第百八話「ヴァニタスとの邂逅」
レイたちは絶望の荒野に突如現れた洞窟を探索していた。
洞窟の奥に向かい、直径百mほどのドーム状の部屋を見つけた。中央部には高さ五メルトほどの円筒形の祭壇のようなものがあり、中に入ると、それまで歩いてきた洞窟の入り口が閉じてしまう。
その部屋では魔法が使えず、魔道具もレイの装備以外無効化された。
更に祭壇の上に漆黒の妖魔族、黒魔族の男が現れ、彼らに声を掛けてきた。その声は感情を感じさせない冷たいもので、レイは背筋に冷たいものが流れるのを感じていた。
「闇の神の御子を我が下に連れてきてくれたことに礼を言おう」
ルナはその視線を受け、体中を虫が這い回るような嫌悪感を覚える。
「ルナを渡すわけがないだろう!」とライアンが吼えるが、漆黒の男は冷笑を浮かべるだけで応えることすらなかった。
「お前がヴァニタスなのか」とレイが槍を構えて問う。
「ほう。光の神の御子はこの場でも魔力を操れるのか。しかし、放出はできぬようだな」
「質問に答えろ。お前がヴァニタスなのか!」
レイの再度の問いに漆黒の男は「その通りだ」と答える。
「あなたは黒魔族ですね……もしかしたら、サウル・イングヴァル殿ではありませんか?」
イオネがそう尋ねるが、彼女以外何のことを言っているのか理解できない。
「サウル……確かにこの身体はそのような名であったな。今となっては魂の欠片すら残っておらぬがな」
黒魔族は翼を持つ魔族、すなわち妖魔族の一氏族だ。
月魔族並みの魔法の才能に加え、中鬼族に匹敵する身体能力を備え、単体では最強の種族と言われている。以前は魔族の国ソキウスの指導的な立場にいた。
しかし、千年前の西側への大侵攻で氏族の大半を失い、今では細々と一族の血脈を保っているだけの存在に過ぎない。
サウル・イングヴァルは黒魔族の族長であったが、数年前から姿を見せなくなり、イーリス・ノルティアら闇の神殿の神官たちは彼がソキウスを乗っ取るために行動を起こしているのではないかと疑っていた。
イオネは手短にそのことを説明すると、再びヴァニタスに顔を向ける。
「サウル殿があなたを召喚したのですか? イーリス様は数年前、非常に大きな召喚が行われたことを憂慮されておられましたが」
そこでヴァニタスは冷笑を浮かべる。
「笑止。この程度の存在に我を召喚することなど叶わぬ。我が手駒を集めてはくれたが、それだけだ」
「サウル殿はイーリス様、ヴァルマ様がその才能を恐れた方です。お気を付けください」
イオネが警告すると、ルナが頷く。
「確かにイーリス殿やヴァルマは黒魔族が暗躍しているのではと言っていたわね。でも、それとは関係なく、この存在が危険だということは分かるわ……」
ヴァニタスがルナの言葉を遮る。
「さて、ノクティスの御子によいものを見せてやろう」
そう言って右手を大きく振る。
すると、彼の右側に幅五メルト、縦三メルトほどの黒い板状の物体が現れた。
「ディスプレイパネル?」とレイが声を出すが、ヴァニタスはそれに答えることなく、更に右手を振った。
そこには雪で覆われた山脈を背景にした美しい白亜の城が映し出された。
ルナは一歩前に出た。レイは慌てて彼女の手を引くが、ルナはそのことに気づいてすらいなかった。
「ラスモア村……どうして……」
「これより面白いものが見られるはずだ……」とルナにニヤリと笑いかけるが、形のいい眉を上げて振り返る。
そして、「無粋なことはするな!」と言って右手を振った。
その先には祭壇を登ろうとしているディエスの姿があった。
ディエスはヴァニタスがレイたちに意識を向けている間に秘かに祭壇に登り、後方から剣で攻撃を加えようとしたのだ。
ディエスは電撃に弾かれるように吹き飛び、祭壇の下に落ちていく。その身体からは煙のようなものが上がっており、遠目に見ても絶命していることは明らかだった。
「ディエスさん!」とレイが駆け寄ろうとするが、
「動くな。今はこれを見るのだ」とヴァニタスに言われ、レイはヴァニタスを睨みつける。
「お前たちの命などいつでも奪える。無駄なことで我を煩わせるな」
レイにはその言葉が事実を淡々と述べているだけと感じ、その力の差に絶望を感じていた。
(どうしたらいいんだ……ここまで圧倒的な力の差だと、戦いようがない……)
彼の心の声を知ってか知らずか、ヴァニタスはレイに一瞥を与えるだけで、そのままルナに視線を向ける。
「そなたが最も気になる者の姿を見せてやろう……」
そう言うと、漆黒の竜を指差す若者の姿が映し出される。竜は全長五十メルトを超える巨大なものだが、漆黒の鎧を身に着けた若者以外、ルナの目には入っていなかった。
「ザックさん……」
ヴァニタスはいつの間にか現れた椅子に座ると、脚を組んで余裕の表情を浮かべる。
「まずは彼の者の手並みを見せてもらおうか」
その直後、画面が白く光り、数十個にも及ぶ流星が巨大な竜に降り注ぐ。竜はその攻撃に耐え、逆に魔法を放ったエルフの女性に対し、炎の塊を吐く。
「リディアさん!」というルナの声が響き、わなわなと震え始める。
彼女の目にはエルフの女性が炎に飲み込まれたように見えたためだ。
次の瞬間、竜の胴体に真っ白な光束が突き刺さった。
「ほう、やるではないか」とヴァニタスは感心したように声を上げる。
竜がもがきながら落ちていく。
「凄い……」とレイもその映像に見入っていた。
アシュレイとステラはレイから離れることなく剣に手を掛け、ウノたちも油断なく周囲を警戒していた。
ライアンはルナの話に出てくるザカライアスのことが気になるのか、映像に釘付けになっている。
「ロックハート様に注意してください。ヴァニタスがこのまま何もしてこないわけはありませんから」
イオネの警告にライアンが我に返る。
「済まねぇ」と頭を下げ、映像ではなく、ルナに意識を向けた。
その間に竜が倒された。ルナはあからさまに安堵の表情を浮かべるが、
「さて、第二幕の開演だ。楽しんでもらえるとよいのだが」
ヴァニタスはそれまでの冷笑から嘲りに近い表情に変えていた。
映像の中では竜の死体から魔法陣が浮かび上がり、漆黒のスケルトンが召喚される。
「竜牙兵だ。さて、どこまで食い下がってくれるかな……」
「竜牙兵だと……」とアシュレイが絶句し、ウノたちも周囲の警戒を忘れて映像に視線を向ける。
「竜牙兵って竜の牙で召喚する魔物だよね。強そうだけど、それほどなのかい」
レイは知識としては知っていたものの、実感としてはなく、アシュレイに確認する。
「マーカット傭兵団でも副隊長以上でなければ対応できん。私では一対一で勝つことは難しいだろう。ウノ殿たちなら互角に渡り合えるだろうが、伝説を聞く限り、倒すことは極めて困難だ」
レイは「それほどなのか」というが、透明な燕型の魔法がアップになった直後に映像が途切れる。
「気づいたか。まあよい」とヴァニタスはいい、ルナを見つめる。
映像が途切れる寸前、ルナはそれまでの不安げな表情を消し、大きく頷く。
「あの村の戦力では五十体の竜牙兵は倒せぬ。仮に倒せたとしてもお前の知り合いの多くが命を落とすだろう。お前が我に従うと一言いえば、戦いを止めることができる」
ルナは毅然とした表情で言い返す。
「戦いを止める必要はないわ。あの人なら必ず勝つし、大切な人たちを守るはずだから」
「そのようなことを言ってよいのか? そなたの強がりで多くの者が命を落とすのだ。その責はすべてそなたに帰するのだぞ」
勝ち誇ったような顔でそう言うが、ルナは意に介さない。
「あの人は私にこう伝えてくれた。“こちらのことは気にせず、自分の敵に集中しなさい”と」
「戯れを申すな。あの者は何も言っておらぬではないか。そもそもお前が見ているとは知らぬのだ。そのような見え透いた嘘で、我を騙すつもりか?」
ヴァニタスはそう言って嘲笑する。
ルナはその嘲笑に対し、余裕の笑みを浮かべていた。
「あなたでも分からないことがあるのね。神だからすべてを見通せると思っていたけど、そうでもないことがよく分かったわ」
「ほう。そこまで言うなら、お前が嘘を言っていない証拠を示してもらおうか」
ヴァニタスは嘲笑しながらも僅かに疑念を感じたのか、ルナを指差して糾弾した。
ルナはそれでも余裕を見せ、憐れむかのような表情を浮かべる。
「あなたに教えてあげる必要はないのだけど、特別に教えてあげるわ」
そう言って左手を小さく動かした。
「何かの符丁か? それですべてが伝えられるとは思えぬが」
「一つ目のハンドサインは“支援不要”という意味よ。そして、二つ目のサインは“手近な敵に当たれ”。私の手近な敵、つまりあなたに集中しなさいと伝えてきたのよ。分かったかしら?」
最後には嘲りの表情を浮かべ、それにヴァニタスの顔が僅かに歪む。しかし、すぐに余裕の表情を浮かべる。
「それがどうしたというのだ? 仮にあの者がそう伝えてきたとして、そなたが我に下らねば、あの村は全滅するのだ。その結果に変わりはなかろう」
「もしそうだとしても、私はあの人の信頼を裏切りたくない。あなたを倒した後に村に戻ってから悔やむかもしれないけど、今はあの人の指示に従うわ」
決然とした表情で言い切る。
「俺を倒すだと? クハハ! 笑止! そなたらだけで我を倒せると思っているのか! ハハハ!」
ヴァニタスはそう言って大きな笑い声を上げる。
その様子を黙って見ていたレイはあることに気づいた。
(ヴァニタスに感情がある? それに自分のことを“俺”と言った。奴が変化している?……今でも圧倒的な力は感じているけど、そこに付け入る何かがあれば……)
レイはそう考えながら、この後の展開がどうなるのかと気になっていた。
(ルナの動揺を誘う策は失敗した。そうなると、次は僕に対してか、それとも直接何かしてくるか……一番考えられるのはここにいる僕以外の誰かを殺していくことだ。ディエスさんが殺されたんだから、奴が直接手を出せないという制約はなくなったと見ていい。だとすると、最初に狙われるのはライアン辺りか……)
レイは当初、神々と同様にヴァニタスが世界に干渉することが禁じられていると考えていた。そのため、自分たちに直接手を出してくることはないと思っていたが、ディエスに対して躊躇なく攻撃を加えたことから、その制約が外れたと気づいた。
(さっきの魔法で攻撃されたら庇いようがない。それにあの場所にいる限り、僕たちから攻撃することもできない。何とかここに下りてくるように誘導しないと……でも、奴も自分の肉体が弱点だと気づいている。攻撃される場所にのこのこ下りてくるとは思えない。どうしたらいいんだ……)
その間にもルナとヴァニタスのやり取りが続いていた。
「あなたが私の身体を狙っていることは分かっているわ。それにあなたのその身体が完全ではないことも。いざとなったら、私自らが命を絶てばいいだけの話よ。つまり、あなたに勝ち目はないということ」
「ルナ!」とライアンが叫ぶが、それを無視してヴァニタスが嘲る。
「ふっ、命を絶つだと? お前にその勇気があるのか? 俺はお前の心の中にいたのだ。何度も挫けて周りから助けられていただけのお前に何ができるというのか」
嘲笑を繰り返すが、ルナも余裕の笑みを崩さない。
「あなたの言う通り、私は何もできない子供だったわ。いいえ、今も大して変わっていないわね……」
その言葉にヴァニタスが「分かっておるではないか」と笑う。
ルナはヴァニタスを無視して話を続けていく。
「……でも、私は気づいたわ。たくさんの人に助けられてきたと。だから、今度は私がこの世界の人に、いいえ、私を助けてくれた人たちのためにできることをする。それが自らの命を絶つことなら、ためらいなくやるだけ。それにあなたも気づいているはずよ。今の私ならできることを。それを知っているから焦っているのでしょう?」
ルナの声に挑発的な響きはなかったが、ヴァニタスは「ならば試してやろう!」と怒りの表情を見せる。
そこで自分が感情的になっていたことに気づいたのか、僅かに顔をしかめるが、すぐに表情を冷笑に戻した。
「ここは我が版図。命を絶つ時間など与えぬし、命を絶ったところで復活させることも容易い……」
そこで笑みを浮かべる。その笑みにルナは背筋が凍る気がした。
「……だが、それでは面白くない。お前に絶望を与えた上でその身体を奪うことにしよう」
ヴァニタスはそう言うと、祭壇の上からひらりと舞い下り、ルナの前に立った。そして、彼女を守るように立つライアンにいつの間にか抜いていた漆黒の剣を突き出す。
ライアンは避ける間もなく、腹部を貫かれ、激痛に耐えかねて「あああ!」と悲鳴を上げた。




