第九十五話「ソキウス再入国」
十一月八日。
一昨日の鍛冶師ギルドの宴会において、レイとルナ、セオフィラスは王妃カトリーナと会談を行い、カウム王国の東の要衝トーア砦の通過許可を得ることに成功した。その翌日、正式に王国の公文書を受け取った。
更に王妃は混乱を避けるため、黒鋼騎士団の指揮官を同行させる提案を行った。
「トーア砦の司令は以前のような頭の固い愚か者ではありませんが、それでもこの命令は唐突に感じるでしょう。ですので、黒鋼騎士団の上位者が同行した方が混乱しなくて済むはずです。情報のやり取りに時間をかけると本格的な冬になってしまいますから」
アルスからトーア砦までは約三百五十km。道は整備されているため、通常の行程でも十二、三日で到着できるが、標高が高いこともあり十二月に入ると雪で閉ざされる可能性があった。
「そうしていただけると助かります」とルナが代表して礼を言った。
そして今日、一行はトーア砦に向けて出発した。
晩秋のアルス街道は抜けるような晴天が続き、四日後の十一月十二日、トーア街道との分岐点であるバルベジーに到着する。
そこでレイはルナにある提案を行った。
「故郷は百五十キメルくらいと聞いているんだけど、寄らなくてもいいのかい」
ルナが義理の兄であるザックに恋していることを知っており、会ってきてはどうかと提案したのだ。
「カティさんも言っていたけど、冬になる前にソキウスに入ってしまいたいの。今は個人的なことで時間を浪費するわけにはいかないわ」
「でもこの先、あの虚無神と戦わなくてはいけないんだ。言いたくはないけど、命を落とすかもしれない。僕はアッシュと一緒だからいいけど、一度心の整理をした方がいいんじゃないかなと思うんだ……」
その言葉にルナは驚く。レイが恋愛に関する話題をすると思わなかったためだ。
「あら、聖君の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったわ……うふふ……やっぱり彼女ができた余裕かしら?」
からかいながらもレイの気持ちに感謝していた。
「そんなんじゃないんだけど……」
「私に気を使ってくれることはうれしいわ。けど、それでも行かないわ。私がすべきことをきちんと成し遂げてから、胸を張って会いに行くと決めたから」
ルナはそれまでの笑みを消し、強い決意でそう言い切った。
レイにもその思いが伝わり、力強く頷く。
「分かった。ヴァニタスを倒してから会いに行こう。僕も色々聞きたいことがあるしね」
バルベジーからトーアまでも順調に移動し、予定より早い十一月十七日にトーア砦に到着した。
標高が上がったため、時折雪がちらついており、レイたちは白い息を吐いている。
砦の司令はベンジャミン・プラマー子爵の更迭によって、新たに任命された古参の騎士だ。実直そうな壮年の男性だが、レイから受け取った公文書の内容に、驚きを隠せないでいた。
「魔族の地に入るだと……魔族に洗脳されたらどうするのだ……」
その独り言に対し、レイは用意しておいた答えを口にする。
「私はペリクリトルで傀儡の魔法を何度も見ています。また、学術都市のラスペード教授とともに魔道具を開発しています。ですから心配はありません」
更に黒鋼騎士団の指揮官も「王妃殿下のご命令だ」と念を押す。その言葉に司令も渋々ながらも頷くしかなかった。
「確かにアークライト殿がいれば対処できるでしょう。それにこれは正式な命令です。既に王都で危険については検討済みなのでしょう。ならば私が反対するわけにはいきませんな」
そう言って許可した。
翌十八日は休養日とし、物資の補給などを行い、十一月十九日にトーア砦の東側の門をくぐった。
その門は人ひとりが通れるほどの幅しかなく、高さも二mほどと馬に乗ったまま通れないほど低く、頑丈な鉄製の扉が三重に設置されていた。
また、壁を挟んだ隣の部屋から槍を突き出せるように左右に十cmほどの穴が開いている。
これは大鬼族やオーガなど大型の敵の行動を制限するためのものだが、人馬族たちは身を屈めて通過しなくてはならず、特に大柄なソレル族の戦士長ギウス・サリナスは背中を何度もこすり、小声で悪態を吐いていた。
無事トーア砦を通過したレイたちの前に深い谷のような原野が広がっていた。
トーア砦は古代中国で見られた“関”のような作りで、険しい断崖でできた谷を塞ぐような形で城壁が造られていた。
「前に通った抜け道よりマシだけど、道とは言えないね」
「そうだな。馬で移動するには厳しいところだ」
マーカット傭兵団の副官アルベリック・オージェと団長のハミッシュ・マーカットが話している。
彼らの言う通り、過去の鬼人族の侵攻時に作られた道の痕跡しか残されていない。幸い、冬に近づいているため下草は枯れており、道の痕跡を何とか見分けられる。
「ここからレリチェ村までは五十キメルくらいです。ウノさんたちに先行してもらうので迷うことはないと思いますが、慎重に進んでください」
レイは砦の前で全員に注意を促した。
その命令を聞き、獣人部隊が一斉に散っていく。
「凄いですね。父や兄も斥候としては優秀だと思っていましたけど、やっぱりルークスの獣人部隊は別格ですね……」
ロックハート家の斥候であるユニス・ジェークスがセオに話しかけている。
「ロックハート家とは目的が違うからね。うちの斥候は魔物の痕跡を見つけるのが仕事だけど、あの人たちは人を相手にするから……」
ルークスの獣人部隊は偵察だけでなく、陽動や撹乱などの任務もこなす特殊部隊であり、狩人が兼務する通常の斥候とは性格が大きく異なる。
初日は谷を真っ直ぐ降りていくだけであったため、迷うことなく進むことができた。しかし、道には倒木や落石が多く、馬での移動に支障を来たし、結局その日は十キメルほどしか進めなかった。
翌日はウノたちが最適なルートを選んだことと、トーア付近より人が通っているためか道がはっきりしており、二十キメルほど進んでいる。
夕食後、主要なメンバーを集め、今後の協議を行った。
「明日にはレリチェに入れそうですけど、そろそろソキウスの偵察隊と出会いそうな気がします」
レイの懸念にステラが頷く。
「そうですね。以前も村から五キメルくらいの場所でも痕跡があったはずですし、出発する時の話では翼魔族を呼ぶとも言っていましたから」
「先に連絡を入れておいた方がいいかもしれません」
そして、ルナに視線を向け、
「ルナに手紙を書いてもらってウノさんたちの誰かに運んでもらうというのはどうかな」
その言葉にルナも賛同する。
「私もそれがいいと思うわ。タルヴォ殿が待っていてくれるはずだから、連絡さえ入れておけばトラブルになることもないし」
レリチェ村には大鬼族の英雄、タルヴォ・クロンヴァールが責任者として残っている。
彼の息子ネストリとレリチェ村駐留部隊の元司令エイナル・スラングスが虚無神に操られ、西に戻ろうとしていたルナに襲い掛かった。
ギリギリで間に合ったものの、タルヴォはその責任を取り、死を選ぼうとした。しかし、レイとルナに説得され、ルナが戻るまでレリチェ村を守ることになった。
アシュレイは黙って話を聞いていたが、「一つ懸念がある」と言って話に加わってきた。
「レリチェ村はヴァニタスの影響を受けている可能性がある。あの時、ネストリは完全に改心したように見えたが、ヴァニタスに操られて我々に襲い掛かってきた。タルヴォ殿ほどの人物が易々と操られるとは思わぬが、念のため、ウノ殿たちに探ってもらってはどうだろうか」
「でも、前もあれほど完璧に心を入れ替えたように見えたんだ。ウノさんたちでも判断できないと思う。守りを固めながら全員で行った方が安全な気がするけど」
ヴァニタスの精神操作は演技ではないため、訓練された間者であるウノたち獣人部隊でも判断できない。レイはそれなら精鋭揃いのこの部隊全体でレリチェに向かった方がいいと提案したのだ。
「俺もレイと同じ意見だ。俺たちレッドアームズとギウス殿ら草原の民、それにウノ殿らがいるんだ。十倍を超える大軍でもない限り何とでもできる」
「ハミッシュさんの言う通りだと思う。ただ、警戒だけは強めておいた方がいいことは確かだね」
レイの言葉にステラが頷き、
「特にレイ様とルナさんが狙われると思います。獣人部隊を護衛に付けるべきだと思います」
アシュレイやイオネもそれに賛成したため、レイとルナにはそれぞれ十名ずつの護衛が常時付くことになった。
翌朝、ルナの手紙を持ったウノの部下のディエスが、五名の部下と共にレリチェ村に向かった。
半日後、ディエスが巨大な体躯の鬼人族、大鬼族のタルヴォ・クロンヴァールと月魔族のヴァルマ・ニスカを伴って戻ってきた。
彼らの後方には大鬼族だけでなく、中鬼族や小鬼族、更には翼魔族まで控えており、レイにはレリチェにいるほぼ全員が出迎えに来たように見えていた。
タルヴォはルナの姿を見つけると、地面に額をこすりつけるように平伏する。その横ではヴァルマが涙を流しながら片膝を突いて頭を下げていた。更にその後ろでは鬼人族たちが同じように平伏する。
「よくぞ、ご無事で……闇の神よ、感謝します!」
ルナを見た感激のあまり言葉を出せなくなったタルヴォに代わり、ヴァルマが心情を吐露する。
「心配を掛けましたね」とルナは優しく語り掛ける。
「すべて終わったのでしょうか?」
「ジルソールの始まりの神殿で神からの依頼されたことは無事に果たしました。ですが、まだ私たちの戦いは終わっていません」
その言葉にタルヴォが顔を上げる。
「では、白の魔術師や後ろの戦士たちと共に、戦いに赴かれるとおっしゃられるのですか」
「その通りです。もちろん、皆さんにも力を貸していただきたいと思っています」
タルヴォは自らも月の御子と戦えると聞き、目を輝かす。
「命の限り、御子様にお仕えします!」
後ろにいる鬼人族たちにも聞こえたのか、同じように顔を上げて決意を示していた。
ルナは両手を上げてその興奮を鎮める。
「我が盟友、光の神の御子、レイ・アークライト殿と、その同胞たちです! 西の方たちですが、我が客人として丁重に扱ってください!」
「はっ!」とタルヴォが頭を下げると、鬼人族たちも同じように大きく頭を下げた。
「では、レリチェ村に向かいましょう。レイ、いいですよね」
今のやり取りを見て、ヴァニタスに操られている可能性は低いと感じ、「もちろん」と頷く。
以前、ネストリらが操られた時、ネストリとエイナルの二人は完全に傀儡となっていたが、他の兵士たちはごく弱い暗示程度しか掛かっていなかった。
今の鬼人族たちの反応はルナを心から敬うもので、全員が完全に支配下に置かれたのならともかく、一部だけという可能性は低いとレイに感じられた。
ルナも同じことを感じたため、相談することなくレリチェ村に入ることを提案したのだ。
連絡を入れるために半日使ってしまったため、レリチェに入ったのは翌日の十一月二十二日になった。
峠にあるトーア砦より標高は低いものの、アクィラの頂から吹き降ろされる寒風に晒されていたため、村に入った時にはウノたち獣人部隊はともかく、草原の民やマーカット傭兵団の面々は安堵の息を吐き出していた。
その日の夜はルナの帰還を祝う宴が催されることになったが、まだ午後に入ったばかりの早い時間ということもあり、タルヴォやヴァルマと言った主要な者を集めて、今後の方針を説明することになった。
レリチェ村には大鬼族のタルヴォの他に、中鬼族のペッカ・ベントゥラ、小鬼族のイスト・スラングスといった族長クラスが待っていた。
この三人にヴァルマを合わせた四人に対し、ルナはこれまであったことを話し始めた。
「……ソキウスを出た後、ジルソール島の創造神神殿に向かいました……神々と出会い、ヴァニタスの策を止めてほしいと依頼され、草原に向かったのです……」
三主神と八属性神に会い、草原に向かった後、ヴァニタスの策略がルークス聖王国の進軍とその後の大敗北であると知ったこと、そして、それを防いだ後、再び神に会い、ヴァニタスが絶望の荒野にいることを話していく。
ヴァニタスが絶望の荒野にいると聞かされたところで鬼人族たちは顔をしかめるが、それでも静かにルナの話を聞いている。
「……私たちはヴァニタスを封じると決めました。これは未来に、私たちの子孫に禍根を残さないためです。敵は神々が恐れるほど強大です。ですが、すべての人々が手を取り合えば負けることはありません。私たちに必要なことは仲間を信じること。今までの遺恨を忘れ、西の方たちと手を取り合って戦いましょう!」
ルナの言葉に、タルヴォたちは高揚し、死と同義とさえ言われている絶望の荒野に挑戦することすら気にしなくなっていた。
「私たちは一度ザレシェに入ります。ザレシェからマウキ村というところに向かい、そこから絶望の荒野に入ろうと考えています」
「マウキ村でございますか?」とタルヴォが疑問を口にする。
マウキ村はレイが絶望の荒野を横断した時にたどり着いた小鬼族たちの小さな村だ。権力闘争に疲れた者たちが身を寄せ合って生きているところであり、タルヴォら族長クラスの者でもその名を知るものはいなかった。
「以前、私たちが絶望の荒野を横断した際にたどり着いた村です。正確な距離は分かりませんが、ザレシェから北に百五十kmほどの場所にあったはずです。絶望の荒野の中心近くから三日ほどの距離で、比較的移動しやすかったと記憶しています……」
レイがそう説明すると、「あの荒野を踏破したのは真だったのだな」と感心される。
「明後日にはザレシェに向けて出発します。ヴァルマ、伝令に使える翼魔族はいるかしら」
ルナの問いにヴァルマは大きく頭を下げ、
「御子様のご帰還を伝えるために常時五名の伝令を準備しておりますので、問題ございません」
「では、ルーベルナとザレシェに伝令を頼みます。後ほど手紙を渡しますが、イーリス殿に呪術師を率いてザレシェに来ていただくよう頼むつもりです。ザレシェには私たちが向かうことを伝えてください」
「承りました」
魔族側からは特に意見はなく、会議は解散となった。




