7.
『リタ、お前の婿だがな』
『はい、陛下』
『ガーデンツィオ卿の子息にしようか、と考えている』
『はい、仰せのままに』
今から六年ほど前の話だ。
当時のシルベスタ様は、柳の若木の様にしなやかな男性であったのを記憶している。中庭の騎士との呼び名も高いエーデルホフ様が『倅で御座います』と、私と引き合わせたのだ。
なるほど、この御方が私の伴侶となる男性か。
そう考えはしたものの、まだ数えで九つであった私は、婚礼と言う事がどのような物であるのかをいま一つ理解できていなかった。
それから時が過ぎて今、再び私の前に現れたシルベスタ様は、かつての面影を残してはいるものの、まるで別人の様な巨人になられていた。
背丈など、私の倍近くあるのではなかろうか。足の一本あれば、私の全てが納まってしまいそうだ。
この頃になれば、侍女や教師から、女の役割と言う物をきちんと教えられるようになっている。これも学問と呼べるのかはほとほと疑問ではあるが、閨房術なる技術も一応は授けられた。
同日、騎士団の面々と井戸端に遊ぶシルベスタ様をうっかりと覗き見てしまった際に、私はとうとう思ってしまった。
どうやら私が初夜に散らすのは、乙女の純潔だけではなく命と鮮血もであるらしい。
陛下の仰せであれば是非もないところであるが、まだ私は死にたくは無い。
幸いなことに、陛下は私めを妻にどうかと打診しだが、シルベスタ様は御断り下さった御様子。
ティターニア様が居るので、と仰られたらしい。
女として多少悔しくもあるが、正直なところを言って、心の底からほっとした。
役割のある人間として、赦されることではないと知ってはいるのであるが、このところ私の夢に忍んで来る方がある。
さて、私はこの先、この想いにどのような折り合いを付けていけば良いのであろうか。
7.
「決まったのか」
「ああ、明朝俺が奴を巣から追い出す、後にどうにか断崖を渡らせる。練兵場方面に誘導後、ランベルテが翼を貫き、近衛が仕留める」
「なるほど」
男の言葉に一度うなずくと支度を終えた。支度と言っても特別にする程の事は無い、ただ、普段の衣装から藪を漕ぐのに歩きやすい格好に変えるだけだ。
大断崖に向けて追い風が吹いている。都合が良い風だ。此ならば跳んでいくのに支障はあるまい。
雲が月に架かっている、星明かりのお陰で、さほど暗い気はしない。指を組んで、伸びをした。
ふと視線を感じ、そちらに目を向けた。
「どうした?」
「いや、どうしたも何も」
男が何とも表現しがたい顔でこちらを見ている。何かおかしい格好だろうか。
一通り確認するが、別におかしなところは何もない。
ああそうかと、そもそもに私の行動に説明が及んでいなかった事に後れ馳せながら気がついた様だ。
「お前には今回、こちら側を頼む」
「え、なんで」
つい口をついて疑問が出た。一人よりは二人の方が良かろう。そう考えての事であったが、男は困ったように眉を寄せると、城を見詰めて言った。
「ランベルテと近衛だけでは守りに不安がある、だが、お前さえいればどうとでもなるだろう」
だから頼む。そう言われては、嫌だと言えるはずもない。そもそも、頼られていると解れば、嫌な気になどなるはずもなかった。
なるほど、もっともだ。男の索敵能力であれば目標を見付けることも容易いであろう。むしろ、二人居たのであればその場で方がついてしまう。近衛に手柄を分ける心算であるならば、それは避けるところ。
さらに、私が城にいるのであれば、確実に気配のみで押し返して見せよう。
「宜しい、任された」
納得顔で一つ頷くと、男は小さく笑った。
「それではな、後は頼んだ」
「ああ、任せろ」
それだけ言い残すと、男は颯爽と走りだした。先日の魔都がごとく、否、更に速い。如何なる地を走る獣もこれより速くは走れまい。男は砲弾の様に大断崖に向かって走り、そのままの勢いで宙に舞った。
重力を制御する魔法陣が展開される。自重軽減か。あれならば、五分もあれば対岸まで到着するであろう。
時刻は日が落ちてしばらくたつ。夜闇に乗じて飛竜の巣を捜索し、明け方に叩き起こすつもりなのであろう。
男の跳び去った先をしばらく見詰め、梢の中に消えたところ踵を返した。
ばさ、と、装束の裾を長く変えた。あまりに上等過ぎる格好も人の目に毒だ、そこそこほどほどを意識して、ドレスを設計する。露出は控えめにしようか、肩は出さないようにしよう。
「さてさて、それでは姫君のご機嫌伺いにでも参りましょうか」
城内に戻ると、暗い廊下を歩いた。木造の城は、そこかしこから生き物の気配がする。いつも思うのであるが、小動物という奴は殺気に疎い。目の前の餌漁りに懸命で、自分の身に迫る危険という奴にはなかなか気が付かない物だ。
沈む船や火山等は音や臭いがそもそも変化する故に逃げおおせられるのであろう。
どうやら知性に影響される感覚であるらしい。
歩く内に、やがて目的の場所に到着した。幾重にも垂らされた帷を潜り、そっとサロン―――とでも呼べば良いか―――の中に入る。燭台に灯された蝋燭がゆらゆら、彼女の顔に深い陰影を落としていた。落ち着かないのであろう、手に持ったままのハンカチを、糸の目を数えるように指を這わせている。
「こんばんは、カンデラリタ様。いかがなさいましたか?」
「ティターニア様?」
掛けた声に、弾かれるようにして顔が上がる。そこには隠す気のない不安が溢れていた。
傍らには侍女の姿も無い。落ち着こうとするのであれば、飲み物など欲しいところだ。
そうは思うが、今の城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。戦う術を僅かに知る者は敵の強大さにすくみ、知らぬ者は未知への恐怖に怯えている。
そっと腰の後ろから水差しとグラスを二つ取り出す。
「喉が渇きませんか? 気分転換にどうぞ」
「忝のう御座います」
彼女は恐る恐るグラスに手を伸ばすと、持ち上げてしみじみと眺めだした。
少し誇らしい。
モチーフはあるが、今回の意匠設計は自分で考えたものである。十六角のカットに、青い硝子を重ねた切子仕様。縁はほんの少しの事で欠ける程に薄く、口当たりを良くしてある。
注いだそれは薄荷を薄く利かせ、柑橘の汁を垂らした物だ。難しい料理は再現できないが、この程度であればなんとか誤魔化せる。とは言え、何ともイメージだけでは物足りない物が仕上がるのであるが。
「……何と美しい、これは、いったい何で出来ているのですか?」
惚けた声でカンデラリタが言う。今まで杯と言えば角か金、あって銅であろう。ここまで透明度の高い硝子など、謁見の間の窓でしか見たことがないのであろう。
「硝子に御座いますわ」
一度はうっとりと細められた目が、再び丸くなる。恐る恐るであった動きが、更に慎重なものになった。
「綺麗、素晴らしい品ですね。……ああ、この潤しもなんと爽やかな味わい……」
強張っていた表情が、グラスを傾けるごとに緩んでいく。二杯目を注ぐ頃には、普段と同じ、何処か望洋とした面持ちに戻っていた。
長椅子に凭れたまま、薄荷の利いた水を飲む。
「ティターニア様は、恐ろしくありませんか?」
伏し目がちにカンデラリタが言った。
「特には、もっと恐ろしい者の側に居りましたから」
私の本来の姿であれば、飛竜の倍は大きい。今になってこの空を飛べば、恐慌が巻き起こる事請け合いだ。人間が私を見て思うことは、逃げて死ぬか戦って死ぬかのどちらかしかないであろう。
「御強いのですね……私は、恐ろしくてなりません」
「あれほど頼もしい騎士に護られているではありませんか」
「私は―――私自身の事はさほど恐れておりません」
「ほほう」
「かの御方が竜めに弑しめられでもしたら、と思うと、胸が張り裂けそうな心地で御座います」
おっと。
これは、私では解らない話になってきてしまった。不意打ちじみた恋の話に、年長者らしくもなく狼狽える。
「それはそれは」
「ティターニア様は、シルベスタ様が喪われる、そう考えられる事は御座いませんか?」
当たり障りの無い返しに、懐まで切り込まれた。申し訳ないが、少々御待ちいただきたい。本当のところを言えば、その様に色気のある関係では無いわけで。
そうは言うものの、一応、一応男が喪われる様な戦況を考えてみる。
対人戦闘では、まず有り得ない。
そもそも最近は模擬戦でも勝てなくなってきたのだ。
思い返して首をかしげる。何度見ても、何度解説を受けてもあの七歩が見切れない。七つの歩法を組み合わせると、実に五千を超える発展があるという。緩急自在、一歩ごとに此方の意識の裏側に入り込むそれは、まるで分身したかのように意識に残像を残す。
最初のあの夜でさえ、身構えて角を生やし、腰を落とさなければ死んでいた。あの時助かったのは、頭蓋を砕く一撃ではなく、首を落とすための撫で切りであったからだ。
囲まれた所でどうにかなるとは思えないし、数を恃めばそれだけで隙が出来る。一人一人が必殺の意志を以てしても、僅かな隙から食い破るであろう。
魔獣が相手であるならば?
あのキマイラに比肩するものが、そうそう居るとも思えない。かの魔獣は私が見てきたもののなかでも上位に入る。むしろ、大きければ大きいほど、反撃の許されない至近距離から急所への一撃を叩き込まれるであろう。具体的には、背骨や首の骨など。隙間から刃を差し込まれれば、それだけで終わってしまう。
幾通りか想定してみるが、男が負けるところを想像することが出来なかった。
「……有り得ませんね」
よって、彼女の問いにはそう答えるしかない。
男の個人戦闘能力は、一国を凌駕する。全力での戦闘行動となれば、得意の雷撃呪も併せて三日で一国を消滅せしめるであろう。如何に戦略レベルで敗北しようとも、最後にはその盤面をひっくり返して直接相手に剣を届かせられる。
男はそんな我が儘の塊であるのだ。
ほう、と感じ入った様に熱い溜め息をつくと、カンデラリタは言った。
「ティターニア様は、シルベスタ様を深く愛して居られるのですね」
「はい。……あ、え?」
「え?」
「え?」
目、泳ぐ游ぐ。
どうしよう。何を言われたのかが解らない。
困ったぞ、どうしよう。いや、解っては居るのだが、なんと返せば良いのかが解らない。
あ、顔が熱い。
こちらを見つめているカンデラリタの表情が、和んでいく。
「ティターニア様、なんて御可愛らしい。とても美しい事は存じ上げておりましたが、その様な表情も御あらわしなさるのですね」
「え、ええ、あの」
わたわたと手が泳ぐ。
なんとも生ぬるい空気が流れている。
こんな顔を男には見せられない。
とはいえ、こんな思いをすること自体が初の経験なわけで。
これはこれで、新鮮で甘い果実ではなかろうか。
「よう御座いました」
ふ、と空気が変わった。こちらを見つめていた目を伏せてカンデラリタが言う。
「どうか怒らないで聞いてくださいませ。実を言うと、私、ティターニア様が恐ろしかったのです」
「それは、何故?」
「何と申し上げればよろしいのかしら、こう、とても美しく、凛としていらっしゃるはずなのに、とても希薄な印象を受けておりましたの」
「……なるほど」
なるほど。
なるほど、私の存在をそう感じた事は鋭い。
確かにその通り。今ここに居る私の、その人間性と言う奴は、かつて私が人間であった頃の残雫に他ならない。
もう遠すぎて、おぼろげな記憶の中。必死で人間のふりをしていると言っても良い。
その意味であの男は本当に貴重なのだ。
何を装う事もなく、自分が人である事を確信させてくれる。
もし喪われたら、今度こそ私は、自身の人である部分に見切りをつけるであろう。
なるほど。
これは手放せない。人のふりをする必要無く、人であらせてくれるシルベスタ。
なんとも貴重で、甘く、芳しい。長きにわたり待ち望んだ人間。
この執着を愛と呼べるのであれば、彼女の言い分は正しく本質を突いている。
「そう、で御座いますね」
「ティターニア様?」
「ティタナ、で構いませんわ」
「嬉しいわ、では私の事はリタと御呼び下さいませ」
「ありがとうリタ様」
「こちらこそ、ティタナ様」
そう言って、笑いあうと。
私は思い切って、考えてもみなかったそれを口に出してみる事にした。
「私は、シルベスタ様の虜です」
「まあ」
花が咲いた様にカンデラリタが笑う。
ころころと笑う彼女に、ぐい、と迫る。
言われっぱなし、言わされっぱなしは趣味ではない。
「リタ様の想い人は、どちらの殿方ですの?」
「……ケイ様で御座います」
なんともくすぐったい心地、だが、悪い気分はしない。
普通の人間が語る愛、とは違う物であろうが、これもまた、一つのそれなのであろうか。
暗く沈んでいた部屋に、清らかで暖かい風が吹き抜けた。




