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竜は夜に飛ぶ  作者: dora
第四章 我が屍を越えて行け。
38/66

2.

2.

 風が吹き始めていた。湿り気を帯びたそれは、雨季の鬱陶しさを実感させる。今日はたまたま晴れ間が覗いているが、明日からはまた雨になるであろう。そんな陰鬱な予感をさせる空模様だ。ぬかるんだ足元に気をつけながら歩く、気温は低かった、吐く息が僅かに白くなる。冬場ほどではないが、水はかなり冷たい。外套がなければ雨に濡れるのは避けたいところであった。

 手には壺を下げている。素面で聞きたい話だが、同時に素面では聞く事が出来ない話でもあった。養父の最期に、幾つかの謎が付きまとう。

 おそらくは主信教絡み。だが解せぬ。一介の武人で、ただ剣を振う事しか頭に無かった義父が、国教となった巨大な組織相手になんの影響を持つであろうか。読めないのがまた無気味であった。

 壺がちゃぽ、と僅かに鳴った。振り返るがティタナは付いてきていない。彼女なりに気を使ったのか、意外に思いつつもそういう気遣いのできる人間であった事に納得する。人の目玉の裏側を見透かす様な女だ、何を求められているか、その位を察するのは朝飯前であろう。

 街の要所に立てられたかがり火を、避けるように暗がり、暗がりを伝って移動する。余人を交えたくは無かった。それはランベルテも同じなのであろう、思案するように道を選びながら、結局は周囲に何もない練兵場付近まで歩いた。篝火に誰何の声が掛かる。手を上げて返答する。

 歩くうち、やがて丘の上に辿り着いた。

 此処ならば良いであろう。人も夜の間は近付かない。物好きな酒飲みか、人目を忍ぶ逢い引きか、そんな者の気配もない。大断崖のすぐ傍らだ、具合の良い岩が横たわっている。酒の壺をそこに置いた。かつての祭祀場の跡か何かか、彼女なら何か知っているかもしれない。幾つかの切り出された岩が立ち並び、また同じような岩が幾つか倒れている。その一つに腰を下ろした。岩の表面は乾いていた、だが、下草は湿っていて動くたびに青臭い草いきれがする。

 月は明るかった。珍しく雨ではないが、湿った風が吹いている、明日からはまた天候も崩れるだろう。久方ぶりの月明かりに映える大断崖を見下ろしながら、下げた杯をランベルテに押しつけた。


「白状する気になったか」


 酒を注ぐと、苦い顔でランベルテもこちらの杯に酒を注いだ。


「そうだな、あんたなら、止められるかもしれん」


 男の言葉にまた幾つもの疑問が湧き上がった。


「詳しく聞かせてくれ、養父殿がなんと言い残したのか」


 だが、しかし余計な疑問は後回しで良い、今はその時の事が知りたい。ランベルテの言葉いかんによっては、疑問もおいおい解消されていくであろう。

 ぐっと呷ると、熱い物でも飲んだかの様に男は喘いだ。

 蒸留酒だ、早く酔うにはこちらの方が良い。


「弓と剣と我が父祖の名に誓って、ランベルテ・デ・ラ・パウロは真実のみを告げる事を誓う」

「騎士ランベルテ、その言葉を信じよう」


 ありがたい。ランベルテの口からこぼれた小さな呟きは、しみじみと噛み締められた言葉であった。

 月を見上げるように遠い戦場に目をやると、ぽつりぽつりとランベルテが語り始めた。


「コリナ・イルヴィア・ラルガに現れたのは魔王じゃなくて悪魔だった」


 ずん、と。

 視界がぶれる。言い表せない衝撃が身を貫いた。


「その地の全てを吸い上げるような魔法陣の中心にそれが湧いたんだ」

「……なに?」

「大事件だ、そう思うだろう?」

「ああ」

「だよな。何しろ幾つもの騎士団が消滅した事件だ。俺達と、中庭の騎士殿、聖蘭騎士団に、徹剣騎士団、それから、教会が用立てた私兵団。合わせて三百かそこいらは居たんじゃないだろうか。……だが、あれは御世辞にもまともな行軍とは言えなかった、名目は確かに魔竜王退治だ、しかしそれにしては行き先がおかしい。どうして麗しの廃都ではなく、コリナ・イルヴィア・ラルガなんだとな。皆口には出さなかったが、そう思っていた」

 

 ランベルテは言葉を切ると、杯を口に運んだ。目を細め、熱い息を細く吹き出す。辛い酒だな、と小さくつぶやいた。


「王城であの映像を見せられた時に、俺はこれなら大丈夫だ、と話す気になったよ」

「そうか」

「どくどくと、大地から大気から、真っ黒い夜みたいな魔素を搾り取って流す魔方陣だった。エーデルホフ殿もな、あの魔法陣を斬ったんだ」


 あれはレイマルギアだから斬れた、そう思っていたのだが、違うのであろうか。まだ養父殿には俺の知らぬ技が秘められているのか。そんな事を思いながら、ランベルテの言葉を促した。


「それで?」

「エーデルホフ殿は確かに魔法陣をぶったぎった。だが、現出した悪魔、ああ、なんとも形容できん、殺意をそのまま容にして、何処までもおぞましく何処までも世界を呪うように狂わせたらあんな物になるのだろうか。―――話が逸れたな、それに殺されたはずだ」


 殺されたはずなんだ。口の中で噛み締めるように言うと、ランベルテは記憶の中を見るように、視線を左右に動かした。


「俺の視線の先で食われたんだ、あの剣ごと」


 男の手は震えていた。

 無理もない、自分ですらまともに見つめていては意識が浸食されそうであった異形。それに狙いを定めていた、だけでなく射掛けた筈だ。男の腕ならば可能であろう。そして、その視力ゆえに一部始終をはっきりと目撃している。


「俺にも何があったのかわからん、だが、次の瞬間にはエーデルホフ殿らしきが立っていた」


 口なんだかなんなんだかよく分からない中心を、直前に剣が貫いたのも見えた。そうランベルテは言う。恐らくは、相討ちだったのであろう、と。


「エーデルホフ殿の姿が見える前にだな、周囲が魔素で真っ暗闇になった、あんなのは見たことがない、とにかく何も見えない。それが引いた瞬間に、エーデルホフ殿がそこに居られた。同時に周囲の魔素は枯渇していたよ。信じられるか?」

「難しいな」

「だよな、俺も未だに信じきれん。夢であってくれれば、と何度思った事か。だが、ああ、だが言葉通りだ。完全に吸いつくされていた、あらゆる死者からも吸い上げられて」


 ランベルテはそこで一度言葉を切り、顔を覆った。


「遠目に見ていた連中は、きっと勝ったと思ったんだろう。勝鬨が上がり掛けた」

「だろうな」

「次の瞬間、不意にエーデルホフ殿が消えた。狼狽えて、探したよ。卿は殺気も何もないまま、近場の騎士団の傍に立っていた」

「ああ」

「そこからは瞬く間だ、瞬き一つ毎に数十人が撫で斬りにされる。十秒もあれば騎士団が一つ消滅する」


 杯が砕けた。力の加減が出来ない、男の言葉に嘘がないと解るだけに、尚更であった。ちらりとそれに目をやると、壺を此方に押しやってランベルテは続けた。


「俺たちが無事だったのはたまたまだ、琥珀騎士団は弓兵の部隊、主戦場からは離れていた、それが幸いしたんだろう」


 壺を手に取ると、そのまま口を付けた。素面では聞いていられない話だ。ぐびりぐびりと音を立てて酒を飲み下す。

 だが、ちっとも酔えた気がしない酒であった。


「そんな中で、一人だけふらふらと卿に近付いていった奴が居たよ。今にして思えば、あれは主信教の神官だったんだな。奴はさも嬉しそうに何かを叫びながら高笑いをしていた。直後にエーデルホフ殿だった何者かに斬られたがね」

「言っている事は、聞こえなかったか」

「流石にな、耳はそこまで達者じゃない。読唇術でも学んでおけば良かったがね」


 両手で杯を覆うと、ランベルテは手の中のそれを弄ぶようにしながら先を続けた。


「そうしてその場にいた、俺達以外を皆殺しにして、エーデルホフ殿はやっと自我を取り戻した様子だった」

「なんだと」

「本音を言えば殺されると思ったさ、圧倒的だった、次元が違う、なんて段階の話じゃあない」

「ああ」

「シルベスタ殿の剣と同じさ、前に立ったが最後、必ず殺される。そんな性質の剣だ」


 戦場の剣である。慈悲など無い、それは確かな実感であったであろう。


「何故助かった?」


 酷い言い種だとは己でも思うが、他に問い掛ける言葉を持たなかった。

 自嘲するように、苦さを唇に載せてランベルテは言った。


「はた、と我にかえった。そんな感じだったな。おおランベルテ、貴様何を怯えている。そんな具合に、いつも通りに実に軽い言葉で声を掛けられた」


 声を出さずに先を促した。軽く頭を掻いてランベルテが続ける。


「少し考えて、何かを納得したように見えた。ああ、そして卿は俺に言ったよ。俺を斬れる男を連れてこい。とさ」


 直感した。養父が呼んだのは自分だ。だが自分だけでなくとも構わない、相手が強ければ良い、斬り甲斐があれば良い。そう考える人物であった。

 ざわざわと皮膚が騒ぐ、出鱈目に鳥肌が立っては引っ込む。視線が方々をさ迷った。心は細波立っている、敬意と愛情と、恐怖と憧憬と、憎悪だけがない。

 強くあろうとする自分に、養父は確かに優しかった。

 人と違い、成熟したことがある自分だ。他の子供の様な甘さも甘えもない。そこを気に入ったのであろう。必死に食らいついてくる自分を見詰めながら、よくお前が強くなるのが楽しみだ、と言っていた。

 喩えそこに込められた意味が、いずれ果たし合いにどちらかが果てる定めだとしても。

 ランベルテの杯に酒を注ぎ、残りを干した。浴びるように呷るが、舌に味など感じはしない。


「どうするかは任せる、共に戦えと言うならその通りにしよう」


 ざあ、と草が凪いだ。波打つ草の葉が月光を受けて煌めいている。夜の海を見ているようであった。

 遠く雷の音が響いている。雨雲が近付いているのであろう。心の中にもそれは立ち込めていた。

 まるでぽっかりと穴が空いたかの様に、虚無感に苛まれている。普段であれば美しいと感じる音も、光景も、あらゆる全てが思い綱のように体に絡み付く気がした。

 ランベルテが一礼して行った後も、どういうわけか動く気がせず、ざあざあと波打つ草原を眺めていた。






 夜半を過ぎて、宿に戻った。関心な事に宿の主はまだ起きていた。どうやら自分の帰るのを待っていたらしい。


「お帰りなさいませお客様」


 そんな穏やかな声に、ああ、とか、すまん、とか、ぞんざいな返事をして、主人の案内で部屋に戻る。

部屋と言っても、扉らしい扉はまだこの文化圏には無かった。幾重にも垂らされた毛織の布が、壁と扉がわりに空間を仕切っている。掛ける位置次第で収容人数も変えられるそれは、防音や防犯を考えなければ悪くない発想であろう。

 二つある寝台の、空いている方に身を投げ出した。良い宿であった、寝藁という訳ではない。毛を立たせた毛皮を幾重にも重ねたそれは、防寒も柔らかさも抜群であった。荒いが麻のシーツらしきもある。

 今になって回ってきた酔いに身を委ねようとした時、シーツにくるまっていた女が身を起こした。


「終わったのか」

「ああ」


 声色に気遣いは無い、端的に報告を求めている。苛立ちを覚えた。眉を寄せて女を見る。文句の一つも言おうと思ったが、顔を見てそんな考えも何処かに消えた。

 何を怖がっているのか。女の顔は、声色とはそぐわず不安そうに沈んでいる。


「どうするんだ」

「考えている」


 衣擦れの音、それから、水を注ぐ音。これが彼女なりの気遣いなのであろう。

 差し出された水を受け取って。そちらに目を向ける、いつも通り、身に纏うのは薄絹一枚のみだ。

 初めて見た。そんな気がした。向き合ってこなかった何かに、今正対している。

 怖くなって目を伏せた。何を考えているのかわからなかった、自分も、彼女も。

 そのまま、水を飲む音だけが暗闇に響いた。

 魔素に浸り続けた身に、闇など無いも同然だ。目を上げればそこに何かしらの答えがあるであろう。

 だが、顔を上げられぬ。上げれば、己が心に何を懐くか解らない。

 彼女から、最初の問い以降に言葉は無い、漠然とであるが答は決まっている。後は口にするだけであった。それを躊躇うのは何故なのか。

 一度頭を振って心を決めた。


「行く」

「解った、今夜は寝よう」


 至極あっさりと返事をすると、女はそそくさと自身の寝台で丸くなった。

 思わず顎を落とし、次いで唇の端を曲げた。

 なんの事はない、それだけで、随分救われているのだと気がつく。


「良い眠りを」

「ああ、おやすみシルバ」


 やりとりはいつも簡単だ。

 晴れた、とは言い難いが、随分と楽になった胸で目を閉じた。





 出立の挨拶は簡潔に終わらせた。

 為さねばならぬ事がある、それにこれから向かうを告げる。王は鷹揚に頷くと、存分に我が憂いを払えよ、と言って路銀を出す旨を文官に伝えた。

 文官は嫌そうな顔を隠しもせず、こちらに金貨の入った袋を捧げ渡した。


「さて」

「シルベスタ卿、これらを御使いあれ」

「おう、忝い」


 フロレンシオから指導の例にと馬を二頭引き渡された。小さく頷いて、礼を言う。望外の報酬であった。何しろ馬は高価である。繁殖から飼育、馬具に至るまでとにかく金がかかる。その意味で、近衛全てに馬を与えられるエラリアは、豊かな国であると言って過言ではない。

 とは言う物の、せっかくの馬であるが、騎乗用ではなく荷馬として使うつもりであった。

 もう一度礼を言って街に下った。市場では当面の食料、簡易の天幕なども買い込んで積む。馬用の雨具も求めねばならない。かなりの量を買い込んだが、それでも予算には余裕があった。

 二重の革袋に、穀物や干しパン、乾果、干肉を詰め、外袋の中には石灰と乾燥した香草を詰めた。向かう先は雨季のエラリアでも有数の降雨地帯である、食料がカビない事を祈るばかりだ。

 酒も多めに買っておいた。吊るされた革袋を見て、嬉しそうに女が笑った。

 途中、積み過ぎたせいか馬が不満げに鼻を鳴らした。鼻筋をなでてなだめてやる。これはいけないな、と考え、天幕などは自分で担ぎ直した。

 深紫の瞳がじっとこちらを見ている。視線は合わせなかった、自分が底の浅い人間であることは知っている。瞳を覗き込みでもしたら、即座に腹の底を見透かされて嘗められてしまうであろう。轡を持って、これからよろしく頼む、と額に額を押しつけた。

 もう一度、今度は返事をするように、馬が鼻を鳴らした。

 ティタナの馬は始終行儀が良かった。そう思って眺めてみると、耳が完全に伏せて、目が血走っている。一見気の荒らそうな馬であるが、その実ただ獣の本能からか、ティタナに怯えている事が知れた。

 苦笑して、手綱を自分が二頭とも曳く事にした。不満そうに女が頬を膨らませるが、このまま放置すれば馬の神経がまいってしまう。女の格好は身軽そのものであった、雨具を求めようとしたところ、その場で用意するから良い、と、予想だにしない声で留められた。うらやましくもあり、また、理解できなくもあった。

 

 都を出る直前に、司教の一人に任ぜられたジョンに会いに寄った。


「これは、シルベスタ様、御出立で御座いましょうか」

「はい、ジョン殿は御変わりない様子」

「これもひとえにシルベスタ様と息子のおかげです」


 そういうと、若き司教は実に朗らかに笑った。


「ジョン殿、御気を付け召されよ」

「皆まで言われますな、人の耳も御座います。なに、私を登用したのも、息子への牽制を多分に含んでいることでありましょう。無論、シルベスタ様へのそれもあるでしょうね」


 声をひそめながらも、胸を張ってジョンは言った。


「……御慧眼、流石です」

「ははは、おやめ下さい。私などを質に取ったところで、息子やあなた方の意志を曲げられよう筈も御座いません。とは申しますが、私も足手まといとはならぬよう、精一杯努めさせて頂きます」

「とても心強い御言葉です、情報収集には琥珀騎士団の面々を御使い下さい、連中、王都には既に独自の諜報網を築いている模様です」

「それはとても心強い御味方、ありがたく頼らせて頂きます」


 そう言って、深く一礼する。あげた顔が不敵に微笑んでいる。悪戯っぽい瞳は悪童のそれだ。見た目に寄らずしたたかな人物である様だ、そう思わされた。教会がケイに対する牽制として自分を抱えている事を見抜いている。そして、それを利用して逆に手綱を握ろうとも考えている。


「シルベスタ殿、御心配なさいますな。こう見えて、私は一度は商会を取り仕切った身。有象無象の温室野菜には負けはしませぬ」


 ひとしきり歓談した後、もう一度笑いあった。最後に祝福を受けてジョンのもとを辞する。

 行く先には雨雲が見えていた、遠からず、雨の中を進む事になるであろう。

 目指すはコリナ・イルヴィア・ラルガ。


 王都から一月ほど歩いたその土地は、長雨が丘と呼ばれる、屈指の古戦場跡である。

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