7.
死者が崩れていく。
まるで、糸が断ち切られた人形がごとく、かたり、かたりと歩み寄ってきた死者の群が、繰り手を失ったように崩れ落ちた。
弾む息を整える。ゆっくりと、だが確実に辺りを視界に収める。警戒を解くことは出来ない。
水平に剣を構えたまま、付近に意識を張り巡らせる。
新たに湧き出る死者は無い。崩れた骸もまた、ぼろぼろと朽ちて崩れて行く。
何か状況が変わったのか。
溝に流れる魔素は先ほどまでの比ではない。まるで大地より絞り出すがごとく激しく流れている。濡れるような濃さのそれが街に、沼の中心に殺到する。
一体何が、と、視線を街に投げる、魔素で淀んだ空気の向こう、沼地の中に何かが居る。
目を凝らし、蠢く何かを視界に捉えた。全身に七色の泡がまとわりつく、泡沫は雫と消えて鉛の生易しさ、緩やかにゆるゆると揺らめく山彦は嫌に苦くて即座に目を逸らした。
「ぐ、うぶ―――ふ、はっ! はっ! はっ! はっ!」
あれは、あれは見詰めてはいけないものだ。
一瞬で全身が脂汗で滑る。口から滴るのは胃液か、いつのまに吐いたのか、どれだけ意識を持っていかれていたのかが定かではない。心が何かに汚された気がする。いや、これは意識してはいけない。記憶してもいけない。全身全霊で今見たものを意識の外に追い出す。自分では耐えられない。一瞬でもあれの本質に気が付けば、その時点で発狂する。そう確信した。途端―――
―――ぞ、と、血の気が引いた。
すわ何事か。
感じたことがない死の気配に体が震える。
あの巨大な魔獣も、今存在する冒涜的な何かすら、子供騙しに思えるそれ。
それは絶対存在と向かい合った際に覚えるものだ。
気配にさとい母親が意識を手放した。姉妹は圧倒的な気配に思考を漂白されている。父はがちがちと鳴る歯を食い縛りながら、少年の震える肩を支えていた。
予感、どころの騒ぎではない。確信していた。今からこの地に滅びが訪れる。
浄化や破滅などという生易しい物ではない。
消滅だ。
何もかもが意味を失う瞬間。
街を巨大な魔方陣が包み込んだ。それは、それ自体はあくまでも効果を限定するもので。
意識が拡大される。千分の一秒が知覚される。取り込んだ魔素が急激に少年の肉体を強化していく。
それでも。
「兄様、怖い」
「うん、僕もだ」
妹を庇うように抱き締める。すがり付いた、と言っても良いであろう。
生き延びようが無い。今から走って逃げても決して間に合わない。
光った。
沼地の一点が、まるで太陽のごとく。朝焼けの最初の一差し、夏の陽射しのごとき強きそれ。
僅かに遅れて、建築物が放射状に瓦解する。全てが微塵に粉砕され、直後に気化し燃え上がった。空間そのものを燃料に、地上に顕れた太陽が拡大する。
草原が衝撃波に靡き、表土ごと捲れかえり巻き上げられ、燃え上がった。
拡大した知覚に全てが焼きつけられる。世界の終わりを思わせる圧倒的な破壊。
死ぬ。
これは死ぬ。
逃げ場もなにもない。
だが爆炎は訪れない。衝撃波が到達した時点で、眼前に分厚く巨大な魔方陣が防壁となって立ちはだかる。草一本すら靡かせず、一家の周囲だけが原始世界と隔絶する。
全周を炎が巻く。紅蓮で視界が失われる。練獄もかくや、という光景だが、熱気が遮断されているが故に現実味はない。
言葉もなかった。
現実を理解して、受け入れられ迄にしばしの猶予がいる。
世界を焼き尽くすかと思われた灼熱は、次の瞬間には一気に収縮した。
変わり果てた世界が視界に映る。全てが焼き尽くされ、燃やし尽くされ、消毒されていた。街の中心から周囲三km程はすべからくガラスのごとく固まり、爆心地とおぼしきには赤々と溶岩を噴き上げる火口がその顎を開いている。
防壁に何かがぶつかったのは、炎が立ち退いた僅かな後だ。
薄氷を幾つも砕くような音がして、防壁が砕け散る。
重たい音を立てて地に落ちたそれ。あちらこちらからぶすぶすと煙を吹き上げるのは、この旅で見知り、命を幾度も救われた男の姿であった。
生きているのか。
街の中心から七kmはある。
普通であれば死ぬ、死体にしか見えぬ。あれだけの距離をあの勢いで飛ばされて、命があるわけがない。だが、目の前の男は違う。そもあの爆発、一瞬で蒸発して当然な熱量の爆心地で、鎧の表面を焦がすだけで済ませた男だ。
もぞり、もぞりと身じろぎしたのが判った。
意識を取り戻した母親も、震えていた父も、恩人の姿に一家でにじりよる。
覗きこんだ少年が仰け反る勢いで、シルベスタが身を起こした。顔には驚愕と恐怖の残雫が残っている。
ふと、遥か彼方に見ていた背中を身近に感じた。
隔絶しているようで、ただ必死なだけなのだと。
シルベスタが唸りを上げた。
その手からは剣が失われている。視線の先にそれがあった、ティタナが何かを考えるように、火口の縁に突き立ったそれに手を掛けている。
「シルベスタ様」
「ああ、行かねば」
何を伝えようとしたのかは定かでない。だが、男は短く返すと、それこそ弩の太矢がごとく駆け出した。
7.
恐怖、でも、嫌悪、でもない。
まず最初に感じたのは危機感であった。
確実だ。確実に犯されて殺される。
全身が総毛立った。最早卑猥などとも呼べぬ異形、男性器を模したがごとき触手であるというに、先端には血走った眼球。射精に至る器官が見受けられない。震えるように見えるのは絶頂寸前まで行った性感が、頂点に達せず留め置かれているからか。
あれはまずい。
あれは、うわわわわ決して満足をすることがない。捕まれば全身の穴という穴を触手が襲うであろう。その上で、挑めば挑むほど飢える性欲で、犠牲者をまさに犯し殺すのだ。
そこには男も女もあるまい。
込み上げてくるものを無理矢理飲み下し、シルバに告げる。我々では相性が悪い。否、魔術師であらばもっと使い物にならないであろう。
むしろ、私が私であったのは行幸であった。
触手が一斉にシルバ目掛けて伸びる。ああああ何と醜悪でおぞけを誘うのであろうか。込み上げるものを堪えるままに、街を結界で覆う。やり過ぎては一家に被害も出るであろう。
シルバが触手に一瞬で絡めとられた、時間はない。
目が一斉に此方を向く、ひやあああああああああそれに合わせるように、私は竜族の持つ、最大火力を解き放った―――
―――の、であろう。
……正直なところを言って、シルバに何と声を掛けたかすら定かではない。
必死に、我を忘れて、できうる限りの最大火力で竜語魔法を開放した、らしい。
ごうごうと、未だ熱の消えぬ岸壁に立つ。
眼下は灼熱に流れている。それが思ったよりも浅いところにあったものか、自身の息吹が融かした物かは判然としない。
それでもやり過ぎたとは欠片も思わなかった。
先程よりも、数十m低くなった場所から虚空を見上げる。
ごうごうと吹きあがる噴煙に、風の塊がぶつかって逸れる。ぐじゅぐじゅと不定形の、それでいてひっくり返った山羊の生首じみた形のそれ。
かつてウナと呼ばれた魔術師であったそれが、まだ浮かんでいる。
敵は健在だ。目に力を入れて睨みつけた。
先ほどの炎で全身の九割ほどが蒸発したのか、体積を大きく減じている。だが、蠢くその姿は瀕死とは言い難い。今ならはっきりと見えるが、魔素の渦の中心である核は、未だ傷つかずに健在だ。徐々にではあるがその容積を快復させている。
「ふむ」
周囲には、件の溝が、空中に浮かぶ魔素の道として固定されている。解析するにどうやらこれは、周辺空間から魔素を吸い上げるのみならず、悪魔と呼ばれる現象を人為的に引き起こす魔術回路であるらしい。
そうなると、これ自体を破壊せねばウナは無限に回復する。消耗し、大気中に拡散された魔素すらも、力付くで固定する概念がこの巨大魔方陣の力のようだ。
「……さて。如何にそれを成すか、だが」
思案しつつ足元に目を下ろす。自分ではそれができない、最大火力である炎を放った上での結論だ。顕現している肉体を消滅一歩手前までは持っていけるが、それ以上を、となると、物理的な火力に変換された私の炎では、貴奴を滅ぼすに至らない。
それには、魔を打ち砕くに足る概念が必要であった。
そう、具体的にいえば、この剣の様な。
流石に保持できなかったのであろう、担い手と引き剥がされたそれが、垂直に硝子と化した何かを台座に突き立っている。
柄頭をなでる指に、ちりちりと痺れが走る。私との戦いの後、いくつかの修羅場を経てなお成長を続ける鋼の化物。
僅かに振り返った。
視界の端に、音もかくやという勢いで吹き飛ばされていった男が、ちょうど身を起こしたのが見える。
健在結構、流石はシルベスタだ。
軽く笑って、そっと剣の柄に触れた。
試しに握った瞬間に、まるで拒否するかのごとく、ごっそりと魔素を持っていかれた。
「私では役者が違う、と」
だが、おそらくは。
この剣であるならば、貴奴を消滅せしめることができる。
むしろ、全ての魔素保持量の多い者の天敵と言ってよいであろう。一撃ごとにごっそりと、傷の周辺から魔素を奪い取る貪欲さ。それは既に、斬撃自体が魔的存在への致命傷足りうるということだ。
おそらくは、この魔法陣ですら例外ではあるまい。
シルバの気配が近付いてくる。大した速度だ、このままであれば、数十秒と待たずに駆け付けるであろう。一足に数十mを掛ける俊足、それは工夫も何もない、ただ身体能力に物を言わせた力技だ。
主の接近に気が付いたのか、剣が小さく、だが確かに鳴き始める。
薄い金属片が、風に震えるような高い音、ひとりでに剣は地面から抜け落ちると、一度固く高い音を立てて倒れた。
男が呼んだのか。一際高く鳴くと、剣は吸い寄せられるように、走るシルバの手に納まった。
「シルバ!」
「おう、なんだ!」
「お前にしかできん、切れ!」
「っ―――心得た!」
逡巡は一瞬、意味を正確に拾い上げた男が、走る勢いそのままに剣を構えて飛ぶ。
「ぉぉおお!」
常人であれば中央まで届くどころか、たちどころに呑み込まれるであろう火口でも、男の身体能力と魔術ならば中心に届く。
限界まで軽くした体を、限界まで強化した体が弾き出す。そこにはもはや重力のくびきなどない。
怪鳥のごとく外套が翻る、高く、高く。一度前方へ宙返りし、足からウナであったそれに着地すると、男は迷わず切っ先を突き立て切り裂いた。
やった。
魔素の核を確かに切断したのが見える。
再び男が飛んだ。
魔法陣が消えるまでの刹那、先ほどまでのねばつく音とは違う、人間らしさの残る断末魔が火口に響いた。
それは、まるで花火を見ているようであった。
この地に縛りつけられ、犯され殺され腐らせられてきた全ての魂が解き放たれる。
無色の、だが確かにある輝きが、天を目指して湧き上がり、中空で弾けて世界に帰るのだ。
かつて見たことのない光景であった。
「やったな」
「……あぁ」
「どうした」
男の声は浮かない。視線をたどれば、そこには未だに滞留したままの魔素があった。
なるほど、かつて見たことのない濃度、心配になるのも無理はないであろう。
魔素を留めていた魔法陣が、極小の魔法陣を無限とも言えるだけ積み重ねてあったそれが、地方の端から崩壊していく。いわば、この魔法陣自体が悪魔であったとも言える。
その総量は、男の総量にして百人分は確実にある。
「心配するな、私も居る。貴様一人で背負いきることはあるまいよ」
努めて軽く笑いかけた。不器用なのはお互い様、なのであるが、この男は輪を掛けて人を避ける節がある。
照れくさそうに頭を掻くと男は言った。
「済まんな、よろしく頼む―――相棒」
「やめろ水臭い」
「まあ、そう言うな」
いつもの獣じみた笑い顔ではない。始めて見せる人懐こい顔で男が笑った。
胸をどやしつけて、こちらも笑う。晴れ晴れとした気分であった。
道中から抱えている問題は何一つ解決していないのであるが、今ぐらいはこの良い気分に浸ってもよかろう。
魔素が急激に収束する。男が身構えた。だが、その渦は男に向かうのではなく―――
「剣が、魔素を……!?」
―――あらゆる闇を呑み込まんとするがごとく。
暗い色の刀身が、黒くありえない色の輝きを放ちながら魔素を吸収していく。
高く。高く。剣の声は音いと高く鳴き。大気を震わせて、世界に存在を誇示している。
そして。そして、まるで錆の下から金象嵌が現れるように。
―――λαιμαργία
「…………レイマルギア?」
剣の鍔元から、暴食を意味する九つの文字が浮かび上がった。




