人並みの事ができたのだ、と、嬉しくなった。






 立ち合いは静かに始まった。

 言葉は最早ない、あるとすれば済んだあとに。

 互いに同じ脇構え。流れる水の様に同時に動いた。刃が噛み合う、二振りのレイマルギアが交錯し、済んだ音が一度鳴る。

 それで全てが終わった。

 中庭の騎士、エーデルホフ・ラン・ガーデンツィオは静かに目を閉じた。

 剣は断ち切られて消滅した、最早振りかぶる腕もない。胴が完全に両断されたのも感じていた。

 動け。

 それでも動け。

 そろり、そろりと振り返る。

 雄々しく隆起した背中がそこにあった。自分が担いで来た全てが、そこに担われていた。

 はらわたを溢さぬように、背骨がずれて崩れぬ様に、不様を晒さぬ様に、そろり、そろりと端座する。


「シルベスタ。言いたい事、聞きたい事は多々あるであろう。だが、それを語れるだけの時は無い。故に、日が落ちた後、我が懐を調べよ、そこに知らせられる事が記してある」

「そう、か」

「泣くな、俺は嬉しい」

「……」

「さらばだ息子よ」

「ああ……さようなら親父殿」


 最後まで息子は振り返らなかった。

 その背にあらゆる力を籠めて、涙を堪えて、剣を握りしめていた。

 満足だ。悪魔と堕ちた自分に、望むべくもない相手と最後に見えられた。

 満足だ。






 見上げれば満天の星空、それだけの時がいつ過ぎたのか。

 いつの間にか立ち上がっていた。見下ろせば、我が亡骸に侍る息子の姿がある。

 声を押し殺して啼いていた。

 

 男がそんなに泣くな、息子よ。

 我が屍を越えて行け。

 お前の道行が何処までか俺には解らないが、魂はお前と共にあろう。

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