第八十五話「聖王の改心」
レイは絶体絶命の危機を精霊たちの助力によって脱した。
精霊たちの起こした奇跡はまさに神の行いのように見え、ウエストローの丘にいるルークス聖王国軍の兵士たちは、彼を光の神の現し身と信じて平伏している。
彼らは兵士と言っても徴兵され、農村から無理やり連れてこられただけのただの農民だった。そのため、昨日までは生きて故郷の地を踏めるとは思っておらず、心は絶望に塗り固められていた。しかし、今は神とともにあると思うことで、平伏しながらも多幸感に満ちた表情をしている。
レイには兵士たちの様子は見えていないが、何かが起きていることは感じていた。
そして、聖騎士によって拘束されながら涙を流している聖王アウグスティーノに近づいていく。
彼はこの状況を利用し、聖王国軍を完全に掌握しようと考えていたのだ。
(このやり方がいいとは思わない。でも、やらなければ多くの人が戦争に駆り出され、多くの悲劇を生みだしてしまう。そうなったら虚無神の狙い通り、神々の力の均衡が崩れて世界は崩壊に向かうはずだ……何と言われようとも、それだけは絶対に防ぐ!)
心の中で決意を新たにするが、そのことはおくびにも出さず、優しい笑みに見えるように努力しながら話しかけた。
「聖王陛下、私の言葉は信じていただけたでしょうか」
その言葉に聖王はゆっくりと顔を上げる。その顔には驚きとともに清々しいような笑みがあった。
レイは先ほどの奇跡により、聖王が心を入れ替えたと確信した。
「もちろんでございます、光の神よ。愚かな私は邪神に操られていました。いかに操られていたとはいえ、神に弓を引いたのです。この罪を償うため、この場で死を賜り、神の慈悲に縋りたいと思います」
レイは神と呼ばれたことで胸の奥に痛みが走る気がした。彼は自分が聖王を騙そうとしていることを再認識したのだ。
(こんな目で見られるのは辛い。この人がよい人だとは思わないけど、騙していることに違いはない。こんな芝居をいつまで続けなくてはいけないんだ……)
自らの詐欺紛いの行いにすべてをさらけ出してしまいたい衝動に駆られるが、精神力を総動員することによって表情を崩すことなく、聖王に語り掛けていく。
「私は神ではありません。神の命に従うただの人間に過ぎません」
その言葉に聖王は「仰せの通りに」と頷くが、
「それでもあなた様に害をなそうとした罪は消えません。何卒、我が身に正義の神、ルキドゥスの罰をお与えください」
光神教の教えでは、ルキドゥスは唯一の神であるとともに正義の具現者とされている。これは聖職者たちが自らの都合の良いように“神の正義”という権威を振りかざすために作られた教義であるが、長い年月を経てそれが一般的な教義として定着していた。
「邪神に操られた被害者を罰することなどできません。まして、このように反省している方に罰を与えるなど……」
「それでは神の正義が軽んじられます。何卒、罰をお与えください!」
拘束されているため動けないものの、縋るような目で見つめてくる。
(この人がこのままでいてくれるなら、もう二度と無用な戦争を起こさないはずだ。あとはどうやってそれをお願いするかなんだが……そうか! 罰として命じれば従ってくれるはずだ!)
そう考え、今まで浮かべていた笑みを消し、真剣な表情を作る。
「……分かりました。では、あなたに罰を与えましょう。それもとても重い罰を……」
重い罰と聞き、聖王の目に恐怖の色が浮かぶ。
「……聖王として軍を率い、聖都に戻るのです。そして、すべての兵士を故郷に帰し、このような戦争を二度と起こさないよう、国を導いてください。これは光の神を戴く国の聖王としての責務。それをしっかりと果たすことこそが罪を償うということです」
思ってもみない言葉に、聖王は「それでは罰になりません!」と叫ぶ。
レイは「いいえ」と頭を振り、
「私の言葉、いえ、光の神の言葉を聞いていない者がたくさんおります。つまり、邪神の手先となる者が後を絶たないということです。その者たちを導き、先ほどの神の言葉の通り、すべての人たちに光を与えるのです。これは辛く厳しい試練です。恐らく何度も投げ出したいと考えることでしょう。ですが、私はそれを許しません! これは罰なのですから!」
聖王は言葉を失った。
レイは彼に構わず、取り押さえている聖騎士たちに「陛下をお放しください」と静かに命じた。
聖騎士はすぐに聖王を放し、後ろに下がっていく。
「今の言葉を聞かれたと思います! 聖王陛下はルキドゥスの真の心を国民に伝えるという試練が与えられました! これは皆さんも同様です!」
聖騎士や聖職者たちは「仰せのままに」と言って平伏する。レイが起こした奇跡を目の当たりにし、神の権威には逆らえないと従順に振舞っているのだ。
レイは良心の呵責に耐えながら、聖騎士たちに笑みを浮かべて頷いていた。
しかし、神の権威に従順な者ばかりではなかった。
参謀として従軍している聖王府の官僚たちは元々教団の聖職者や彼らが叫ぶ教義そのものに疑念を抱いており、レイの心に訴える言葉に心を動かされたものの、無条件に従うところまではいっていない。
聖王府の軍官僚カルロ・パレンティは、レイの言葉に簡単に丸め込まれ、表面上は素直に従っている聖職者たちを冷ややかな目で見ていた。
(確かに神の遣いであることは間違いない。表面上だけだろうが、これほど素直に従うということが信じられん……)
そう考えながらもこの状況は決して悪いものではないとも思っていた。
(聖王陛下は完全にこの方に篭絡された。それに少なくともここにいる聖職者たちはこの方に逆らうことはないだろう……この方は戦争自体を不毛だと心から思っておられる。そして重要なことはこの方の持つ力は強大だということだ。その力を上手く使えば、帝国との和平すら可能……我が国が生き残るにはこの方の力に頼るしかない……)
パレンティは神の権威を見せつけられた聖王と聖職者たちがレイの言葉に逆らうとは考えていなかった。
更にレイが掌握する草原の民の戦力を利用すれば、強大な帝国といえども交渉の場に引き出すことができると考えた。
それだけではなく、矛盾に満ちた自国の現状を変えるという、若い頃に考えていた理想に近づけるのではないかと胸が熱くなる。
(この方に聖都に来ていただかねばならんな。まだ、総大司教猊下という大物が残っているのだから……この方が力の一端を聖都で披露しさえすれば、信徒はすべてこの方の僕となろう。総大司教猊下といえどもすべての信徒を敵に回すことはすまい……)
そこまで考えたところで、近くにいた獣人奴隷が目に入る。
(いや、まだ獣人奴隷たちがいる。猊下なら暗部を使ってこの方を暗殺することすらやりかねん……)
獣人奴隷部隊は総大司教の命令に逆らえない。そして、現総大司教ベルナルディーノ・ロルフォは以前、暗殺専門の獣人奴隷部隊を使い、政敵である前聖王を殺害している。今回もレイが邪魔だと判断すれば、迷わず暗殺という手段に出ると考えたのだ。
(この方に我が国の改革を任せるなら、このことは伝えておかねばならんな。しかし、伝えたところでどうにかなるものではないが……)
長年の懸案だった祖国の改革ができると熱くなった心が嘘のように冷めていく。
パレンティがそんなことを考えている間に、レイは行動を起こしていた。
「それでは軍を移動させましょう。帝国軍は私の仲間たちが抑えてくれていますが、何が起きるか分かりませんから」
「仰せのままに」と聖王は大きく頭を下げる。そして、今まで出したことがないような覇気のある声で命令を発した。
「出発の準備を! 聖都に帰還する!」
レイはその言葉に張り詰めていた心を僅かに緩める。
同じように彼の後ろで見守っていたアシュレイたちも表情を緩ませていた。
「相変わらず無茶をする」とアシュレイが笑みを浮かべて彼を抱きしめる。
「ごめん。でもこれしか思いつかなかったんだ」
「でもよかったです。先ほどの声を聴いた時、レイ様が神に操られているのかと思ったのですが、そんなことはなかったのですね」
ステラの言葉に「あれは僕の意志だよ。必死に演技をしたんだから」と周囲に聞こえないように小声で答える。
「これからどうするんだ? 聖王国軍に同行するのか?」と疲れた表情のハミッシュが聞くと、
「今日一日は一緒に行動しようと思います。もちろん、草原の民の軍も一緒です」
「そうか。ならいい。しかし、こういう身体に悪いことはあまりするな。さすがに寿命が縮んだぞ」
ハミッシュの言葉に普段は陽気なアルベリックも真剣な表情で大きく頷いていた。
レイが視線を後ろに向けると、困惑した表情のランジェス・フォルトゥナートが立っていた。
「この先、私はどうすればよいでしょうか?」
やむを得なかったとはいえ、フォルトゥナートは主君である聖王の命令に逆らっている。確かに神への反逆に対する行動であったが、レイが聖王を許したため、司令部にいてもよいのか判断に迷ったのだ。
レイが答える前に聖王が力強い声で割り込んでくる。
「フォルトゥナート卿は軍将扱いとし、副将として余を補佐することを命ずる。卿がおらねば、余は大きな過ちを犯すところであった。その功績にはいずれ報いるが、今は余の手助けを頼みたい」
フォルトゥナートは中隊長から連隊長級である軍将に抜擢されたことに驚き動きを止める。
レイが承認するかのように小さく頷くと、「御意」と言って大きく頭を下げた。
その大抜擢にマッジョーニ・ガスタルディ執行司教は嫉妬にも似た感情が湧き上がるのを感じた。
(半年ほど前は第三階位の小隊長に過ぎなかった。それが第六階位の軍将だと! 第五階位の私より上位になるとは……)
しかし、そこでレイの表情を見て考え方を改める。
(いや、これはむしろよいことかもしれん。フォルトゥナートはこの方に気に入られていた。つまり、この方に気に入られれば、すぐに第六階位の大司教になれるということだ。上手く取り入る方法を考えねば……)
ガスタルディがそんなことを考えていると、パレンティが現れた。
「各部隊に指示を出すよう参謀たちに命じておきました」と報告した後、表情を曇らせながら、「ですが、一点だけ懸念がございます」と告げる。
その言葉に聖王が「懸念とは?」と聞き返す。
「まずは人払いを」と言って、周りにいる聖騎士たちを遠ざける。
そして、レイたちに聞こえるかどうかというほどの小声で、
「アークライト様の身に危険が及ぶ可能性がございます……」
「何!」と聖王は声を上げるが、「お静かに」とパレンティは制した後、説明を続けていく。
「このことが総大司教猊下のお耳に入りましたら、必ずや暗部と呼ばれている暗殺部隊を動かすことでしょう。そうなれば、いかにルキドゥスの加護を受けたアークライト様といえどもお命に危険が及ぶことは必定かと」
「暗部ですか……」とレイは呟くが、すぐに考え込む。
(暗部か……ウノさんほどの人が対応できるか自信がないといった人たちだ。何人いるのか分からないけど、もし狙われたらハミッシュさんたちがいても命の保証はない……待てよ。この軍には獣人奴隷部隊が千人くらいいるっていう話だ。もし、大部分がここにいるなら、暗殺部隊が来ても何とかなるかもしれない……)
レイは考えをまとめると、聖王とパレンティに質問する。
「獣人奴隷部隊のことですが、聖都にはどの程度残っているのでしょうか」
パレンティが「総数は総大司教猊下しか知らぬ機密事項でございますが」と前置きした上で、
「今回の戦いは我が国の命運を賭けた一戦ということで、猊下より動員可能な者はすべて連れていくよう命じられております。中にはまだ“里”での仕上げが終わっていない者もおり、聖都には別の任務に就いている者以外、ほとんど残っていないと思われます」
パレンティの説明に聖王も大きく頷いている。
「つまり、ここにいる獣人奴隷部隊を味方に引き入れたら、総大司教が私に危害を加えようとしても難しいということでしょうか」
「その通りでございますが……ご存じないかもしれませんが、獣人奴隷たちは総大司教猊下の命令に逆らえません。隷属の首輪によって猊下が最終命令権者となっているからです」
「そのことは知っていますが、もし隷属の首輪を外せるとしたらどうでしょうか?」
その言葉に聖王が首を横に振る。
「隷属の首輪は誰にも外せないものなのです。例えそれが総大司教猊下ご本人であっても……そのように作られた魔道具と聞いております」
聖王の言葉にレイは小さく頷くが、
「私には神に与えられた力があります。隷属の首輪を安全に取り外すことが可能なのです」
その言葉に聖王国の関係者全員が絶句する。獣人奴隷の隷属の首輪は一度嵌めたら死ぬまで外せないとされており、それが常識だと思っていたためだ。
「ウノさん、近くにいたら来てください」とレイが呼ぶと、すぐに姿を見せ、「御前に」と片膝を突いて頭を下げる。
「皆さんに見せたいことがあります」
レイはそう言ってウノに近づいていった。




