第三十九話「チェスロック」
五月三十日。
レイたちはウェール半島最南端、チェスロック公爵領に入った。
「蒸し暑いね」とレイは言いながら、手で顔を仰ぐ。
既にマントは脱ぎ去り、漆黒の革鎧がむき出しになっているが、初夏というにもまだ早すぎる季節であるにも関わらず、照りつける太陽にジリジリと焼かれていた。
それにもまして苦痛なのは湿度だった。まとわりつくような湿気を含んだ空気が体温の放出を阻み、絶え間なく汗が流れ落ちている。
レイ以上に参っているのが、北方育ちのアシュレイだった。
彼女は気合で愚痴こそ零さないものの、綿製の鎧下は絞れるほど汗で濡れている。
ライアンは「やってられねぇな」と愚痴を零し、水筒の水を呷っていた。
ステラとイオネも不満げな表情は一切浮かべないが、それでも玉のような汗を顔に浮かべている。
そんな中、ロビンス商会のヴィタリ・ホワイトだけは元気だった。彼は何度もチェスロックを訪れており慣れていたのだ。
「休憩を頻繁に挟みましょう……水分は適宜取ってください。水を飲まずに倒れた旅人が多いですから……」
旅慣れている彼はレイたちにテキパキとアドバイスと与えていく。
もちろん、正規の獣人奴隷部隊員であるウノたちは全く表情を変えることなく、普段通りだ。レイは汗すら掻いていないのではないかと目を疑うほどだった。
チェスロック公爵領は帝国南部にあっても特殊な地域だ。
亜熱帯気候に近い気温と湿度が高い地域で、それまでのフィーロビッシャー公爵領などとは山を一つ挟んだだけであるのに全く違う風景を作り出していた。
フィーロビッシャーまでは温暖な気候ながらも見慣れた植物が多かったが、チェスロックに入ると、シダ類などの熱帯で見られる植物が多く、チェスロック川近くでは水田が作られており、水牛のような牛が歩いている。
この他にヤシやバナナの木などもあり、まさに南国という風情だ。
午後三時頃、チェスロック市に到着した。
案内役のヴィタリがレイたちの体力の消耗を考えて移動距離を短くしたことと、比較的気温が低い早朝に出発したためだ。
チェスロック市は一辺が一kmの城壁に囲まれた帝国標準城塞都市だ。人口は五千人ほどで、そのほとんどが行政及び軍の関係者となっている。但し、海に面した港湾地区にも市街地が形成されており、そこには一万人を超える商人や漁業関係者が住んでいる。
レイたちは城塞都市には入らず、港湾地区に直接向かっていた。
「ロビンス商会の出張所がありますから、一旦そこに顔を出しましょう」とヴィタリが言って先導する。
港湾地区には城壁や柵などはなく、自由に出入りできる。
帝国では珍しい木造で茅葺のような屋根の家が並び、その多くが大きな窓を開け放っている。
街に入ると漁港が近いためか、魚の生臭い匂いが漂ってきた。しかし、漁師らしき男たちがダラダラと酒を飲んでおり、レイたちは漁船が出られない影響を感じていた。
彼らの様子に気づいたヴィタリが、「本来ならもっと活気があるんですが、漁船も商船も出られないからなんでしょうね……」というほどだった。
ロビンス商会の出張所は港から少し離れた商業地区にあった。この辺りの建物も木造が多く、石造りの建物はほとんどが倉庫だ。
出張所という名ではあるが、他の商会の支店に遜色ない大きさだった。ただ、帝都の支店のようなポップな感じの看板はない。
「ここはあくまで原材料を仕入れるための出張所ですから」とレイたちの視線に気づいたヴィタリが説明する。
建物の中に入ると十人ほどの従業員が働いていた。直射日光を受ける外よりはマシだが、ムッとする蒸し暑さはあまり軽減されない。
応接室に案内され、ヴィタリから今後の予定を確認される。
「これからのことですが、まずクロージャー商会を訪ねてはいかがでしょうか。この状況では船長でもあるトバイアス・クロージャー氏もいるでしょう。彼から情報と条件を聞き出してから、行動を起こした方がよいのではないかと……」
レイは「そうですね」と答えるものの、アシュレイたちに視線を送り、どうすべきか目で確認する。アシュレイらもレイに一任するという意味で小さく頷いて答える。
「では、クロージャー商会に向かいましょう」
そう言って立ち上がった。
クロージャー商会はロビンス商会より更に海側に店舗を構えていた。
この商会はラングトン、ケンドリューといった東部の街やジルソールと交易しており、三隻の中型船を持っている。その三隻はリアス式海岸が続く複雑な地形のウェール半島東岸に適した三角帆を持っており、取り回しのよさが特徴だ。
その一隻、西風号の船長がトバイアスである。
レイたちはヴィタリから事前情報としてそう教えられていた。
クロージャー商会に入るが、受付らしいカウンターにはやる気のなさそうな若い男性従業員が一人いるだけで、他には誰もいなかった。
ヴィタリがその男性に声を掛ける。
「ロビンス商会のヴィタリ・ホワイトと言います。商会長にお会いしたいのですが」
「ボスに会いたいだって?」と素っ頓狂な声を上げる。しかし、相手が帝都の大手商会の名を出したため、すぐに言いなおす。
「会長はいますけど、今はやめた方がいいと思いますよ。何せ、この状況ですから気が立っていて……」
そこまで言ったところで、「客が来たんならさっさと通せ!」という野太い声が聞こえてくる。
「しょうがないですね。付いてきてください。でも、気が立っているんで言葉には注意した方がいいですよ」
最後は小声で付け加えた。
奥に案内されると、開けっ放された扉から木製のジョッキを置くコトンという音と、コッコッコッという酒を注ぐ音が聞こえてきた。
男性従業員が「ロビンス商会の方です」と言って中に入り、レイたちも彼に続く。
中には身長二mほどのスキンヘッドの男がテーブルに脚を上げて座っていた。頬に大きな刀傷があり、更に黒い髭が海賊船の船長といってもおかしくないとレイは密かに思っていた。
更にその傍らには大型のジョッキがあり、小型の樽まで置かれていた。
ヴィタリはその態度に僅かに眉を顰めるが、相手が商人というより船乗りであるということを思い出し、冷静に話し始める。
「帝都のロビンス商会のヴィタリ・ホワイトと申します。こちらは当商会の会長、バート・ロビンスの紹介状でございます」
ロビンス商会の商会長からの紹介状ということで、トバイアスは眉を僅かに動かした。
「飛ぶ鳥を落とす勢いのロビンス商会が俺のところのような零細企業に何のようだ?」
ヴィタリはその問いに直接答えず、ルナに視線を向けてから、
「こちらはルナ・ロックハート様でございます」
トバイアスは“ロックハート”という名に「ほう」と言い、ゆっくりと脚を下ろす。
「あのロックハート家のお嬢様が俺のような船乗りに何のようなのだ? それにその後ろの連中は並みの腕じゃねぇ。まあ、ロックハート家の噂が誇張じゃなけりゃ分からんでもないがな」
そこでルナがヴィタリから話を引き取る。
「私たちはジルソールにいかなくてはなりません。そこでクロージャーさんのお力を貸していただきたいと」
そう言って持ってきたパストン商会でもらった紹介状を机の上に置く。
「パストン商会のマイケル・パストン殿から預かった紹介状です」
トバイアスは封を切ることなく、「ロビンス商会にパストン商会か……確かに本物のロックハートのようだな」と呟くが、
「だが、船は出せん。どれほど頼まれてもな」
自嘲気味にそう言い、ジョッキを呷る。
そこでレイが話しに加わった。
「私はレイ・アークライトと言います。あなたが船を出せないのは海蛇竜のせいですか?」
「その通りだ。今まで見たこともねぇ大物だ。奴が港の外にいる限り、船は一隻も出せん」
苦りきったような表情でそう言い切る。
「逆に言えば、シーサーペントさえどうにかすれば、船は出していただけるということですね」
レイがそういうとトバイアスは分かっていないとでもいうように肩を竦めるが、
「そうだが、帝国軍もお手上げの一級相当の魔物をどうこうすることはできん。奴がいなくなるのを待つしかねぇんだ」
レイは「帝国軍が動かないのは聞いています」と言って頷くが、
「ですが、このまま何ヶ月も待つつもりですか? 相手はここで待っていれば新たな得物が来ると分かっているんですよ。すべての港に情報が行き渡るまで、ここを封鎖しておくつもりですか」
レイが言う通り、チェスロックの港からは出ていかないが、情報が行き渡っていないためか、入ろうとする船は後を絶たない。そのため、シーサーペントは湾の出口に居座り、その姿は陸上からでも見えていた。
「素人だから分からんだろうが、海は陸とは違うんだ。船を出して奴と戦うのは死ににいくだけだ」
「分かっています。水の中で水棲の魔物、それも最強の一級相当の魔物と戦う気は僕にもありません」
「じゃあ、どうやって倒すつもりだ? あれくらいの魔物は用心深い。苦手な陸に上がるほど馬鹿じゃないぞ」
「それは今から考えます。ですが、僕たちがシーサーペントを何とかしたら、船を出してくれると約束していただけませんか」
レイの言葉を信じているわけではないが、「奴を何とかしたら、船は出してやる」と約束する。
「では、船の確保はできたと考えていいんですよね。それとクロージャー商会の依頼を受けてシーサーペントを討伐するという話にしても問題ないですね」
トバイアスは「依頼だと……」と驚くが、
「何とかできるなら構わん。報酬はどうするのだ?」
「ジルソールまでの輸送費でどうでしょう? もちろん、シーサーペントの討伐報酬は公爵家か帝国政府からもらうつもりですが」
レイの暢気ともいえる言葉にトバイアスは絶句する。
「では、それでいいということですね」
そう言ってヴィタリとルナに目で部屋から出るように合図する。
二人は軽く頭を下げて部屋を出ていき、レイたちも後に続く。
クロージャー商会を出た後、レイは「シーサーペントに関する情報集めをしよう」と提案する。
「その前に確認しておきたい」とアシュレイがいい、
「ここに来るまでに確認しているが、敵は五十メルトを超える大物で間違いない。漁師が使う大型の銛も効かぬし、船は帝国軍の戦闘用のガレー船ですら簡単に沈められたと聞く。この状況で何とかできるのか?」
「そうだね……前に二人だけで緑蛇竜を倒したよね。あの時思ったんだけど、サーペントって陸上じゃ大した魔物じゃないんだ。上手く陸上に引っ張り出せれば、何とかなるんじゃないかって。もちろん、僕たちだけじゃ無理だから、帝国軍や街の人にも手伝ってもらわないといけないんだけど」
「確かにサーペントは陸上では動きが鈍い。だが、あの鱗と生命力にあれほど梃子摺ったのだ。今回はあれの倍以上と聞く。クロージャー殿も言っていたが、長く生きている魔物は用心深い。言うほど簡単とは思えん」
「そこはちょっと考えがあるんだ。帝国軍の施設と船を見ないと何ともいえないんだけど」
アシュレイはレイが何か思いついたと察し、
「分かった。ならば、情報集めは私とヴィタリ殿でやっておこう。聞いておくことがあれば教えてくれ」
「一番知りたいのはいつも港の外にいるかということ。もし、いない時があるなら、どんなパターンで行動しているか。例えば、朝は沖合いにいて明るくなったら近づいてくるとか、そんな感じの情報がほしい。もちろん、大きさとかの特徴も知りたいね」
「分かった。では、ステラはレイと一緒に。ルナはどうする?」
「そうですね。手分けした方がよさそうなので、私たちも情報を集めてみます。午後六時に宿に集まるということでどうですか?」
ルナの提案にレイとアシュレイが頷く。
レイはウノを呼び、
「すみませんが、三組に分かれてください。僕のところはステラがいるので、アッシュのところとルナのところに二人ずつという感じで」
レイたちはそれぞれ町に散っていった。




