1.
焼けた鉄の匂い、空気を切り裂く音は、形容しがたく激しい。
弦音と同時、弦を引く音と放す音も。目視は一瞬、瞬き一つも許されない。僅かに首を傾げ、僅かに体を開く。仰け反らない、しゃがまない、重心移動と身動ぎだけで、それら襲い来る殺意をかわす。火線が幾筋も耳元を過る、狙いは実に正確だ。
腕が良い。
舌を巻いた、これなら、今までに城まで来た、自称英雄よりも余程。
力ある言葉、矢に宿るのは炎、必殺の意志を載せて、額に跳ね返る殺気。薄く笑った。当たったところでどうということはない。だが、うっかり目に当たれば、それは死に繋がる。かわすに越したことはなかった。
一秒に二射、人間の限界はとうに越えている、素晴らしい速度だ。
道具の特性か、背におった矢筒に手を伸ばさず、男は弦を引き続ける。
引き絞ればつがえられる火矢、魔具の類いか、瞬間に構成される矢、矢筒は魔素を収束させる仕組みか、察するに弓と矢筒で一揃い。
しゃり。と、澄んだ音がした。髪を矢がかすったらしい。片眉をひくり、と、動かす。完全に回避したつもりだったが。また音がする。
これは潮時か。
見れば男の額、滲んだ汗が流れとなっている。狙いが、殺気の向きとそれだした。弓を持つ左手がぶれている。弦を引く速度も、徐々にではあるが落ちている。
残念ではあるが、ここまでの様だ。
飛来したそれを掴み取る、男の顔が驚愕に歪んだ。投げ返して、二射を迎 撃する。男の顔が恐怖に歪んだ。速度が上がる、最後の足掻きか、狙いの正確さもまた。掴むような無駄は出来ない。そこまでの余分は殺される。秒間三射、四射、五射に到って男の指先が赤く飛沫を上げる。
ここまでか、否、死の匂いを嗅ぎとって、指の骨を削ってなお速度は弛まない。
惜しい。心からそう思った。
踏み込みは一足、眼前に翳した腕からがらがらと音がなる。腕越しに見る男は必殺の形相だ、右手には矢でなく短剣、肉厚で、殺しやすそうだ。逆手に持ったそれを、一文字に薙ごうとしている。一歩で踏み込むつもりだったが、もう一歩を足した。加速はさらに、振り抜かれる前に柄頭に手を添える。それだけで男の姿勢が崩れる、否、男は後ろに跳ぼうとしている。諦めの悪さに、口角が上がる。これは惜しい。失えない。指先を一瞬で鉤爪に、さらに一歩、男の横まで踏み込み、そっと男の頭を掴み地に押し倒した。
「降伏すれば命までは取らない、貴様、名は?」
「……くそ、化物め」
「二度は聞かんぞ」
「……ランベルテ……ランベルテ・デ・ラ・パウロ」
荒い息を吐きながら、男が悪態と共に返答する。良い目だ、未だに諦めていない。右腕は痙攣し、指先から血を流している。これは後で治してやろう。
「そうかそうか、ドン・ランベルテ。ゆっくりと弓を置け、おかしな真似は考えないことだ」
「ああ……」
決着と見たか、ゆっくりとシルバが歩み寄った、手には縄がある。心得も確かなのであろう、拘束の手並みは慣れたものだ。数秒で足以外の自由を奪うと、がくがくと疲労に震える男を立たせた。
「シルバ、その男はどうするのだ」
「盗賊だ、官権に引き渡す」
簡潔に男は言った。目には何も映っていない。感情を圧し殺しているようにも見える。ランベルテの顔が渋く歪んだ。言葉はない、諦めてもいないようだが、今は逃げられないことを悟っている。覚悟は決まっているのであろう。
「どうなるのだ」
「縛り首だろうな」
え、と、おかしな声が出た。男の覚悟は決まっているのであろうが、私の覚悟は決まっていない。
「それは困る」
「……なに?」
眉根を寄せて、シルバがこちらに視線をかえた。
眉尻を下げて答えた、それは困る。私は今、この男に大人しくすれば命までは取らない旨を約束したのだ。
それを違える事は後味がいかにも悪い。我が身は人を害したくない、間接的にでもだ。それだけ告げると、男の言葉を待つ。
しばらく宙を眺めた後に、ふむ、と、小さく唸ると、シルバは言った。
「ならば、この男が奪ってきた金を、我々が弁償せねばなるまい」
賞金首だ、幾度も隊商を襲っている。そうでなければ誰も納得せんぞ、と、シルバが続けた。
今度はこちらが唸る番だった。貨幣単位は知らないが、それなりに額であることは容易に知れる。城に帰ればすぐにでも支払えるが、そうもいくまい。
そもそもの、ことの起こりは二十日程遡る。
1.
旅に出て、昼夜を二十程数えた頃、私達はやっと人里らしい人里に辿り着いた。
最初に出会った人間は、男の姿を見て、まず呆然としたのちにすっとんきょうな声を上げた。軽く手をあげて進むと、他の村人からも、驚愕の声が上がった。
どうやら、五体満足で、私を連れていたかららしい。
話を聞くに、この村が私の城に最も近い村で、私の脅威にこれまでずっと曝されていたのだとか。これまでに私の城を目指した者は、帰らないか、或いは、武器を失ってほうほうのていで戻ってきたとのこと。
……ああ確かに食糧と武器はかっぱいだな、とも思いつつ、釈然としないものを感じながら、男の言うことに話を合わせていく。
どうやら私は、竜が幼い頃に拐かして、常識を知らずに育った娘、という事になったらしい。
成る程、それならば私の身の上に、同情と憐憫こそ集まれど、些少の疑問は集まるまい。
問題といえば、男が竜殺しの英雄と持て囃されることぐらいであった。
当然の如く騒ぎになった、蜂の巣をつついたような、とはこの事か。即座に近隣の村に触れが出され、村は宴会の様相を呈し始めた。
それもそうだろう、あの都が廃されて千年、私が住み着いて九百年、ずっと人が近寄ることの出来ない魔境とされていたのだ。
ざあ、と、雨が降りだした。家々の軒から滴が垂れる。風が、耕された土に、水の含まれた匂いを伝えた。この時期にしては珍しい、まとまった雨だ。村人の誰かが、竜の涙雨だ、と言った。シルバが口許を手で覆って、ふい、と、そっぽを向く。表情は物憂げで、激闘を偲んでいるように見える。
英雄は語らず、詐師は大いに騙る。
「竜はいかがでしたか」
「ああ、とてもとても強かった」
村人に水をねだると、言葉少なく彼は言った。聞かれたことだけに淡々と答えるのが、いっそうの凄みをもたらしているようだった。
内心の葛藤は、彼を除くと私しか知るまいが。
「どのような竜でしたか」
「ああ」
ちょっと考えるそぶりをしてから男は言った。
「とかく、大きな竜だった。全長、そうだな、この家三つほど、翼長はそれよりも僅かに広い」
少し考えて、驚いた。
あっているのだ。何処から推測したのか、それは、私が竜である時の大きさそのものだった。
「強靭な四肢に、それぞれ大きな爪が五つずつ。丸太のような尾は鎧のような鱗で覆われていた」
「さぞ恐ろしい姿だったんでしょうなあ」
「ああ、いや……鋼のようでもあり、黄金のようでもあり、紅玉のようでもあった。とても美しい竜だったよ」
雨を見つめていた男が、不意に視線をこちらに投げて言った。
私は、柄にもなく照れていた。
宴会の席に、料理の数々が運ばれてくる。やった、これが、これこそが、私が夢にまで見て、幾星霜偲んできたものだ。
弾む心に体も跳ねる。が、目の前に置かれたそれを見て、私の心は一息に消沈した。
「……おい、これはなんだ?」
「むむ……なんだ、と、問われてもな」
困ったように男は言った。
これがこの辺りでもっとも上等な食い物だ、と。
目の前に並んだのは、幾星霜見慣れた、ただの焼いた、ところどころの焦げた肉の塊であった。




