3.
かつて王は言った。
何が望みであるのか、と。
かつて王に答えた。
我が剣は人を斬る為の剣、領地の経営など出来るわけもなく。
然らば我が身に存分に武の頂に昇り詰められる立ち位置を下さいますよう、と。
王は笑って答えた。
人斬りめ、だが許そう、と。
存分に我が憂いを斬り払うが良い、と。
これが、風説とは違う、義理の息子に伝えられた物とも違う。
中庭の騎士と呼ばれた自身の真実である。
3.
ばしゃり、と、ぬかるみに潜む水溜りの深みを踏み抜いた。
これで何度目になるか。ややうんざりとため息を吐きながらブーツをひっくり返す。泥混じりの水が地に落ちていく、下唇を突き出して鼻を鳴らした。
油をしみこませてロウを引き、水が通らない様にしたそれは、内側からの水も当然通さない。
軽く振って、中の水を払った、そのまま履いてはまた濡れると思いながらも、立ち止まって乾かしている訳にもいかない。がぼがぼと鳴らしながら履くよりはましか、そう思い込んで靴をまた履く。
水虫になるんじゃないかと心配にもなる。肺の中までカビが蔓延りそうな湿度であった。
数日前から続く雨だ、徐々に雨脚は強くなり、人気も村を幾つか越えるたびに少なくなって行く。今となっては、ここが交易路であるのか信じがたいほどになった。
目的地であるコリナ・イルヴィア・ラルガ。
はるかな神話の時代より、幾つもの大きな合戦を経た古戦場である。また、五年前にエーデルホフが散った土地らしい。
巨大な魔法陣が描かれていた、ランベルテはそう言っていたらしい。あの教会の町と同じであろうか。古戦場には膨大な魔素が染み付いている。それこそ悪魔を呼び出すというのであれば、最適とも言えるであろう。
古戦場、と聞いて、己の覚えている点と照らし合わせる。
私の記憶が正しければ、ここはかつて水霊の王が居た土地ではなかったか。
あまりにも様変わりしていて解りにくいが、かつては美しい湖と無数の池、縦横に流れる川によって形作られた、精霊王国がここにはあった。
神話の時代より在る、水の霊気の集合体、そのくせ、半ば実体を持ち、知性と理性を兼ね備えていた彼女の事を思い出す。
ああ、そうだ。随分記憶の彼方になってしまったが、彼女は数少ない友人の一人であった。
王国の支配を望む、黒長耳族の魔女エソと土地の覇権をかけて戦い、敗れ、今際の際に長雨の呪いをかけたと聞いている。
廃墟と化した王国に、仇打ちだとばかりに乗り込んだ事も、徐々に思い出してきた。
あれが確か、八百五十年程前か。
思い起こしてみれば、あの時も湿っぽい土地だと思った記憶がある。
鼻を鳴らして怒りを散らした。
済んだ事だ、当事者はどちらも墓の中に居る。それでも、たまには思い出してやることも、供養の内かと思いなおした。
そもそも怒るのも筋が違う。どちらかと言えば、私は彼女たちの中央に居て、事あるごとに喧嘩を吹っ掛けて居たのではなかったであろうか。
「そろそろ野営の支度をするか」
「うん? もうそんな時間か」
男の言葉に、記憶の彼方に飛ばしていた意識を引き戻される。
雨の中では時間の感覚があやふやになる。腹具合を確かめてみれば、そろそろ腹の虫が騒ぎ出す頃合いだ。
「天幕を頼む、俺は薪を集めてくる」
「心得た」
野営の支度も随分と手慣れて来た。
ぐるりと周囲を見渡す、御誂え向きに、四本の木がそこそこの間隔で、四角く生えている所があった。男もそもそもそれを見越して声を掛けたのであろう。やや高くなっていて、水に沈むこともなさそうだ。渡された荷物から、根切りともスコップともとれる道具を取り出し、まず、四方に溝を切る。排水の便を良くしておかないと、深夜に苦労する羽目になる。
それから雨よけの布を木に吊るす。大きく斜辺を取れるようにするのがコツだ。
一旦荷物と馬を中に入れたならば、馬から荷を下ろし、雫を払ってそれらの外面を拭っておく。これだけで後々の始末がぐっと楽になる。
荷物から縄を取り出して足元の高さで木に結び付ける。それをバツの字を重ねるように、三方に張り巡らした。頭の高さまで来たら、次に頭上で対角を結ぶ。そこに長方形のロウ引きされた布を掛けていく。きちんと几帳面に巻かれたそれは、大きさと厚さの割に小さくまとめられている。一か所を捲り上げ、入口と定めた。四方から出ている紐を基礎代わりの縄に結び、風に持っていかれないように固定する。
「出来たか」
「大体な。馬は任せる」
やっても良いが、死にそうな顔で怯えられるのは地味に心に堪える。
男が馬の雨具を外した。一度濡らした手拭いで拭き、次いで乾いた手拭いで体を拭いてやった。嬉しそうに、二頭が鼻を鳴らして顔を振る。
そうしてブラシを掛けている間に、鉄製の籠と、鍋吊るしを取り出した。まずは火が欲しい。
とは言うものの、外は雨で薪は湿っている。普通であれば相当な苦労をするであろう。
少しの間考え、面倒なので魔術を使った。薪と、地面にも効果範囲を指定する。水に働きかけ、絞り取ってそのまま溝に流した。先日見た、大地から魔素を抽出する魔法陣を応用してみたのだ。
こういう時に、便利が良い。発火の呪いを太い薪に爪で彫り込むと魔素を通した。流石に男が選んで持ってきただけの事はある。煙もなく、良く枯れて良い香りがしていた。
こう雨が続いていると、新鮮な肉など望むべくもない。鍋吊るしに、飯盒じみた形の鍋を二つ水を入れて吊るす。その頃になって男が馬の世話を終えて戻ってきた。馬達は、そこいらに生えている草を食んでいる。水気の多いそれらだが、お腹の具合は悪くならないであろうか。
「代ろう」
「ああ、後は頼む」
荷物から大ぶりの毛皮を二枚引き出し、寝床代わりに敷いておく。地面を乾かして正解だ、今日は快適な眠りを得る事が出来るであろう。
男は鍋の湯に乾果と塩を放り込んでいた。湯を飲むだけで随分違うが、それだけの物が入れば言う事なしだ、もう一つの鍋には干し肉と堅焼き日干しパンのシチュが作られている、芋と香草も入れた様子で、良い匂いが漂っていた。
「出来たぞ」
「待ってました」
木の匙で男が鍋の中身を配膳する。
この所、シルベスタは料理が実に上手くなってきている。今までの食えればいい、から、人に食わせるには、と、考え方が変わってきたらしい。
あつあつのそれを口に運ぶ。シチュは干し肉が良い出汁を、意外にもパンが良い仕事をしている。何かの汁を染み込ませて在ったのか、最初から混ぜ込んであったのかは解らない。いつもはそのまま齧っていたが、今回のシチュは当たりであった。
「うん、これは、美味しい」
「それは何より」
乾果の煮込みも良い具合だ、見ていない間にワインも足されて居たのか、ほのかに残る酒精がほんのりと体を温めてくれる。
上機嫌で平らげると、使った食器を丁寧に拭って袋に納めた。
食事が終わると、途端に静寂が訪れる。
「此処からなら、丘を捜索して夕刻には戻れる」
「もうそんな近くか」
「ああ」
振り返ってみれば三十日は確かに経過している、目的地までは、もう僅かもない距離に来ていた。
「荷と馬はここに置いて行く、お前は番を頼む」
「なにぃ?」
威嚇する声音で聞き返した。
この期に及んでこの男は何を言うのか。
「やめろばか、みずくさい事を言うな」
「しかしな」
「しかしもかかしもあるか、私は行くぞ」
まったく、馬鹿げている。何を弱気になっているのか知らないが、交易路でも人気のない場所で荷の心配をする。
「馬が盗まれでもしたら」
「黙ればかめ、その時は背に乗せてでもぶらさげてでも飛んでやるわ」
そうして沈黙が訪れた。ロウ引きの天幕に雨が跳ね返る音だけが響く。
何か話の中身を取り換えようにも、ろくな話題が思いつかない。それこそ思い出話などもってのほかだ。
「もう寝ろよ、疲れているんだろう、だから弱気になる」
返事は無い。その事実に余計に苛立ちながら外套にくるまった。
コリナ・イルヴィア・ラルガ。
呪われた長雨の丘、一際雨脚が強いそこは、まるで湿地のようでいてそうでもない。どちらかと言えば起伏に富んだ丘陵地帯だ。水はけが良いせいで、かろうじて沼沢地帯にならずに済んでいる。耐陰性の強い下生えがくるぶしまで茂り、柔らかく流れやすい表土を露出させずに、灰色の中に緑を持ちこたえている。足場は良いとは言えない。
捜索には一日を有した。丘の麓からぐるりと回り込み、起伏を一つ一つ拾うように目視しながら中央の丘に迫る。手間ではあるが、取りこぼしよりはましだろう。
やがて夕闇が迫る頃、中央の丘に確かに人影らしきを見つけた。何かが土砂降りの雨の中、ゆらり、ゆるりと揺らめいている。
「間違いない、あれは、王から下賜された鎧だ」
「あれが、か?
私には、それがとても人の形には見えなかった。
それも文字通り亡霊、ではない。
高濃度に凝縮された魔素が、まるでぐつぐつと沸き滾る火口の溶岩がごとく、行き場を求めて猛っている様に見える。
後は一直線だ。近付くにつれ、それは徐々に人の形を為す。そろそろ剣の間合いにさしかかる頃には、石の上に腰かける一人の騎士が顕れていた。背には大剣を突き立て、背もたれの様にしている、だがもたれかかってはいない。
息を飲んだ。男もまた。背の剣は男の剣にそっくりであった。浮かび上がる文字も、またレイマルギアと読める。
「五年、か」
嬉しそうに楽しそうに、座る騎士が低い声で笑った。
「ああ、五年だ。誰だか知らんが、やっとまともな相手が来てくれたな」
目はこちらを向いていない。うつむいたまま騎士が言う。傷ついたように顔をしかめてシルベスタが前に出る。
言葉は無い、口を開くが、何を声に出せばいいのか迷っているのが見て取れる。
「ランベルテの小僧は良い仕事をしてくれたようだ、見なくてもこの剣気なら外れは無い」
何の揺らぎも見せずに騎士が立ちあがる。いつの間に大地から抜き去ったのか、時間が断絶していたかのように、手には大剣が握られている。
「名乗れよ、それぐらいは待ってやる」
「……シルベスタ・ラン・ガーデンツィオ」
「なんだと!?」
うつむいたままであった騎士が、初めて顔を上げた。
シルバに増して男くさい容貌である、巌の様な、悪戯小僧の様な、やりたい放題人生を楽しんできた悪童の顔。弾かれたように目を開くと、剣から手を放して男に駆け寄った。
背丈はほとんど変わらない。
「お前、シルバか?」
「養父殿」
「おーおー! シルバか!」
嬉しそうに嬉しそうに騎士が言う。
そうかそうか、と踵を返すと嬉しそうな顔のまま剣を手に取った。
「抜けよシルバ、とても嬉しいぜ。お前、俺と同じくらい強くなったんだな」
まるで孫を抱く祖父がごとき声音で。
それじゃあやっと殺し合えるなと、狂った言葉を騎士は吐きだした。
「俺は、養父殿と戦いたくない」
「嘘を吐け、俺はお前をそんな風に育てた覚えは無い」
男が動揺している。
止めるべきだ、今の精神状態では勝ち目がない。
一旦退こう、それだけの声が何故か出てこない。
「俺は」
「黙れシルバ、自分に嘘を吐くんじゃあない」
「黙らん、俺は」
「頭はそうかも知れんがな、抑え切れていないぞ。良い剣気だ、ほとばしっている」
騎士の言葉は軽い。それこそ息子に指導する父親の声音で。
鏡写しの様に構えあう、どこまでも同じ構えが二つ。
腹の底から怖気が湧きあがる。おかしな声が漏れた、エーデルホフは一度こちらに視線を投げると、切り甲斐があると呟いて男に視線を戻した。
ここに来て、初めて恐ろしくなった。
エーデルホフは強い。恐ろしく強い。ここでシルバが失われるかも知れない。
だが、ここで止めても今までと同じシルバは存在しない。
そもそも、今の自分ではこの二人に勝てない。
竜体ならば? 懐に入られた時点で殺される。人の身で、練り込まれた武を以て初めてこの男達と並び立てる。
嫌だ。それは嫌だ。
シルバが失われるなんて許せない。だが自分にはどうしようもない。
初めて味わう絶望だった。
やめろ、やめてくれ。頼むから今は切り結ぶな。
雷鳴が轟いた。
男達の剣気に呼応するがごとく、雨脚はますます強くなる。
「さあ、始めよう。我が屍を乗り越えるか、さもなくば此処で死ね」




