第三十八話「フィーロビッシャーへ」
五月二十三日。
五月の爽やかな風が吹きぬけ、上空には雲ひとつない晴天が広がっていた。
レイたちは今日、帝都プリムスを出発する。今は別れの挨拶のため、鍛冶師ギルドに来ている。
既にロビンス商会から派遣されたヴィタリ・ホワイトと合流し、鍛冶師ギルドのプリムス支部長ギュンター・フィンクと同行するドワーフたちが乗る馬車を待っている。
レイとライアンの二人には昨夜の送別会の疲れが見えるが、解毒の魔法で回復したことと、今後の方針が決まったことから表情はいつもより穏やかだ。
「もう少しゆっくりしたかったね」とレイがアシュレイに話しかける。
「そうだな。特に神殿はもう少し見てみたかった。プリムス名物というだけのことはある」
昨日の午後、スリ騒動があったものの、その後はレイたちに影響を及ぼすようなことは起きず、天の神と創造神の神殿を見物している。
カエルム神殿は国の名前にもなっていることから、十二の神殿で最も大きく最も壮麗で、レイですら他の観光客と同じ様に目を丸くするほどだった。
青を基調とした建物でカエルムの巨大な像が立ち、飛竜や有翼獅子など飛行型の魔物の像が並ぶ姿に声を失っていた。
神殿で祈りを捧げた際、神からの声が聞こえるのではと淡い期待を抱いたが、聞くことは叶わなかった。
ルナも同じように何か啓示のようなものがないかと熱心に祈りを捧げたが、彼女にも神々からの声は届いていない。
神殿を出た後、レイはウノからルークスの獣人奴隷部隊と接触したと聞かされて驚いたが、脅迫染みた警告を送ったことで、その後は一切姿を見せなくなったと報告を受けた。
彼は上手くいったことに満足するが、警戒は続けるよう指示を出している。
鍛冶師ギルドでの送別会はいつもと同じだったが、唯一異なる点はルナの存在をあまり表に出さなかったことだ。
宴会の名目もギュンターら十人のドワーフのフィーロビッシャーにある蒸留所視察を送り出すというものだった。
これはルークスの獣人奴隷部隊が接触してきたことから、無用な関心を呼ばないようにとの配慮だった。
レイたちは鍛冶師ギルドとデオダード商会に雇われた護衛の傭兵という名目で南に向かうことにしており、傭兵らしい装備で馬を引いている。
当然ルナも護衛の一人という位置付けで特別扱いはされていない。
鍛冶師ギルドの紋章――金槌と金床――が入った馬車が二台現れた。
中からギュンターが顔を出し、「では出発するぞ!」と言って右手を上げる。
見送りにきたドワーフたちはそれに「「ジーク・スコッチ!」」と応えるが、それはルナに対する激励の言葉だった。
ルナは心の中で感謝の言葉をいい、目立たないように小さく頭を下げる。
鍛冶師ギルドを出発し、帝都の南門から南方街道に出たところで騎乗する。
南方街道は中央街道と同じく土属性魔法で作られた街道で道幅も広い。帝都から少し離れるとすぐに農地となっている丘陵地帯に入り、収穫前の麦の穂が揺れていた。
「戦争が起きそうな感じは全くないね」とレイがルナに話しかける。
「そうね。本当に長閑って感じね。このままピクニックに行きたいくらいよ」
プリムスからフィーロビッシャーまでは約二百km。予定では五日で移動する。一日辺り四十キメルと通常の商隊より強行軍だが、街道が整備されていること、荷馬車がいないこと、馬車に乗る鍛冶師たちが頑健であることなどから、全員で話し合って決めた。
強行軍ではあるが、頻繁に馬を換える予定であるため、午前九時に出発すれば午後四時頃には目的地に到着できる。
出発後の行程は順調で、三日目に天候が崩れたものの、何事もなく五月二十七日に目的地であるフィーロビッシャー市に到着した。
ウェール半島の中央部の広大な盆地が、フィーロビッシャー公爵領となっている。
緩やかな丘陵地帯の中心にフィーロビッシャー公爵領の領都、フィーロビッシャー市があった。
フィーロビッシャー市は帝国建国のごく初期にできた街であり、帝国様式の都市ながらも城壁の一辺の長さは二キメルと、標準的な城塞都市の四倍の面積を誇る。
街の南北を南方街道が貫き、東側に公爵家の居城、フィーロビッシャー城があった。
街を大きく分けると、中心部である南方街道沿いが商業地区、西側に住宅地、東側が帝国軍や騎士団の駐屯地となる。
駐屯地には帝国軍から派遣された一個連隊二千名がおり、周辺の治安維持に当たっていた。
フィーロビッシャー市はウェール半島中央地域の中核都市ではあるが、人口は僅か一万人で、周辺の農村を合わせても五万人ほどと、大都市という規模の街ではない。
また、交易に有利な海からも遠く、主要な産業が農業だけということで、商業活動はあまり活発ではなかった。
その農業だが、他の地域に比べて非常に盛んだ。
温暖な気候と適度な降水で、年間を通じて何らかの作物が収穫できる。特に内陸部での小麦の生産量は多く、帝都や東の大都市ラングトンに送られていた。
また、フィーロビッシャー公爵領の特産品である砂糖は、半島の西側にあるレンフィールドを中心に大規模なサトウキビ畑があり、その収穫量は世界一を誇っている。
北門から入ると、商業地区が広がり、多くの商店や食堂の看板が目に入ってきた。
「聞いた話より栄えている感じだね」とレイがアシュレイに話しかける。
「確かにそうだな。看板を見る限りでは食料関係の商会が多そうだ。いや、食事処の方が目立つ気がするな」
アシュレイの言う通り、呼び込みが多く、飲食店街という印象が強い。
「数年前からですね。私が初めてここを訪れた時はこんなに飲食店はありませんでしたから」
同行しているヴィタリがそう説明する。彼はカカオの買い付けのため、チェスロックに何度も行っており、ここフィーロビッシャーも頻繁に訪れていた。
そんなことを話しながら脇道に入っていく。鍛冶師ギルドのフィーロビッシャー支部に向かうためだ。
支部は大通りから西に入ったところにある。
この街の鍛冶師ギルドの歴史は浅く、設立されてまだ僅か五年しか経っていない。
その理由だが、元々ここではドワーフの鍛冶師が必要になるほど武具の需要がなかったためだ。フィーロビッシャー公爵領の治安は非常によく、ラングトン大公領との境にある急峻な山地以外では魔物や盗賊の被害はほとんどない。そのため、フィーロビッシャー市には冒険者や傭兵がほとんどいない。
駐留している帝国軍の武具の整備や補充は必要だが、帝国は装備の標準化が進んでおり、街にいる人間の鍛冶師たちで充分だった。そのため支部を作る必要性がなかったのだ。
今でもドワーフの鍛冶師たちは蒸留器の生産にしか携わっておらず、ドワーフの数は十名ほどと支部としては最も小さい部類に入る。
「思ったより大きいね」とレイが建物を見上げながら呟く。
三階建の石造りの重厚な建物で、支部の規模の割には大きい。
馬車から降りてきたギュンターがその呟きに答えた。
「ほとんどが倉庫じゃからな。銅の板が大量に保管してあるんじゃ……」
通常の支部であれば鉄やミスリルなどの武具用の素材や炭などの燃料が保管されているが、ここでは蒸留器の生産に特化しているため、ほとんどがその素材になっている。
ギュンターたちはそのまま支部の建物に入っていく。
レイたちも慌ててついていくが、中には数人の職員がいるだけで、鍛冶師の姿はなかった。
「ドワーフがいない鍛冶師ギルドって珍しいよね」とレイがいうと、ルナがくすりと笑う。
「総本部でも普通はいないのよ。だって、自分の工房を持っているんだもの」
「そう言われればそうだよね。でも、宴会ばかりしているイメージが強すぎて……」
そう言って苦笑する。それにアシュレイたちも釣られて笑っている。
ギュンターに気づいた職員が「本日は皆さん、現場に出ておられます」と言って頭を下げた。
「分かっておる。だが、夜には戻るのだろう?」
「はい。皆様がお越しになられることは伺っておりましたので、午後六時より宴会を開始する予定で考えております」
「うむ。ならばよい。儂らは五日ほど厄介になる。すまぬが、儂らの宿の手配を頼む」
職員は既に手配を終えていたのか、「ご案内します」と言って先導する。
レイたちはロビンス商会の従業員ヴィタリ・ホワイトの定宿に宿泊する予定となっており、ここで一旦別れた。
宿に着いたところでレイが切り出した。
「まだ宴会には二時間くらいあるけど、どうする?」
その言葉にヴィタリが「私は取引のある商会を回って情報収集にいって参ります」と言い、
「というわけで、鍛冶師ギルドの宴会は欠席ということでお願いしたいのですが……」と付け加えた。
彼はこの五日間でギュンターたちに何度か潰されており、噂に聞くドワーフの宴会に二の足を踏んでいた。
レイとライアンはヴィタリの気持ちがよく分かっているので、肯定の意味で大きく頷くが、アシュレイが「折角の機会なのだ。一緒に飲んではいかがか」と空気を読まない発言をした。
ルナはそのやり取りに笑いを堪えていた。
ヴィタリはアシュレイに「情報収集を優先したいと思いますので」と言って、宿を出ていった。
レイはヴィタリを見送った後、もう一度確認するが、伝手もないため、訓練をした後、鍛冶師ギルドに向かうことになった。
鍛冶師ギルドではいつも通りの宴会が行われたが、ギュンターたちを含め、二十人ほどしかドワーフがいないため、レイはいつもより大人しい印象を受けた。
フィーロビッシャー支部長のライムント・パエツはドワーフの鍛冶師の中では比較的若く、五十代半ばでしかないが、ドワーフらしい立派な髭と太鼓腹で、親方の貫禄は充分にあった。
宴会が落ち着いた頃、ライムントが支部職員の集めた情報について説明する。
「総本部から連絡があってから情報を集めさせたんじゃが、レンフィールドからも船は出ておらんようじゃ……」
レンフィールドはフィーロビッシャー公爵領に属する町で、砂糖の輸送のため多くの船が立ち寄る港がある。
「ラムを運ぶ船の船長に話をしてみたが、南行きは金を積んでも無理だと断られた」
「なぜじゃ?」とギュンターが尋ねる。
「帝国政府の命令だそうじゃ。レンフィールドとプリムスの間の船もほとんど徴用されておるらしく、ラムと砂糖を運ぶもの以外、おらんらしい。その船も緊急時には徴用するから航路を外れる商売は禁じられておるとのことじゃ」
「ラムを運ぶ船まで徴用するじゃと!」と叫んで、ギュンターが立ち上がる。他にも帝都からきたドワーフも怒りに震えていた。
「まあ、最後の手段だそうじゃ。少なくとも陸路は確保すると確約しておるらしい」
その話を聞き、ギュンターたちも落ち着きを取り戻す。レイはその話を聞き、陸路を選んだことが正解だったと安堵する。
(ドワーフの酒を運ぶ船まで徴用するつもりなら、南行きの船はいつまで待っても来なかったってことだな。でも、どれだけの戦力を運ぶつもりなんだろう……)
ライムントの話はまだ続いていた。
「……ここからチェスロックまでは特に何もない。いつも通りということじゃ。だが、ジルソールは少し様子が違うようじゃ」
「様子が違う……ですか?」とルナが思わず口にする。
「そうじゃ。海に出た船が帰らぬことが多くて困っておるらしい。何でも大型の魔物が船を襲っておるという噂じゃ」
「大型の魔物ですか?」と今度はレイが聞いた。
「噂にすぎんが、海蛇竜じゃ。まあ、見た者はおらんので確かなことかは分からんが、浜に漂着する船の残骸を見る限り、まず間違いはないということじゃった」
シーサーペントは三級相当の魔物蛇竜の海棲型で、陸棲型のサーペントより大きく、最大のものは全長五十mを超え、大型の竜や魔将に匹敵する一級相当の魔物だ。
「それでどうなんじゃ。船は出せそうなのか?」とギュンターが先を促す。
「聞いた話では漁船すら出ておらんらしい」
レイはその情報に考え込む。
(船が出せないとなると、ジルソールに渡る術がなくなるってことだ。シーサーペントは二級相当。倒すといっても陸上の冒険者では難しい。前にアッシュと一緒に緑蛇竜を倒した時みたいに陸に誘い出すしかないだろうな……でも、僕たちが倒したのは二十メルトくらいだった。五十メルトとなると今の僕たちでも難しいかもしれない……)
アシュレイも同じことを考えていたのか、討伐について質問する。
「討伐の話は聞いておりませんか? チェスロックに駐留する軍が動くという話は?」
「聞いておらんの。漁師たちはチェスロック公に嘆願しているようじゃが、あの公爵では動かぬじゃろうな」
チェスロック公は元老の一人だが、舞踏会で美女たちとの恋愛ゲームに明け暮れ、政治には興味を示さないことで有名だった。
「では、このままいなくなるのを待つだけということでしょうか」とアシュレイが更に尋ねる。
「そうなるの」とライナルトが答え、重苦しい空気が漂う。
その空気を感じたのか、ギュンターが「ここで悩んでも解決はせぬ。今日は忘れて飲み明かすぞ!」と叫び、宴会に再び明るさが戻った。
日付が変わる頃に宴会はお開きになるが、レイたちの足取りは重かった。
「あと五日で状況が変わっているとは思えないんだけど……」
「そうね。最悪、私たちで討伐しないといけないかも……私たちというより、あなたといった方が正しそうだけど」
ルナの言葉にライアンも頷く。
「海にいる魔物じゃ、手を出せねぇ。いや、出せたとしても一級相当のシーサーペントが相手なら、俺は足手纏いにしかならんからな」
その言葉にアシュレイが首を横に振る。
「レイと二人でグリーンサーペントを倒したことがある。上手く陸におびき出せれば、皆の力で倒すことは可能だろう。まあ、行ってみねば何も決められぬがな」
彼女の言葉に全員が頷いた。
宿に戻ると、ヴィタリが起きて待っていた。彼の顔も暗く、同じ情報を入手していた。
ヴィタリはレイたちの表情を見て、「既にお聞きになられたようですね」といってから、
「シーサーペントが出たようです。私が聞いた範囲では討伐の計画はありませんでした……」
彼が調べた内容もライナルトの情報と変わらず、シーサーペントがいなくなるのを待つという消極策しか採らないということだった。
「とりあえずチェスロックまでいくしかないということだ。今は考えるより明日の出発に備えて身体を休めるべきだろう」
アシュレイがそう言い、寝台に向かうと、レイたちも眠るしかないと諦めた。
翌朝、ギュンターたちに別れを告げ、チェスロックに向けて出発した。




