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竜は夜に飛ぶ  作者: dora
第二章 渇望は泥濘の底から。
19/66

1.

1.

 ざっ、と、揺れる水面を破るように何かが飛び出した。

 目に入るのはまず大きな口、木釘のような乱杭歯ががちがちとなる。鋭さはない、が、そこから漂う腐肉の臭いが恐怖を煽った。悲鳴が上がる、えらぶたの下に指を突きこんで向きをそらした。乗り合わせた乗客にぶつけないように、腕をへし折りながら船べりに叩きつける。衝撃で敵の動きが鈍った、そのまま男の方へ投げると、待ち構えていた剣が、かつて人間であったであろう魔物を真っ二つに切り裂いた。

 一瞬、周囲に黒い霧のような魔素が広がり、私達に大部分が、周囲の人間に僅かな量が吸い込まれていく。

 量としては微々たるものであろうが、久方ぶりにその放散と吸収を見た気がする。一定量以上、となると、最後はいつであったか。甘露を舐めたような感覚に身震いする。

 ―――ああ、やはりこれが良い。直に血肉に変わる気がする。

 己の内に潜む獣がそう囁く。息の根を止め、喉首を切り裂き、地を啜り、肉を食めと。

 断じてお断りだ。

 肉の甘さをあ知っている以上、わざわざ血抜きもしていない臭い肉を食べていたいとは思わない。その気になれば狩れるであろうが、そんなものは相方任せでこちらは火の番だ。

 意識が逸れた。隙と見たか、こちらに飛びかかってきたそれの喉首を爪で切り裂く、一瞬で絶息した。暴れて血飛沫を上げられても困る。男から借りている短剣で脊椎をたった、あまりそれらしいそぶりも見せてはいられない。細かい痙攣こそすれど、最早死に体であった。ぶわ、と、魔素が散った。

 ああくそ、これは例えようもなく甘い。

 水面が揺らぐ、まだ数は多い。うんざりすると同時に、ぞくり、官能的な痺れが背筋を走る。

 これはまずい。いけない兆候だ。

 思い返せば一対一こそ多くあれど、これだけの数を相手、というのは幼き頃以来な気がする。あの頃はまだ未成熟だったから良かったのだが、今、この体となってみると、いかんともしがたい疼きがある。

 これは良くない。

 せめて、今日はあと、三度程度でなければ。

 跳ね上がってきた人型のそれに爪をあわせる、額から尾鰭まであまさず切り裂いた。膨れ上がった魔素の霧に包まれある。甘い、甘くて痺れる。何という快楽。これは断続的に味わってよいものではない。

 魔物が狂う理由がこれだ。血に酔うと言ってもいい。人は鍛えられればそれなりに強い。魔物も、歳経ればそれなりに強い。結果として、魔物は一息に人を殺せず、一人、また一人と時間を掛けて葬ることになる。

 その都度甘く狂わせる黒い魔素の中で震えるのだ。

 徐々に血の臭いが匂いに香りに芳香に変化し、血の味が鉄臭さから旨味の多いスープに滋養満点な甘露に化ける。肉の味など言わずもがなだ。


「シルバ! もう保たない!」

「心得た!」


 切迫した言葉に乗客が船べりから覗き込む、水面を揺らす影は、先ほどの倍ほどを見せていた。絹を裂くような悲鳴が上がる。身を守るすべに乏しいのであろうから、あまりそういったことをしてほしくはない。

 乗り合わせた誼で私は助けているのだが、相方はそうもいかないのだ。

 どうやら誤解されたのは敵の数らしい、人はどちらかと言えば血には酔いにくいようだ。保たないとは、私の理性がもう保てないとの意味で。この場で鱗や角なぞ生やして恐慌を招くなど、恥ずかしくて仕方がない。

 ああ、まずい。

 本当に抑え、が、効かない。

 ぞくり、ぞくり、と、肌が粟立つ。

 獣が囁きかける。いっそ竜体を解き放って、周囲全てを焼き払ったらどれだけ心地よいことか。

 窮屈に押し込められた体をはじけさせて、久方ぶりの大空へ―――

 それはだめだ。せっかく楽しくできているところで、いまさら一人遊びなど。

 一瞬の解放感に、全てを対価にするほどの楽しみはない。

 けもののあやうさ、思考が加速している。返答から展開までの時間差がもどかしい。

 実際には、返答と同時に周囲に魔法陣が展開された。遍く魔獣、幻獣の頂点に立つ竜種だからこその超感覚、これで男を責めるのも酷という物が過ぎる。

 時間を掛けて準備されてきたのは、この船を攻撃対象外とする防御結界陣だ。それはこちらの言葉よりも早い。


「“雷挺よ、遍く敵を撃て”!」


 珍しく響いた男の力ある言葉、同時に、水面に無数の、おそらく百は下らないであろう魔法陣が展開し、天地を貫く轟音と共に、雷撃が解放された。


「よし! ……あ、と」


 一斉に水面から吹きあがる黒き霧。今までにない密度のそれ。顔が引きつったのがわかった。一斉に体に吸収されていく。これはまずい。脳裏がちかちかと眩く明滅し、成長と強化という仮面を被った快楽が、暴力的な肉の喜びが意識を火で焼きつくす。全身に稲妻が走る幻視、両翼の幻肢が大空に力強く羽ばたいている。思わずこめかみを押さえた、皮膚を突き破り伸びる角を押し隠す。

 耐えろ。

 こんなみっともないところを彼には見せたくない。

 先日見た冒涜的で背徳的な交わりが脳裏をよぎる。

 嫌悪と共にそれを押し込めて、消えかかる意識をつなぎとめる。

 親指を掲げて見せた。肩で息をしながら、男も親指を高く掲げた。





「なんだったんだあれは」

「さて、な。俺も始めてみるが、まともなものではあるまい」


 は、と、荒い息を隠して眉根を寄せた。

 異常、と言うか、不気味に過ぎのそのカタチ。

 いかなる魔獣でも、生態系にはきちんと組み込まれている。もっとも、魔素と神々という因子により、元いた環境よりも大型化、特殊化はしているが。

 しかし、今襲い掛かってきたあれらは、その枠組みからはみ出している。人間を襲うことに特化した機能、この湖沼地帯を抜けさせないが為の仕組みのごとしだ。

 しかも、しかもだ。どこからどう見ても、それは人間の姿をまねているように見えるのだ。むしろ、もともとの人間を魔素に漬け込んだ醜悪な漬物と言ってもいい。


「なににせよ、この道であたりだな」

「ああ、まったく気味の悪い」






 街道の途中で行き合った、巡礼の一家と道中を共にしていた。なんでも話によれば、この道の先には新しく主信教が聖人と認定した賢者の墓所があるらしい。連れ立った一家に聞こえない程度の声でシルバに語りかける。


「聞いたことがあるのか?」

「いや、ないな。記憶にある限りだが、この十年ほど、対外的にはそういった発表がない」


 実にくさい話だ、教会での地図と数字をいやな鍵が埋めていく。どうしてそちらに行くことに、と、訊ねれば、教区長にそう勧められたから、と返ってくる。生臭さが先に立つ話であった。

 魔物からの襲撃に、全く無防備な一家を。

 出てくる数が数だ、それらがまったく周知されていないのがおかしな話。そもシルバによれば、これだけの危険が潜む以上、街道には傭兵があふれておかしくはない、とのこと。国の中心からいかに外れていようと、この地を守護する領主には、旅人の安全を保護する義務があるというのだ。魔物の大量発生となれば、騎士団が動員されてもおかしくはない。出なければ、旅人は自発的に傭兵を用いることになる。腕の立つ人間はそれなりに高額ではあるが、命には代えられない。

 だというのに、それらが見当たらない。

 この湖沼地帯までの道行には、行く先に危険など存在しないかのような平和があった。


「抜けるまで、後幾日ほどだ?」

「二日、といったところか」

「うへ、そんなにかかるのか」


 うんざりとして下唇を突き出した。

 しかし考えてみれば、船は貸されたが船頭は居ない。神のお導きがありますように、との挨拶からすると、船を貸した村の長も関係者なのであろう。となれば、目的地どころか、街道の相当手前まで魔手が伸びている、ということだ。

 とはいえ彼等はあくまでも末端、そんな所をつぶしたところで時間だけがかかる。頭さえつぶせば無害なところでもある。かかずらわっているのは時間の無駄であろう。

 こちらとすれば、一刻も早くこの厄介な水辺を抜けてしまいたい。





 眠れぬ夜を二度ほど過ごし、やっとのことで湿気た土地を抜けた。帰りもあそこを通ることになるのかと、今のうちからげんなりとする。表情から察したのか、何か手掛かりがあれば、違う道を行くこともあるだろう、とシルバが言った。男の言うとおりである、何の手がかりもなくとんぼ返りでは、無駄だの何だのという以前に、徒労感が激しいであろう。また、逃げ出されたとの感覚から焦燥もまた激しいと思う。一番焦れているのは、そもそもシルバの方なのだ。

 私はあくまでも―――


「と、あれ」


 ―――あくまで。

 あくまでも何だというのか。

 彼に気を使っていた。そういう訳ではないが、そろそろごまかすのもどうなのか、とは思う。

 なにしろ、これは私の目的ではない。彼の目的でもない。いや、大まかにいえば、彼の養父、その仇討ちへとつながる道行なのであろうが。

 ただ、どうにもおかしいとは感じている。なにが、と問われれば、答らしきははっきりとしない。


 おそらくは、そうおそらくは、私達の共通の点として、今生きる目的が希薄なのだ。


 それが一番しっくりとくる答であった。互いにその種の内では頂点と言っても良い。それこそ、残されている生物としての目的は、子を成して次代に繋ぐことぐらい。

 一考して却下した。なんでトカゲの子なぞ孕まなければならないのか。


「したいこと、か」


 声に出して、思いもよらなかったほどに気持ちが乗っていることに驚いた。

 千二百年ほどか。生を満喫する、ということに関してなら、いまだ満足はしていない。この身であれば、世界中の美食もあまさず食する事ができるであろう。

 だが、それだけではないか。


 とかく幼いころは生きる事に必死で居られた。食べるために殺し、殺されないために食べた。殺されないために魔素をたらふくため込み、犯されないために同種を皆殺しにした。

 そうだ、私は人でありたかったのだ。

 なんで今更こんなことを、とも思う。おそらく、今まで封じて来た人らしさが、今になって溢れてきているのではないだろうか。

 人の形をして、人の生きる時の流れに合わせているから、その流れに慣れ切っていないのだ。

 なにしろいままでは悠久を生きていた。人の言う十年を一日のように感じていたのだ。それこそ人の営みなど、瞬きひとつの閃光のようなもので。

 こんなに楽しい日々は、生まれて初めて、なのだ。

 では、何が不満だと言うのか。今の私はこんなにも楽しいというのに。食事は美味しく、見る景色は何もかも新しい。

 そうだ目的だ。まて、おかしい。これではまるで、なにかに誘導されているようではないか。


 寝床から起き上がって、額を押さえた。

 このところ、断続的に魔素を吸収している。血に酔っていた。体がやけに疼く。静め方をしらなかった。滾るものを襲い来る敵にぶつければ、さらに灼熱の衝動となって身に返る。正気を保つことが、こんなに難しいとは思ってもみなかった。

 何しろ甘く疼くのだ、指先がちりちりと痺れるように。末端と言う末端が、鋭敏にその感触を伝えてくる。息が自然と弾み、頬が紅潮しているのもわかる。笑っているのも知れた。

 なんてあさましい姿。

 けものじみてだらしない。

 思考がまとまらない、いっそ水でも被れば、とも思うが、あれが漬かっているかもしれない、となれば煮沸してでも思いとどまる。いっそ使ってしまえば、とも思うが、それほどの強敵に出くわすこともない。じわじわと理性が茹でられていく。

 無敵だと思っていた自分の敵が、まさかこんな所に潜んでいたとは。


「……潜む?」


 ふと、思い当たった。

 くるまっていた外套から起きだして、そっとシルバの背後による、彼はたき火の向こうを見つめるようにして、不寝番をしていた。


「どうした」


 問いかけには答えない。

 訝しむ気配を感じながら、その背後に座り込む。

 そっと体に手を添えた。なにごとか、と、彼の体が硬くなる。


「動くな、声を出すな」


 背中に額を押しあてた。そしてそのまま―――

 ―――ここ数日取り込んだ、魔素の使われている先に意識を伸ばす。

 

 使われた先を追う、どういう訳だか、神経系に多く使われている。末梢神経と、自律神経系、性ホルモンを司る部位にも。


「やはりか」

「いったいどうした」

「呪詛だ。魔素に、それと気づかない大きさで乗せられている」

「……なんだと?」


 構造を解析、拡大して手のひらの上に魔法陣として展開する。念の入ったことに、一度取り込んだ本人では解呪できない仕組みになっている。


「なんて陰険な」

「色欲、を司る敵がいるらしいな」


 彼も展開されたそれを見て、理解した模様。仕組みさえわかってしまえばこちらの物だ、即座に鍵呪を作り出し、シルバの呪詛にぶつけてやる。今度こそ正しく魔素が吸収された手応え、ほっと一息つく。

 同じ鍵呪をシルバが即座にこちらに用いた。先ほどまで体を支配していた倦怠感が、微熱が、異様な衝動がたちどころに治まっていく。

 ほう、と長いため息をついた。

 それにしても性質の悪い。こんなもの、人間であればじわじわとため込む内に、知らず知らず理性を完全に溶かされてしまうであろう。続けざまに、眠っている一家に、解呪を施していく。


「いや、助かった。これは、実は相当に危なかったんじゃあないだろうか」

「そうだろうな」


 実際、危なかった。何しろ貞操の危機だ。こんなつまらないことで盛り上がる、なんて。うっかりその後のことを考えたら、それだけで死にたくなる。


「しかし、どうしてこんな物に」

「おそらくはあの道中の魔物であろう、食われるならそこまでで、生き延びるなら辿り着くまでに確実に弱らせることができる」

「なんてことだ、しかしお前、どうしてこれに」

「聞くな」


 男の言葉をさえぎって言う。

 ああ、と何かに気がついた男にさらに「言うな」と、釘を刺した。

 うかつにそんなことを口に出されてみろ、明日の朝から気まずくて、顔も見られなくなってしまう。

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