第六十話「北上」
再び舞台はジルソール島に戻る。
六月十五日。
レイたちは帝国中部域の草原地帯に向かうため、創造神神殿があるここナタリス村を出発する。
神官長レーア・ガイネスや神官アトロ・カヤン、村長コナリーらが見送りに来ていた。
「いろいろとお世話になりました」とレイが頭を下げると、アシュレイたちも同じように頭を下げる。
「こちらこそお礼を言わせて頂きますわ。あなたたちのお陰で神々から言葉をいただけましたから」
レーアはそう言って頭を下げる。
「私はまた来るかもしれません。その時はよろしくお願いします」
キトリー・エルバインがそう言うと、「もちろんですわ」と微笑む。
レイたちは馬に跨ると、王都ジルソールに向けて出発した。
アトロとコナリーらは彼らの姿が見えなくなったところでその場を離れたが、レーアは彼らの進む方角を見つめていた。
(本当に感謝しかないわ。神々に直接語りかけていただけた。私たちは捨てられたのではなかった……)
神々がレーアに語ったことは、クレアトール神殿はレイたちが虚無神の侵略を防いだ後、信仰の拠点となるということだった。
そして、その暁には神官たちはその知識とともに必要とされるだろうとも。ただ、その時期は遥か未来であり、それまでここを守り続けることが重要だということだった。
(私たちは必要とされる。それが遠い将来であっても……それだけで希望が持てる……)
神々はレーアたち神官がどれだけ祈ろうとほとんど応えなかった理由を語っていた。
それはヴァニタスに対抗するために召喚したレイとルナの力が未知数であり、最悪の場合、クレアトール神殿を餌にヴァニタスの手先をおびき寄せ、神官たちもろとも滅ぼす策を考えていたためと言われた。
その言葉にショックを受けたものの、自分たちと世界を天秤に掛ければ、おのずとその結論になると納得している。
(あの二人のために私にできることは祈ることだけ。神々に愛されたあの子たちの成功を祈る。それだけ……)
レーアはその場で跪き、彼らのために祈りを捧げる。その瞬間、神殿内のような神聖な空気に包まれた。
(神々も気にされているようね。私には到底できないことだけど、あの子たちならできそうな気がするわ。本当に不思議な子たち……)
そして、ゆっくりと立ち上がると、神殿に向かって歩いていく。その表情はいつも通りの柔らかな笑みに包まれていた。
■■■
六月二十一日。
レイたちはジルソール島の北の町、レネクレートに到着した。途中で王都ジルソールに寄ったものの、帝国行きの船は見つからず、予定通りレネクレートで船を待つことにしたのだ。
待つことにしたものの、少しでも早く帝国本土に渡るため、チェスロックに向かう船か、連絡できる船がないか探し始める。
貿易商を見つけ、話を聞くが、「十日ほど待ってくれれば何とかなるが、すぐには無理だな」と断られる。
更に船を探すものの、小さな町であり、チェスロックまで安全にいける船がないことはすぐに分かった。
諦めかけた時、レイたちに接触してきた者がいた。この町の漁師でレイたちがチェスロックに手紙を運びたがっていることを知り、会いにきたという。
「手紙を運んでほしいと聞いたんだが、あんたらか」
潮焼けした赤い顔で丸太のような腕の屈強な男で、ビルと名乗る。
「そうですが……漁師の方ですか?」
「ああ、今はここで漁師をしている」
そういって笑みらしき表情を浮かべる。
厳つい顔であるため、レイには笑っているようには見えなかった。
それでも何とか笑みを返し、
「百kmくらいあるんですが、大丈夫なんでしょうか?」
「当たり前よ。俺は三年前まではチェスロック近くで船乗りをやっていたんだぜ。このあたりの海は俺の庭みてぇなものだ」
その大言壮語に胡散臭さを感じたが、手紙を運んでもらえれば十日ほど早く帝国本土にたどり着ける。
「金貨五枚でどうだ? そのくらいの金は持っているんだろ?」
金貨五枚は五百クローナ、日本円で五十万円ほどになる。
その金額にレイがためらっていると、
「この時期、この辺りは嵐が頻繁に来るんだ。ここ数日は安定しているが、五日も経ったらどうなっているか分からんぞ」
それでも目の前の人物が今ひとつ信用できない。
それに気づいたビルは「仕方ねぇな」と言い、
「金貨三枚でどうだ」
三百クローナなら出してもいいと考え、レイは頷く。
「チェスロックに着いたらトバイアスさんにこの手紙を渡してください」と言って用意してあった手紙を渡す。
しかし、彼を信用しきれず、条件を付け加えた。
「前金は金貨一枚。トバイアスさんから返信を必ずもらってきてください。その手紙と引き換えに残りを渡します」
ビルはその言葉に苦笑いを浮かべ、「分かったぜ」と大きく頷く。
「まあ、俺のことが信用できんのは仕方がねぇが、この話は俺にとってもメリットがあるんだ」
「メリットですか?」と首を傾げる。
「そうだ。相手はあのクロージャー商会のトバイアスなんだろ。奴に伝手がほしいんだよ……」
ビルは元々帝国南部で貴族領を跨ぐ密貿易をしていたが、取締りが厳しくなりレネクレートに逃げてきた。ほとぼりが冷めた頃だが、再び密貿易に手を出すのではなく、クロージャー商会に船乗りとして雇われたいと考えていた。
「辛気臭ぇこの町からさっさとおさらばしてぇ。あんたらはトバイアスに貸しがあるようだから、そいつを利用させてもらおうと思っているんだ」
その言葉でレイは信用する気になった。
ビルはその後、すぐに出港した。彼の話では明日の昼にはチェスロックに着けるとのことで、早ければ五日後の六月二十六日には迎えが来るだろうとのことだった。
レイたちは訓練を行いながら迎えを待った。
町の人々は武術の訓練という珍しい光景を遠巻きにしながら見ていた。この町には兵士もほとんどおらず、激しい訓練など見たことがなかったためだ。
六月二十六日の朝。
ビルが言っていたとおり、空はどんよりとした厚い雲に覆われ、南からの湿った風が吹き抜けていく。
「なんかやばそうな雲行きだね」とレイがいうと、アシュレイが「そうだな」と心配そうな顔で空を見上げる。
「ベテランの漁師の方に聞いたのですが、明後日くらいから大荒れになるそうです。この時期だと十日は続くと。大丈夫でしょうか」
ステラも心配そうに空を見上げながら得た情報を伝える。
正午頃、レネクレートの港にクロージャー商会の船、西風号が入ってきた。レイたちはすぐに港に向かう。
船が接岸すると、飛び降りるようにしてトバイアスが降りてきた。
あいさつもなしでいきなり、「出発の準備はできているか」と聞く。
「ええ、馬と荷物を取ってくればすぐにでも出発できますが」とレイが訝しげに答える。
「ならすぐに取って来い。早くしないと船が出せなくなる」
トバイアスは元々剣呑な顔だが、苛立ちのため更にしかめていた。
その表情にレイたちは時間がないと直感し、大急ぎで荷物を取りに行く。大きな荷物はなく、十分ほどで戻ると、船は既に出港準備に入っていた。
レイたちはすぐに馬と荷物を船に運び込んだ。
「この南風を利用してチェスロックに戻る。前より揺れるが、無事に連れ帰ってやるから安心しろ」
トバイアスの言葉にレイは行きに経験した船酔いを思い出し、表情を暗くする。しかし、このタイミングを逃すと数日単位で遅れることから何も言わなかった。
ゼファー号は滑るようにレネクレートの港を出ていく。トバイアスの言葉通り、港を出た直後から船は大きく揺れ始める。
二時間後、風が強くなり、雨が降り始めた。三角帆が大きく膨らみ、大粒の雨が甲板を叩く。
左右に大きく揺れるだけでなく、時折船首が大きく持ち上がり、バンという船底を叩くような音と共に突き上げるような揺れがくる。
そんな激しい揺れに、船旅に慣れないレイたちはすぐに船酔いになった。
唯一、ウノたちとステラだけが船酔いにならずに済んでいたが、旅慣れたキトリーまで船酔いになるほどの揺れで、レイは吐き気と戦いながら本当に大丈夫なのだろうかと不安を感じていた。
揺れは大きいものの、南風に乗ったゼファー号は飛ぶように海を進んでいく。
行きには一昼夜掛かったが、今回は半分の十時間ほどでウェール半島の南部に到着した。帝国側はまだ嵐の範囲ではないのか、雨は降っておらず、強い南風が吹いているだけだった。
既に日は落ちていたが、トバイアスは明日の朝まで待つつもりはなく、そのままチェスロックの港に入るつもりでおり、船乗りたちにテキパキと指示を出している。
「港の中に逃げ込むぞ! 最後はボートで引く!……」
彼らの顔にも焦りがあり、トバイアスの命令に逆らうことなく従っていた。
チェスロックの港の突堤にある灯台の明かりが見えてきた。
トバイアスの声が更に大きくなる。
「帆を引け! 舵は中央だ! よし、裏帆を打たせろ!」
港内に入ったところで減速し、接舷の準備を始めた。
一時間後、ゴツンという音と共にゼファー号はチェスロックに到着した。
日付が変わった直後であり、港に人影はない。
揺れと船酔いでフラフラと足取りのレイが甲板に出てきた。
「もう着いたんですね。助かりました……」
「今までで一番速かったぜ。あと半日遅かったら、レネクレートで何日も足止めを食らうところだったがな」
レイはトバイアスに改めて礼を言った。
「ありがとうございました。僕たちを運ぶだけになってしまって申し訳ないです」
本来ならレネクレートで商売をするのだが、今回は天候が悪くなる可能性があったため、レイたちの輸送しかしていない。彼はそのことを謝罪したのだ。
「構わねぇ。海蛇竜の借りを返しただけだからな」
「ありがとうございました。これはビルさんに渡してください。残りの報酬が入っています」
そう言って金貨の入った革袋を渡す。
トバイアスと握手をして別れた後、宿に向かった。深夜ではあるが、港に入ってきた商船を相手にする宿があるためだ。
レイはフラフラとした足取りで宿に入り、寝台に倒れ込む。
翌朝、すっきりと目覚めたが、外は大荒れの天気だった。
食堂に全員が集まり、今後のことを協議する。
「悪天候を押してこのまま出発するか、一日様子を見るかだが」とアシュレイが話し合いの口火を切る。
「この先の天候はどうなるんだろう。地元の人に聞いてから判断した方がいいと思うんだけど」
レイがそういうとステラが、
「ゼファー号の船乗りの方に聞いたのですが、嵐はこの辺りでも数日間続くらしいです」
「なら、待っても仕方がないということだね。北に向かえば天気も回復するかもしれないし、難所らしい難所もないんだから」
彼の意見に反対はなく、朝食後、クロージャー商会とロビンス商会に顔を出し、そのまま出発することになった。
クロージャー商会でトバイアスにもう一度礼をいい、ロビンス商会に向かう。チェスロックまで案内してくれたロビンス商会のヴィタリ・ホワイトは既に北に向けて出発しており、知っている者は誰もいなかったが、ジルソール島に行っている間の帝国内の情報を入手できた。
事務員の一人から、帝国はルークス聖王国との戦争に向けて着々と準備を進めていると教えられる。
「……精鋭の第四軍団がラークヒルに向けて出発したって話がつい最近きました。あと、レオポルド殿下の第三軍団と第七軍団が近々出征するという噂が出ているそうです……」
レイはその話を聞き危機感を募らす。
(思った以上に話が進んでいる。急がないと間に合わないかもしれない……)
ロビンス商会を後にし、レイたちは帝国南部の主要街道である南方街道を北に向かって出発した。
チェスロックを出発したレイたちは一路北に向かって進んでいく。出発した当初は初夏の激しい嵐に悩まされたものの、その後は天候も回復し、トラブルもなく順調だった。
彼らと同じように多くの商人が帝都に向かっており、理由を調べると、帝国軍出征に合わせて物資の売り込みにいくという話だった。
「数日中に出発するみたいだ。帝国軍を抜かないと進みにくくなるかもしれない」
レイが気にしたのは街道が帝国軍の大軍で塞がれることだ。
その懸念にルナも大きく頷く。
「そうね。帝都を出発する前に抜けてしまいたいわ。それが無理でもエザリントンで追いついて、先に西に向かわないと軍の後ろを付いていく感じになってしまうから」
レイもそれに頷いていた。




