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女は健脚だった。
外観との違和感こそ大きいが、それを除けば旅路に問題はない。廃都への道程は、往復共に水の確保の容易い、大河の傍らを選んでいた。
干し肉と雑穀の粥を朝晩に、時折現れる鹿や兎を射倒して、肉にかえた。幸い季節柄、青物には困らない。夜営のしばらく前より道すがらむしり、一摘まみの塩と共に器に散らした。
女は喜んで粥を食べた。なんでも、粥を食べること自体が、記憶にないほどの昔らしい。
竜の狩場と呼ばれた草原を抜け、ふたつの森を越えた。ふと、開けた視界に畑が見えてくる。人里に出た証しだ。春撒き小麦の、青い香りがする。
「シルバ、あれはなんの畑だ?」
「小麦だ、夏過ぎに実る」
弾む声にそっと答えた。そんなに早く穫れるのか、これだけあるとどれだけあるのか、矢継ぎ早に繰り出される他愛ない疑問に、答えられる所を答えて歩いた。
若い女の声はよく響く、聞き慣れない声であればなおさらだ。こちらの声に気がついたのであろう、農夫が一人、のっそりと、うろんげに身を起こした。
しばらく前に見た顔だった、片手を挙げて挨拶をすると、きょとんとしたあとに腰を抜かした。麦を掻き分けて歩み寄る、手を貸して立たせると、農夫はよく日に焼けて、土色に汚れた顔をくしゃくしゃにして笑った。そして泣いた。
「よくぞ、よくぞお戻り下さいました」
農夫はひざまづくと、俺の爪先に接吻をした。それからいとまを請い、村へと駆け出した。
「シルベスタ様がお戻りになられた! 王国一の英雄がお戻りになられた! 竜を倒されたに違いないぞ!」
「あ、いや……ああ、うむ」
止めようとして、思い直した。腰に手を当てて、空をあおぐ。考えてみれば、その方が都合もつく。竜は不在、空を過る者は隣に居るのだ。
実際の話、他に思い付かなかった、と言うのもある。
それでいいか、押しきってしまおう。
「よし、じゃあこうしよう。ティタ」
「なにかな」
女はくるくると表情を変えながら言った、今の格好は厚めの革で補強された旅装束、なんでも意思で自在に代えられるらしい。便利なことだと一人ごち、気を取り直して作戦を伝えた。
「お前は今から、幼い頃に竜に拐かされた異国の姫だ」
「急だな、何故だ?」
「お前の知識が常識の範疇に無いからだ、そう言い切ってしまえば都合が良い」
「なるほど、心得た」
飲み込みは早い、そも考えていないのかも知れない。この数日間で解ったことは、彼女の思考がどうしても肉体よりであった、ということだ。
確かに女と自分であれば、大概の事は体の条件だけで乗り越えられる。だが、それではいずれ、乗り越えられない壁が出てくるだろう。それから焦っても遅いのだ。それがどのような物であれ、力には溺れないに限る。
村長に事の経緯を伝えたところ、祝宴が催された。
質問責めにも些か疲れた所だ。
たまさか村にいた吟遊詩人に、後は任せることにしよう。俺の言葉が足らないところは、彼等が伝える間に麗しく飾り立ててくれるだろう。
さしあたっての問題は、この、肉を前にどんよりと顔を曇らせた彼女だが。
「どうしたと言うのだ」
「……いやぁ……ない……これは……」
何が、そこまで彼女を落ち込ませたのか。
皆目見当もつかぬままに、肉を切り分ける。すっとナイフが通る。なんと柔らかい肉だ。野卑そのものの見た目からは想像もつかぬ。絞めたこぶたの血を抜き、はらわたと骨を全て取り除き、酒と塩と香草のつけ汁に入れ、棒でひたすらに叩く。肉を丁寧に丁寧にほぐし、その隅々まで風味を行き渡らせ、臭みを殺して旨さを引き出す。腹のなかに詰めるのは、干し麦と干し葡萄、干し林檎、それと香草だ。表面には水飴だ。貴重品であるし、普段は薬として用いるそれを、表面に。じっくりと石室で蒸し焼きにすれば、肉から染みだしたスープを麦と乾果が吸って、甘味と薫りを内側から強化する。
ああ、これは楽しみだ。何しろ祝い事でしか供されない品、以前に食したのは、もういつのことだったか。
「村の者が嘆く、食え」
「……ああ、そうか」
近くでこの光景を書き留める、詩人の手元を覗いた。
助け出された美姫は、粗野な獣の丸焼きに、そのたおやかな手を伸ばせずに、と、あった。
なんと言う好意的な解釈。採用しよう、それでいこう。
と。なれば必要なことは、芝居っ気か。
一度大きく腕を開き、優しく彼女の頬に手を添えた。こういう時、この大きな体は、実に衆目を集める力があっていい。
すわ何事か、と、ティタの目が丸く開かれる。我ながら無器用に笑いつつ言った。
「ティタナよ、遥か彼方の国より来たりし美姫よ、何を嘆く。確かに汝が幼き頃に食したものとはかけ離れていようが、これらはこの地に住まう者よりの心尽くし。きっと汝が心を癒すことであろう」
びくり、と、女の肩が震えた。器用な事に、音には出さず、盛大に吹き出したらしい。先程までの憂いはどこへやら、赤くなった顔色は、笑いをこらえてか。小刻みに震える肩が、実に噴飯ものであった。
俺は、貴様の無愛想の尻拭いをしているのだぞ、と、声には出さず視線に載せる。
「おお、シルベスタ。我が偉大なる勇者よ」
びくり、と、俺の肩も震えた。
なんだそれは。何処からでた冗談だ。
前言を撤回しよう。これは、この破壊力は想像を絶した。それ見たことかとティタナが笑う。沸き上がる笑いを堪えすぎて、その表情はもはや泣き笑いの様相を呈していた。
役者を改めて尊敬する。顔色はそれこそ真っ赤だろう、薄暗い、蝋燭の下であることに感謝せずにいられない。村人の視界の裏側で、互いにほほをつねりながら言葉を重ねる。
「さあ、この肉を食するが良い、これはこの大地に生きる民よりの贈り物だ」
「ええ頂きましょう、英雄たる貴方への供物、我が身にもその恩恵を」
つまみ上げた肉を、形のよい唇がくわえこむ。その直前に、なんだただの焼肉か、とぼやき声がしたのは気のせいであろう。
俺も肉を口に。
ああ、やはり美味い。これでもかと言うくらいに美味い。ぱりぱりした甘い表皮、とろとろの香りの良い皮と脂、肉汁たっぷりで塩気が利き、仄かに果物の気配がする肉。そのくせ後に残らない。香草が口の中をさっぱりと洗っていく。
「感謝するぞ、皆のもの、勝利に杯を!」
「勝利に杯を!」
乾杯の音頭は短く、一息にジョッキをあおった。木のジョッキに注がれた酒は、エールに蒸留酒を足したものだ。酸味が強い、やや強めの酒が、最後に残る脂を胃に送り届けてくれる。
そこから先は無礼講だ。食器などと言う洒落たものは皿程度、手掴みで、夢中になって肉を食う。
そう言えば、と、ふと見れば、ティタナが泣きながら肉を頬張っていた。
ふと気がついた。彼女は人の姿を取るにあたり、感覚も人並みのものとなっているのではなかろうか。それで、この目前の塊が放つ芳醇な香りに気が付けなかったのでは。
「鼻が利かないのか?」
「む? ああ、うむ、昔から嗅覚だけは加減が上手くできなくてな、今は恐らく人以下だ」
「やはりか」
「ああ、だが、だからこそ、この衝撃は言い表せない」
これこそが望んだものであったと。
お肉はもっとこんな具合に美味しいものなのだと、涙を流しながら彼女が言う。その姿は可憐であり、美しくあり、食欲の権化であった。言い表せない感情に、言葉を失った。




