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湖沼地帯を抜けて二日が経った。一家をかばいながら、であるため進みは遅い。雨に降られないのが幸いであった。目的地までおよそ三日、二人だけであれば一日で到着できるであろう。
今のところ魔獣による襲撃もない。道中猪と熊には一度ずつ遭遇したものの、こちらの脅威をよく理解してくれていたようで、問題にはならなかった。
感知できる範囲で追い抜かれた形跡はない。油断はできないが、情報は今のところ、先んじていると考えてよいであろう。
背嚢を背負いなおす。これと言って音はならない。荷物をきちんとくくってあれば、そうガタつきはしない。疲れないための工夫の一つだ。重たいものを上に、軽いものを下にするのも。食料品を取り出しやすいように、下側にも口を作ってあるのもだ。背負い袋は即応性に富むが、持って歩き続けることを考えると、今一つ、となる。たまに、剣の鞘や、槍にくくりつけているのを見かけるが、そうなってしまえば本末転倒であろう。
とはいえ、人間の三人や四人、担いで歩いたところでなんの影響もないのであるが。
いっそ彼らを担いで歩いてしまった方が早く進めるのでは、そう考えて、吐き捨てるように笑った。彼等は巡礼だ。歩くことがそもそもの目的のようなもの、途中の苦難は香辛料そのものだ。甘やかされることは期待していないであろうし、歓迎もするまい。
見捨ててしまえれば楽なのであろうが、あいにくとそこまで荒んではいない。と、言うよりは、むしろ進んで助けたい所である。彼女からすると荷物も良いところであろうが、しばらくは我慢してもらおう。
些少のトラブルこそあれ、旅程は少しずつ残りを短くしていく。わずかずつではあるが、緊張感も高まっていく。一度解呪した呪詛はその後は効果がない。ティタも、熱に浮かされた数日とは、打って変わって調子がよさそうであった。
街道とは名ばかりの、ごつごつと木の根の浮き出た、細い道を行く。足場は悪い、人が通り続けたがために、凹凸のある森の、そこだけが陥没した道。これも解せないことであった、これだけの規模の道は、一朝一夕に成らない。日に十人二十人では、百年かかってもこうはなるまい。で、あるならば、細々と細々と、数百年はかけて、王国への滅びは進行しているということだ。
「あの、シルベスタさま」
思案顔で顎を擦っていると、背後から声が掛けられた。巡礼の息子だ、名前は、ケイであったか。
「どうした?」
「はい、よろしければお話をと思いまして」
「俺で良ければ相手になろう、ティタ、警戒を頼む」
「うむ? 心得た」
索敵の交代を告げ、ケイの隣に並ぶ。まだ子供だ、身長差は半分ほどある。そも、平均身長が140㎝そこそこの世界だ。自分は十分巨人の部類であろう。見上げながら歩くケイに、前を向いたままで構わないと続けた。転ばれても良くない。
「シルベスタさまは、魔王を倒されたとお聞きしました」
「ああ」
「魔王とは一体なんなのですか?」
「それは単純だが良い質問だな」
自身の考えをまとめるついでに、魔王についての考察を唇に乗せた。
魔王とは何か。
「そも魔族とはなにか、魔物とはなんなのか、問題はそこから始まる。何が違うか分かるか?」
「いいえ、漠然と悪いものとしか」
「実はその認識が間違っているのでは、俺は考えていてな」
え、と、ケイが驚いた。他の人間も、目を丸くして此方を見ている。さもありなん。世間の常識とは、まったくかけはなれた見解である。
「今の教えは、基本とすて人間を最上と置き、それ以外の知恵ある種族を魔なるもの、悪なるものとして、遠ざけるべきと教えていると思うが」
「はい、その通りです。……違うのですか?」
「ああ、違う。なぜ本当のところを教えないのか、となると、心の弱い人間では、その事実に耐えられないからだろうな」
「どういうことでしょうか」
「自尊心が傷つけられるから、ではないかな」
人間は、この世界では弱い生き物の内に入る。魔素を操る術は拙く、魔素の蓄積も効率が悪い。牙も爪もなく、繁殖力だけが旺盛だ。
「対して、魔族と呼ばれる亜人種、これはそれぞれがそれぞれの能力に秀でている。森を往くもの、地を往くもの、水面に暮らすもの、天を駆けるもの。どれも人間では到達できない高みにある」
「人には人の営みがあります、僕には、それらが羨ましいとは思えないのですが……」
「それはケイがまだ何も持っていないからであろうな、どういう訳か、人間は、ある程度の力を備えると、自らより強い者を憎悪する傾向がある。かく言う俺も、そんな事を考えた時期があった」
「それは、どうしてですか?」
「一番になりたいからだ。誰よりも上に行きたい。その手段として、自分を高めるのではなく他を下げようとする。その方が簡単だからだ」
「……僕は今、ひょっとして聞いてはいけない、考えてはいけないところに踏み込んでいるのではないでしょうか」
「智いな。やめるか?」
「……いえ続けて下さい」
「そうか。ただし、ここから先は知らない方が幸せかも知れんぞ」
間違いなく、彼等の信仰に関わってくるであろう問題だ。主信教の教えとは、かつてのキリスト教のそれに似ている。自身の教えを絶対とし、それ以外の弾圧をなしてきた歴史がある。そも発祥は、古代王国の崩壊に端を発している。そこから導き出されるのは。
黙ってしまった少年を置いて、考えを纏めていく。
魔王とは、それら力ある種族が、一種突然変異のように力を増大させた者だ。獣がうっかりと人を殺し、次第にその魔素を溜め込んで魔物、魔獣に変わっていくのに等しい。魔王と魔獣の違いとは、知性のあるかないか、だけでしかない。
故に、必ずしも人間と敵対する訳ではない。争いが起こるのは、大抵の場合、どちらかがどちらかの領域を侵した時に限る。
例外は、何らかの切っ掛けで、人間が魔王となった場合だ。
他人事ではないな。
自身の現状を省みるに、いつ自分自身も、魔王として認定されたとしてもおかしくはない。それだけの脅威を秘めている自覚があった。戦場であれば、戦術規模での敗北を、戦略規模での勝利に書き換える事ができる。その自信と裏付けがある。
それは即ち、一国を単身で滅ぼせるということ。
言わば歩く自然災害、人形の竜が国内を徘徊しているようなもの。権力者からすれば、頭の痛いことであろう。自身の築き上げた、絶対であるはずの地位が、一瞬にして砂の如く砕かれる。僅かでも疚しいことがあれば、死ぬまでその妄想に苛まれるのだ。ましてや、その畏れる対象は、人々から勇者だ英雄だと持ち上げられており、まるで一挙手一投足が監視されているように感じるであろう。
ふむ、と、口許に手をやった。一千年の昔、古代王国の滅亡は、勇者と魔王の果たし合いの結果と伝えられている。私見からすると、これは半分正しく、半分間違っているであろう。恐らくは、たった一人の英雄を、善悪両面から見たのがそれであろう。
察するに、やはり呪詛の類い。
魔素は肉体の極限を更に超えて、生物としての枠組みすら突破して身体を強化する。だが、精神は強化されることがない。心が脆弱な人間であれば、たやすく暗黒面に堕ちる。先日の呪詛がごとく、気がつかず、知らず知らずに狂わせられることもあるであろう。禁呪と呼ばれる類いだ。人の気がつかぬままに意のままに操る術、まさに魔王が振うに相応しい。
強力な個人がそれを受け、狂気に堕ち、正しくあろうとする心が反転してしまったら?
深い愛情は深い憎悪に変わりやすい。向きが違うだけで、執着の形の一つだ。
疎まれた英雄が姦計に落ち、魔王に転じて古代王国はその歴史に幕を下ろしたのであろう。鳥の声が止んだ。
「シルバ」
声音に変化はない。だが今のは警告だ。何物かがこちらの隙を窺っている。それとなく位置を変える。風下に自分、風上にティタ、間に一家を置いた。
誰も喋らない、わずかに吹く風が心地よい。警戒心は表に出さない。獣だ。大型の獣がこちらをうかがっている。魔素の気配がする、これは魔物、否、魔獣か。忍び寄るそれに隙をさらす。斜め後ろだ。自分を越えなければ、やわらかい肉にはありつけない。感心するほどの穏行、まるで猫科の猛獣。否、事実その通りなのであろう。茂みはまるで音を立てない。気配もない。ただ、危機感だけが警鐘を鳴らしている。背嚢の留め具をそっと外した。
「シルベスタさま?」
ケイの声を合図に全てが動いた。わだかまる闇が飛び出す。背嚢が地面に落ちる、剣の留め具を外す、抱え込むように牙と爪が襲ってくる、剣は間にあわない、左の拳を鉄槌に、襲い来る爪に叩きつけた、僅かに軌道が逸れる、短剣のごとき爪が頬に浅く筋を引く。ただ熱い、良く切れる剃刀を思わせた。
衝突音が響く、ティタの防壁か。これでこちらは集中できる。獲物を庇われた獅子―――否、襲い来る毒蛇の牙をやはり裏拳で張り飛ばした。付け根は獅子の尻につながっている、後ろからでは頭が山羊に見えた、勇壮な巻き角と、横長の瞳がこちらを見ている。展開された魔法陣に見覚えはない、がくりと、足が止まった、何かが足に巻きついている。植物か、なんらかの束縛か。目をやる暇はなかった。
キマイラ。敵はキマイラだ。ばり、と、歯を噛んだ。恐ろしく大きい、頭から尾の付け根までで、ざっと六mはある。高さも3mはある。振り返った獅子の顔は憎悪と狂気に満たされていた。あの
大気が吹き飛ばされるように震えた、獅子の口が吼えたのだ。一家の女たちが意識を失って倒れていく、父子が気丈にも女の達前に出た。それを更に制するように、ティタが地面に直接魔紋を刻んでいく。防壁の強化だ、あちらは心配いらない。それよりもこちらだ。文字通り鉤爪は短剣を五振り束ねたよう、当たれば一撃で肉に変えられる。口も恐ろしい、ナイフのような牙がずらりと並んだそこは、自分の頭くらいなら、肩ごと一口に食いちぎるであろう。全身が濡れたように黒かった。もともとの体色か、禍々しさがほとばしる。
一瞥して柔らかい肉はあきらめたのか、回り込むようにこちらの気配をうかがっている。剣を抜き放った。ひくり、と、獅子の鼻が憎々しげに皺を深くする。不敬、不遜である。王者の目だ。そう言っている。言葉がなくとも通じた。足はいまだに囚われたままだ。
ふいにキマイラは跳んだ、予備動作も音もない。こちらの意識が足に向いた瞬間。視界の外に動く姿は優美ですらある。地面ごと剣を振りぬいた、一足に解呪を施し、二足に切りつける。手応えはない。空中で器用に身をよじると、見えていないはずの角度からの奇襲は回避された。否、蛇の眼がこちらを見つめている。この獣に隙はなかった。宙でたわむ蛇を牽制する、また、山羊がなにかの魔術を展開している。やりにくい相手だ、一つ一つ黙らせようにも他の二つの頭が邪魔をする。獅子の筋肉が大きく盛り上がった。察するに身体強化、まだ早くも強くもなるのか。
弾けた。それ以外の表現が思いつかない。そんな速度でキマイラが迫る。線の動きが点に。狙いは単純だ、爪で抑え込み牙で食い殺す。単純ゆえに恐ろしい。当たればそれでおしまいだ。もう一度はやり直せない。
まっすぐ襲い来る爪を跳ね上げる。ひどく硬質な音、ろくでもない硬度、加工すれば、良い道具ができるであろう。僅かにあいた空間に身をねじ込む、そこに蛇の頭が合わせられた。煙を上げる毒牙を、外套でいなす、好機だった。蛇体に滑らせるように剣を跳ねる、気がついた獅子がみをよじった、僅かに傷が浅くなる、だが、骨は絶った。
憎悪と苦痛に満ちた咆哮が響く。全身が衝撃に叩きのめされる、音が爆発した。一瞬の思考の隙間に、山羊の後足が迫る。馬のような蹴り上げをかわす、丸太で突き上げられるようなもの。背後にあった、一抱えはありそうな雑木の幹が弾けた。あんなものに蹴られれば、頭がそれこそ弾けてなくなるであろう。なんて恐ろしい、一瞬先の死が常に見えている。隙か。僅かな硬直に踏み込む。否、誘いか。まるで隙などなかったかのように向き直る獅子が飛び込んでくる、いまさら方向は変えられない。正面から衝突しそうになるところを、僅かにそれて跳んだ。鬣と、山羊の角をつかんで這い上がる。衝突の勢いそのままに、剣を山羊の首に突き立てた。べえ、とか、げえとか鳴いて、展開されていた魔法陣が消滅する。これで一対一。
叩きつけられた。何があったかわからない。肺の空気が口から鼻から無理に押し出された。押しつぶされたと言ってもいいか。急激にかかった圧力に、口と鼻から血が噴き出した。切ったか、それとも血管でも破裂したか。金臭い味だ。何だ、木か、岩か、どちらにしろ目は見えない。視力が戻るまでの刹那、思わず手がほどけた、振り落とされて、踏みつけられる。吸い込んだ空気がまた、蛙を踏みつけたよう。爪が胴鎧に食い込んだのがわかる、ちくりとした感触。肌にまで届いているだろう。赤い口がのぞいていた、顔を振って、食い付きを避ける。捕まえなおそうとしたのか、獅子が僅かに重心を変えた。逃すか。自らを抑えつける前足、その母指をむんずと掴んだ、力任せに捻じ曲げる、生木をへし折るような音がした。跳ねざまに巨体がどく、母指をつかんだそのままに獅子の肘に絡みついた。自分の胴ほどもあるそれを全力でひしぐ。折られまいとする力と拮抗、何という力、全力でも徐々に獅子の口元へと運ばれる。ならば、と、母指から手を放し、もう一本の爪を掴んだ。恐ろしい握力が、折られまいと力を込める。緩やかに肘の角度が開いていく、こちらも限界は近い。思い切りひねった、生々しい音がして、爪の付け根が裂ける、赤い飛沫が舞った、肘の力が緩む。吼えた。吼えながら反り返る。みちみちと、腱がちぎれる音、肘の骨が外れる音、ついでに爪がへし折れる音が僅かな差をあけながら響く。
これで機動力は殺した、爪と牙の脅威は半分以下になったと言っていい。
跳び退って、膝をついた。被害の大きさはどちらもさほど変わらない。肋骨が踏みつけられたときに何本か痛めている。折れているのか、ひびなのかは分からない。息をするたびに激痛がほとばしる。脂汗が全身をぬめらせた。今すぐにでも逃げ出したい。そんな欲求が頭を過ぎる。怖かった。気を抜けばすぐに死ぬ。気を抜かなくても死ぬ。一瞬で死ぬ。殺される。なんと恐ろしい。
震える膝に力を入れた。だめだ。逃げ出すことはできない。逃げ出そうとしても殺される。意識に赤い力を注ぎこむ。武器はある。先ほど奴から奪った爪が。これを奴に返してやるのが筋だろう。獅子が此方を見つめている。その目には、最早狂気がなかった。脅威と、畏敬と、純粋な怒りがある。喜びに溢れていた。いと小さきものよ。しかし猛々しきものよ。勇ましき、恐ろしきものよ。我は貴様を殺す。殺して其の肉を食む。血を啜り、命を取り込む。意志が伝わってくる、そこには憎悪など無い。ただ敬意がある。対等になっていた。狩り狩られるものではなく、一対の戦う化者がそこにあった。
襲いかかった。咆哮を上げながら。奴は爪で迎撃を狙った様子だが、激痛と片足のせいで上手く動けない。逡巡は一瞬、だが瞬間を逃せば終幕は目の前だ。気がついた時にはもう遅い。逆手に握りこんだ爪を、奴の左目に突き立てる。絶叫と共に棹立ちになった。体が持っていかれる、腕が異音を立てた。それでも爪を放さない。体が一緒に空中へ、立ち木の枝に叩きつけられた、みしりと、またあばらが嫌な音をたてる。こらえて鬣を掴んだ。暴れた拍子に右手は爪から引きはがされる。背中が今度は獅子の顔に叩き付けられた。わき腹のすぐそばでがちがちと牙が鳴る。ぞっとした、幸い左足はこちらに届かない。だが、僅かでも均衡が奴に傾けば、死ぬのは自分だ。
武器だ、武器が要る。
また棹立ちになった、枝に叩きつけられそうになった拍子に、その枝を掴む、力任せに幹からもぎ取った。そのままの勢いで、ささくれた断面で鼻をしたたかに殴りつける。情けない悲鳴が上がった。もう一発。血飛沫が舞う。もう一発。今度こそ嫌そうに顔をそむけた。
渾身の力で、ぎざぎざにささくれたそれを右目に突き立てた。手のひらほどもある眼窩に、みきぶきと不気味な音を立てて押し込んでいく。魂ぎる様な絶叫、だが許しはしない。一度敵として見えた以上は、ここで殺すことが慈悲だ。
眼底に突き当たった、それ以上はすぐに進まない、のたうちまわる獅子の鬣から、振り落とされまいと力を込める。また棹立ちになった拍子に体が反転した。両足を、その太くたくましい、野生そのものの頸に回す。締め上げた、だが、効果は薄い。気道は潰せていない。武器が足らない。
後頭部を、山羊の角がだらしなく打った。頸骨が絶たれているのか、力は入っていない。剣の在処を思い出した。必死に過ぎて曖昧だ。酸素が足らない、息をしている暇がない。振り返る余裕もない。それでも後ろに手を伸ばし、幾度か手に傷を負う。掴んだ、感触からして刃根本、此処ならば握り締められる。切り裂くように山羊の首から剣を抜き取った。噴き出した血が全身を染める。脚が血で滑る、限界は近かった。
獅子の体がぶるりと震える、己の致命を悟ったのか、弱弱しく鳴くと、最後の抵抗を試みた。暴れ馬のようにキマイラが跳ねる。目に突き立った枝は、どこかに飛んで行った。涙のように両眼窩から血が流れ出る。弾き飛ばされそうな体を、足任せにしがみついて、延髄に切っ先を当てる、強靭な皮膚と、針金のような体毛。見事だった。ほれぼれする。刃根元を右手で握り、鍔に左手を添える、一気に貫いた、雷に打たれたように痙攣する。断末魔、咆哮は既に力無い、そのまま押し込んだ、柄を握り、柄頭を掴み、鍔で止まるまで力任せに。
獅子は一度大きく竿立ちになると、立木を倒すように、ゆっくりと地響きを立てつつ横に倒れた。
疲れ果てた体を横たえる。思い付いて重い体を起こした。剣を獅子から抜き取ろうとして、力尽きた。毛皮にもたれ掛かる。ごうごうと鞴のよう、荒い息をして、ぶるぶると震える手を見詰めた。死を覚悟した。それも、何か攻撃される度に。恐ろしかった。強かった。気高く、美しかった。なんとか剣を抜き取る。それで完全に力尽きた。亡骸から濃密な闇が舞い上がる。すわ呪詛か、と身構えたが、それこそ濃密な魔素の霧であった。染み込むそれが、傷を癒していく。全身を快復させてなお余るそれ、みしみしと音を立てて体が強化されていく。ますます速度の上がる思考、だが精神の疲労は拭えない。
今ぐらいは良いだろう、魔素の抜けて、柔らかくなった毛皮に身を委ねる。ティタも側にいる。親指を高く掲げた、ケイとその父が吼えるように喚声をあげている。獣のように笑って目を閉じた。ああ疲れた。強敵よ、一つ間違えば己の姿であった友よ。しばし胸を借りる。そんなことを考えながら、張り詰めていた意識の糸を手放した。




