5.
颯爽と楽しげに、どこか苛立ちを交えながら街へと向かった二人の背中。
少年には、それが目指すべき背中に見えていた。
「お二人とも、どうかご無事で」
振り向けば、父母も、姉妹も、両手を組んで祈っている。真摯な瞳で、真剣に二人の無事を主神に祈っている。
自分も同じ姿勢を取ろうとして、そうではないと思った。託された短剣の鞘を、固く握りしめる。素材のわからない硬質な鞘に、金属質の柄。こちらも何でできているかはわからない。鉄や真鍮でもなければ、角や骨でもなさそうなそれ。一番近いのは大トカゲの爪や亀の甲羅だろうが、そんな生易しい硬度ではなさそうだ。
無意識のうちに息が弾んでいた。柄を一度強く握って、ふい、と力を抜く。ティタナがそう教えていた。簡単な扱いも、道中に見せてもらっている。それは文字通り舞うような動きで、凄烈でありながら優美であった。
不思議とできる気がしている。
理由はわからないが、ケイ少年はその身に漲る物を感じていた。魔素がどのようなものか、までは理解していないが、黒い霧が体に染み込むたびに、芯から力が湧き出してくるのを感じていた。
「―――ん?」
ふと、地鳴りに似た物を感じた。音とも、振動ともなんとも言い難いそれ。全身に波のようにあたるそれ。これはなんだろう、と思った矢先。
ずし、と、下から突き上げるような揺れが、今度こそはっきりと地鳴りと共に襲ってきた。
「うお、エリザ、シャルロット、ベス、こっちへ!」
父親が母と姉妹を抱き寄せる。何かが来る、直感が囁いた。振り向いた。地を走る溝に、真っ黒い何かが流れている。タールの様な濃さのそれだが、黒い霧と同じものだ。顔を上げると、窪地の街めがけて、周囲の溝全てにそれが流れ込んでいる、地面から絞り出したそれを流しているようであった。
「―――なんて禍々しい」
母のつぶやきに応える者はいない。だがその通りだ、なんて禍々しい。これが、こんな場所が聖地であってたまるものか。こんな場所に、聖人が祀られていてたまるものか。
耳慣れない音が聞こえた、目を凝らせば、窪地のあちらこちらから何かが湧いて出てきている様子であった。それは妙になまめかしい白さを伴って、土中から這い出して来る。非道く冒涜的で、おぞましく、嫌悪をそそる光景だった。死者の国があふれている。防壁を張って行ってくれたことに感謝をささげながら、ケイ少年は油断をしなかった。それが功を奏した。
不意に家族の斜め後ろ、ティタナの張った防壁の内側からも音が響いた。ぞっと血の気が引く。確かに外からは攻められなくても、中に湧き出せばそれはこちらを閉じ込める檻と同じこと。最初に突き出たのは骨だった。何処の骨か、までは解らない。ただ、まっとうな死者のそれではないことだけが確かであった。
「父様後ろ!」
「っ!」
二つ下の妹が真っ先に気が付き、警告の声を上げた。視線を投げれば、そこにはぼろぼろに朽ちた剣を振り上げる骸骨の姿があった。恐ろしく骨太で、おそらくは戦士であったのであろう。朽ちた革の鎧を身につけ、眼窩に汚らしい赤い光を宿していた。
声にならない悲鳴、父親ができるのはせめて我が身を盾に、と庇うことのみ。衝撃音と共に目をつぶった。動ける人間はいない。目の前の確実な死から目を逸らし、覚悟を決める。だが、いつまでも来ない衝撃に、父親が恐る恐る目を開く。
そこには胸から上下二つになり、黒い霧を吹き上げる死者と―――
「―――お兄様?」
―――剣を振り切った姿勢のケイ少年がいた。
誰も動ける者がいない。
それもそうであろう、父親が目をつぶった瞬間。ケイ少年だけが、既に動きを終えていたのだ。
「ケイ?」
「父様たちは動かないでください、僕が、後を任されました」
なにか、ひどく眩しい者を見ている。ジョンはそう思って目を細めた。
先日までの、どこか頼りない、かわいらしい、好奇心に満ちた息子ではない。
凛と強い意志を眼に宿し、きりりと口を引き結んだ、そう、そうだ、これは戦士の容貌であろう。旅装束から覗く腕は、いつの間にか太く、まだ若木のようでありながらもしなやかでたくましい。おそらくは全身がそうなのであろう。男子三日会わざれば活目して相見えるべしとは良く言ったものだ。
そんな事を考えている間にも、ケイ少年は右に左に力強く剣を打ち払うと、湧き上がってきた怪異をなぎ倒していく。そこには父の知らぬ、だが、誇りに満ちて名を呼ぶことのできる息子の姿があった。
5.
ごりり、と、音がした。
どちらもえらく硬い。噛み砕くことに問題はないが、味気ないことこの上ない。粉々になるまで噛み砕いた後に、これだけは上等な葡萄酒で飲み下す。蒸留酒が添加してあるため、度数は高めで腹がかっと熱くなる。余計に苛立った。かりんかりんに乾ききった肉は口の中の水分を奪いつくすし、同じく乾ききったパンは喉にへばりついてうっとうしい。それでも胃に収めた。動くことは目に見えている、闘争の気配が、予感が、確信が道行の先にある。
幾らでも食える気がした。街に着くまでの間、黙ったまま二人して乾物を齧る。干し芋も出て来た。パンよりは気が利いている、かと思ったが、かりかりなら何も変わらない。
まとめて咀嚼し流し込むだけだ。無性に腹立たしい、私は、美味しいものが食べたくて外に出たのだというのに、どうしてこんなものを食べる羽目になっているのか。
まったくふざけている。
のっそりのっそりと肩を怒らせて歩く。食べつくし、手の甲で乱暴に口元を拭った。そんなことをしても手は汚れない。そもそも唇から外に、一欠片、一滴たりともこぼしてはいない。
シルバが空いた革袋を投げ捨てた。べそ、と、どこか湿った音を立てて地に落ちたそれが、僅かに染みを作る。教会はふもとからでは見えない。考えてみれば不自然な丘だ、窪地の街なのに、そこだけぽっこりと高くなっている。まるで、だれかが意図的に盛り上げたかのよう。
「それじゃあ行こうか」
「ああ」
やりとりは短い、やることは対して多くもない。
同時に魔法陣を展開した。考えていることも似通っているのか、そこに表示されているのは、互いの魔術から対象外になるように、今回使うであろう呪文への耐性付与と、身体能力の底上げ、それから、祝福の文言だった。
湧き上がる笑みを隠しもしない。男は獣のように笑っている。私もさほど変わる所ではないであろう。無数に十字架の突き立つ丘を登っていく。墓標の様だと遠目には思っていたが、近づいてみるとそうではない。どちらかと言えばシンボルだろう。聖地らしさを表現するのに、無理やりに飾り立てた悪趣味さ、とでも言えばよいであろうか。
うねうねと続く、十字架の谷、乱雑な大きさのそれらがいつまでも続いている。ふと、自分の庭を思い出した。私の庭であれば、もっと美しく始末をつける。
そろそろ頂上か、そう思ったところで、視界が開けた。そこはそれまでと違い、まるで墓地のように整然と十字架が並んでいる。何らかの魔術的な措置か、一見しただけでは構成までは読み切れないが、まるで工場を連想させた。
十字架の並びの向こう、教会との間に、人影があった。穏やかな笑顔を浮かべる様は、まるで聖職者の様だ。
「これは、ようこそおいでくださいました。旅の方ですかな?」
柔らかい声音、高位の人間なのであろう。白い聖衣に、金糸で無数の縫いとりが施してある。おかしなところは何一つない。それゆえに違和感がひどかった。
「シルベスタ・ラン・ガーデンツィオです、貴方は?」
「教会長を認められております、ウナ・スクレーフィオと申します」
聖衣の男は深々と頭を下げると言った。
「化かし合いはやめにしましょう。キマイラが斃された、いったい何者が、と思っておりましたよ。流石は辺境の勇者どの」
「話が早いな、目的はなんだ?」
シルバの言葉に、優しくウナ教会長は微笑み返す。
そして。
「ええ、それはここで果てる貴方には関係のないこと。―――“渇望よ、泥濘の底より来たれ”」
力ある言葉と共に、異様な魔素が空間に漲った。
「これは―――」
泥濘の海と化した丘が、教会をのみこんでいく。
溶けるように崩れるように、丘がその高さを減じていく。
同時に耐えがたい腐臭が湧き上がった、無数の蠅が、ウジが、泥のそこかしこから湧き出してくる。
魔術でくくられ、十字架で留められ、積み上げられた死体が成していたのだ。これは死肉でできた丘であった。
「なんと悪趣味な……」
そこかしこから、例の湖沼地帯で襲いかかってきた魔物が湧き出してくる。なるほど、骸の中で魔素と親和性が高い者だけが、あれになっていた訳だ。強者であればキマイラが食らい、そこそこの者ならばこの骸が丘に積み重なる。焼き払おう、結審まで時間はない。
「跳べ、シルバ!」
「応!」
足場にしていた十字架を蹴り、シルバが高く舞った。同時に顕現させるのは竜の焔、万物を焼き尽くし、滅ぼしつくす真の紅蓮。渦を巻くように眼下に炎が走る。木製の十字架が、一瞬で灰に変わる。瘴気も腐臭も燃料に変えて、地に淀む穢れを浄化せしめん。
再び男が地に足をつけた時には、大地は沸騰した硝子が冷えたがごとき有様を呈していた。硬質なそこに足場の不安はない、ずらる、と男が背の大剣を引き抜いた。
余裕であったウナの顔に、引き攣りが走る。
「……おお、何という強大な魔術、お名前を伺っても?」
「イリ・クトロンニク・コロマイディズ・オ・ティターニア。―――下郎には過ぎた名であろう、疾くひれ伏せ」
言葉に従うかのように、ウナが膝をついた。
なんだ、小者か。鼻で笑った。
心が弱い。これならば、ランベルテの方がマシよほどましだ。蓄積されている魔素も、さほど期待はできまい。
「ぐ……っく!」
言葉も出ないのか。血走った眼で歯を食いしばりながらウナが立ちあがった。琥珀騎士団よりはできるらしい。
「ぐ、この、よくも……よくも!」
見下されるのが余程腹にすえかねたのか、次に展開された魔法陣は百を超える。
構成は、数の指定、か?
「“起源たる魔素の王に奉る、我が鍵言に力を貸したまえ”」
街並みを走る溝に、再び魔素が漲った。解き放たれた力ある言葉、どうやら、上位存在から魔素を引き出しての召喚らしい。宙空の揺らぎから、がらがらと音を立てて騎士甲冑が吐きだされる。鋼鉄の色合いではない、穢れた、なんとも冒涜的な色合いで、背徳的な形状のそれは、魔素のみで構成された呪われた鎧だ。そこに、この地で汚され捻じ曲げられ歪められた怨念が取り付いていく。
「さあ、行け我が騎士団よ!」
周囲に死霊騎士が、およそ百ほど。
数の優位、と見たのであろうか。ウナはシルバに向けてほぼすべての兵力を向かわせると、こちらには三体のみを差し向けた。
「―――さて、ティターニア嬢」
思わず天を仰いだ。
肉欲だ。肉欲に満ちた声だ。これで決まった、あの呪詛はこいつが仕掛けたものだ。
「あいにくとお名前を存じ上げませなんだが、いかがでしょう、私と共にいらっしゃいませんか?」
「悪い冗談だな」
ひきつれたような笑い声を上げながら、ウナは続けて声を上げる。
「いかに貴女様が高名な魔術師でも、三体の死霊騎士に私を同時には切り抜けられますまい」
「さあ、どうだかな」
「余裕がおありですな、ではお試しされてはいかがかな?」
確かに目障りではある。指を鳴らして、炎を一つ飛ばした。力ある言葉を用いずとも、たかが死霊程度であれば―――と。
「―――ほう」
本来であれば消滅してもおかしくはない。だが、そこには無傷の騎士が立っている。
「我が騎士団に魔術は通用しませんよ、御理解いただけたでしょうか?」
「そうだな、理解した。相手にならんな」
「そうですか、それでは降伏される、と。それは実に賢い選択ですな―――」
手のひらをかざした。気圧されるように、ウナが言葉を途切れさせる。耳をすませるような仕草。そこまでしなくとも、徐々に破砕音が近付いて来る。
「別に、私の魔術が通じなかろうが、ウナよ、貴様はここで死ぬ」
「なっ」
唐竹割に、抜き胴に、逆風に。
鎧を紙のごとく切り裂きながら、一体を一刀で斬り伏せながら、男が颶風のごとく姿を現した。キマイラ相手の時とは違う。まるで隙のない、無駄のない動きである。動いた瞬間にはそこにいない。残されているのは、魔素の霧と残骸のみ。
ひときわ大きな破砕音。男が剣の腹で打った騎士を、こちらに飛ばしてきたのだ。
「―――ひ」
矢のごとき視線。文字通り男の眼光がウナを貫いたのであろう。身をすくませると、あたふたと騎士に指示を出す。
「お、女を人質に取るのだ!」
がしゃりと、死霊騎士がこちらに向かってくる、いや、実に舐められたものだ。
振り下ろされた剣に、右外受けを合わせた。剣の腹を叩くようにして、刃筋を半歩逸らしてやる。同時に半歩逸れて、中段に突きを打った。一体目が腹を中心にひしゃげて崩れ落ちる。それが地に落ちるより早く、一歩退きざまに足刀で騎士の足首を砕いた。地に這うような姿勢になったこちらに、三体目が剣を振り下ろしてくる。伸びあがりざまに柄頭を打った。まだ緩く握られていた剣が飛び、無防備な胸がさらけ出される。躊躇なく突いた。これで二体、そのまま身を翻し、倒れ行く騎士の背に膝を、腹に肘を重ねるように合わせる。致命的な音がして鎧は潰えた。三体。
「なにか勘違いをしているようだが、私が無手では無力だと、誰かが言っていたのかな?」
荒い息だけが、返答の代わりに聞こえて来た。




