漠砂を越えて -3-
パーシバルが砂漠で死にかけている光景を思い浮かべると、私は落ち着かない気持ちになった。物語の文体は淡々としたものだったが、私にはなぜか彼の苦痛がありありと想像できた。
喉が渇いてきたので、私は台所で水を二杯飲んだ。なんだか自分の身体にも砂がついているような気もして、熱いシャワーを浴びた。
私が浴室から出ると、来客があった。伯父の進だった。
「よう、優一君。南極に行くんだってな」
伯父は地元の食品会社に勤めていて、家もこの近くにある。既に結婚して子供もいるが、父が死んだあと私にも何かと世話を焼いてくれた。特に大学進学の際は、奨学金の利用を考える私に対して、若いのに借金をすることはない、と経済的な援助をしてくれた。
また伯父の性格は父よりも大人しかったので、私もあまり気兼ねすることなく付き合うことができた。彼は私にとって、父がいなくなった穴を埋めてくれるようなありがたい存在だった。
私は部屋着に着替え、再びソファに腰かけた。母はいつの間にか買い物に出かけたようだ。
「うん。明後日には日本を出ることになってます。南極に着くまではもう少しかかるけど」
「まあ、がんばってきてよ。優一君は羽柴一族のエースだから」
「そんなんじゃないですよ。父さんに比べるとどうしても……」
私の隣に腰かけた伯父は、柔和そうに微笑んで私をフォローした。
「卑屈になるなって。兄貴は突然変異だからさ。それに、頭の良さはちゃんと遺伝しただろ?」
徹の兄貴は突然変異、という言葉は伯父がたびたび口にしていたことだった。こう言っては失礼だが、伯父もその子供たちも、学歴や学力という意味では、父や私に及ばない。私は子供のころから、優一の頭は父親譲りと言われて育った。
そしてどうやら性格という点でも、父は一族の平均から離れていたらしい。どちらかというと引っ込み思案な人間が多い親戚たちに比べ、父は極めて社交的でエネルギッシュな人間だったからだ。その性質は、残念ながら私に遺伝しなかった。
「そうだといいんだけどなあ」
私はテーブルに置いたままだった手帳のことを、伯父にも聞いてみることにした。
「見たことないな」
手帳を見た伯父は、それを裏返したり、ページをめくったりしながら言った。パーシバル・トゥーンという名前や、手帳を書いた人物についてもまったく心当たりはないようだった。私が内容をかいつまんで説明し、パーシバル・トゥーンのモデルが父ではないか、という考えを述べると、伯父はそれに同意した。
「兄貴は社交性の化け物みたいな人間だったからな」
伯父はそう笑ってから、手帳を私に返す。
「不思議なこともあるもんだ」
結局、手帳についてはそれ以上分からなかった。
伯父ははじめから長居するつもりもなかったようだが、急遽会社から連絡が入ったため、母によろしくと言い置いてそそくさと帰っていった。
家に一人残された私は自室に戻り、また手帳の続きを読み始めた。
◆ ◆ ◆
パーシバルが目を覚ましたとき、そこはベッドの上だった。彼が持っている最後の記憶は、赤茶けた砂漠を彷徨ってまさに死にかけていた、というものだった。しかしパーシバルは死んでない。相変わらず筋肉も内臓もひどく痛んだが、それでも何らかの治療を受けたのか、いくぶんかましな状態になっていた。
パーシバルの額には濡れた布が置かれていた。水が蒸発した際に熱を奪うので、布はひんやりと冷たかった。
周囲の壁は日干し煉瓦で、そこが砂漠の近くであることが分かった。自分は砂漠から出たのだろうか。それとも隊商宿に連れ戻されたのだろうか。
パーシバルがベッドに腰かけていると、正面の扉が開いた。吹き込んでくる砂と共に誰かが入ってくる。頭の周りに白い布を巻いた、長身の男だった。
「目を覚ましたな」
男は貯蔵していた水と乳と砂糖を混ぜ、大きな椀に入れたものをパーシバルに飲ませた。それが喉を通ると、水分や栄養が身体に染み込み、パーシバルは自分が新しく再生していくような気持ちになった。
パーシバルはそれをもう二杯飲み、再びベッドに横たわった。
「ルルカは、私と一緒にいた少年は?」
「無事だよ。別の場所で寝ている。熱病にかかっていたが、重篤じゃない」
パーシバルは安堵の息をつき、目を閉じた。
「だが、死ぬところではあった。隊商の到着が遅れていたから様子を見に行った。そしたら丘の頂上に君たちが倒れていたんだ。白いドゥパタと一緒にね」
「サリアも無事なのか」
「白いドゥパタなら無事だ。あれは賢くて優しい。君を見捨てることもできただろうに」
パーシバルがもう一度確認すると、ここは目的地で間違いないようだった。命を失いかけたが、砂漠を越えることに成功したのだ。
「残念ながら、隊商は鉄砲水で全滅してしまった。私とルルカを残して」
パーシバルがそう言うと、男は残念そうに眉をひそめた。
「とにかく、しばらくは休んでいけ。少なくとも身体が良くなるまでは」
男の好意を、パーシバルはありがたく受け取ることにした。
◇
パーシバルはその町に一週間滞在した。その間、隊商の生き残りが到着することはなかった。ルルカの熱病は快癒し、なんの後遺症も残らなかった。
「あんたは命の恩人だ。ぜひ、俺の故郷まで来てくれよ」
ルルカの故郷にある町からはたまに船が出ていて、南の大陸へ行けるのだという。船が到着する港町には、以前ルルカが言っていた魔術師の住処がある。それより南に人は住んでいない。まさに最果ての地だった。
「そうしよう」
パーシバルとルルカ、そしてサリアは十分に体調が回復するのを待って旅の準備をし、町から離れた。この地域は砂漠ほど乾燥していなかったし、砂に悩まされることも無くなったが、代わりに寒さが厳しくなってきた。通行がない道の脇には氷や雪が固まり、日中でも溶けずに残っていた。
いくつかの集落を通過し、パーシバルはまた七日ほど旅をした。砂漠で見た夢のことをルルカに話すと、彼はそれを吉兆だと言った。
道中さしたる困難もなく、パーシバルたちは陸地の南端に到着した。そこは十数軒の住居だけがある小さな村だった。村人がルルカを見つけると、すぐにその兄弟たちが駆け寄ってきた。両親も彼を歓待し、パーシバルとサリアを見ると大層驚いた。
その日は家族で暖炉を囲み、貧しいながらもささやかな宴となった。年少の弟妹たちは、パーシバルがこれまでしてきた旅の話を大喜びで聞いた。
「南には、たしかに魔術師と呼ばれる人間が住んでいる」
ルルカの父親は強い酒を飲みながら言った。
「船で二日行けば着くが、今の海は荒れる。気をつけてな」
パーシバルは歓待の礼をしたかったが、持ち合わせが少なかったので、女王のメダルを手放すことにした。人に渡すのはなんとなく気の引けるものだったが、どのみちずっと持っていても仕方のないものだ。
サリアともここで分かれることにした。彼女は丈夫だが、これから行く氷の大地には適応できないだろう。サリアも別れを理解したのか、二度三度と鼻先をパーシバルに擦りつけた。
サリアとメダルは売ってもいいし、いつか女王に返す機会があれば、もっと多くの褒美がもらえるかもしれない、とパーシバルは言った。それはここまで一緒に旅をしてきてくれたルルカへの、ささやかな礼だった。
「サリアもメダルも、きっと女王様に返すよ。でも、代わりに頼みがあるんだ」
ルルカは船旅の終わりまでは付き添わせてくれ、とパーシバルに頼んだ。危険がないとは言えなかったし、ルルカは少し前まで病に倒れていたのだからとパーシバルは渋ったが、頑強に主張されたため、最後には折れざるをえなかった。
この村と海峡の向こうにある港町の間では、細々と交易がおこなわれていた。こちらからは燃料となる鉱物油や北から運ばれてきた塩を売り、向こうで海獣の肉や皮、魚の塩漬けなどを買ってくるのだ。
ちょうど明日に船が出るというので、パーシバルはそれに乗せてもらえるよう交渉した。安全は保障できないが、乗っていっても構わないということで、パーシバルは最果ての地に辿り着く手段を得たのだった。




