第五話「ヴァニタスの力」
四月一日の正午前。
レリチェ村を出発したレイたちは、カウム王国の国境の砦トーアに向かっていた。
そんな彼らに大鬼族戦士のネストリ・クロンヴァールと小鬼族のエイナル・スラングスに率いられた完全武装の百名の小鬼族戦士と二百匹のゴブリンが迫っている。
エイナルは族長会議が始まった直後、改心していたように見せていた仮面を脱ぎ棄てた。もっともルナやレイの前では本当に心を改めており、彼自身もその時は本気で悔いていた。
しかし、それは虚無神による巧妙な心理操作だった。もし、表面的な演技であれば、ウノやステラによって看破されただろうが、完璧な心理操作により、練達の間者であるウノたちをも騙し切った。
新たな心理操作を受けたエイナルは、今の地位を利用して族長たちからの命令書を偽造し、兵を動かした。その際、ネストリの謹慎も解除することが書かれており、レリチェ村の兵士たちは誰一人疑わなかった。
そして、選抜した兵士は子飼いのスラングス家の者とし、更に“白の魔術師”が月の御子を拉致しようとしていると吹き込んだ。兵士たちは疑うことなく彼に従った。ここでもヴァニタスは兵士たちに精神操作を行っていたのだ。
レイは森の中の一本の巨大な倒木の前に立ち、彼らを待ち受ける。
(ネストリとエイナルだけが虚無神に操られているなら、魔法で倒してしまうこともできる。でも、もし他の兵士も操られていたら、ここで乱戦になるのは得策じゃない。この場所なら僕とアッシュ、ステラ、ウノさんたちで守りを固めれば、時間を稼ぐことはできるはず。でも、どのくらい時間を稼げばいいのかが分からないのが辛い……)
レイはこれだけの規模の兵が動いたのであれば、レリチェ村にいるタルヴォ・クロンヴァールらがネストリたちの行動に気づき、救助に向かっていると確信している。しかし、その時間差がどの程度かは全く読めなかった。
ネストリを先頭に小鬼族戦士が走りこんできた。ネストリの表情は憎しみと歓喜が混ざり合った醜いもので、ルナは思わず顔を背けている。
「ネストリ殿、何か用ですか」とレイが暢気とも言える口調で話し掛けた。しかし、ネストリはその問いかけに一切答えることなく、走り続けている。
レイはルナに「小鬼族戦士に言葉を」と指示し、愛槍白い角を構える。彼の周りではアシュレイたちが剣を引き抜いていた。
「小鬼族戦士の皆さん! 私が誰か分かりますか! 私は月の御子、ルナです! 皆さんは私の同志であり、邪神と戦う戦友です!……」
ルナの問い掛けに小鬼族戦士、操り手たちの足が止まる。しかし、その表情は暗く、熱狂的な反応をした一昨日とは全く違っていた。
(小鬼族も操られているのか……完全では無さそうだな。上手くいけば洗脳が解けるかも……)
レイの希望的観測は即座に打ち砕かれる。
「同胞たちよ! 御子様のお言葉に惑わされるな! 今の御子様は白の魔術師に操られている! 今こそ我らの宿敵、白の魔術師を倒し、御子様を取り戻すのだ!」
集団の後方にいたエイナルがそう叫び、ネストリも「西で散った同胞たちの無念を晴らすのだ! 続け!」と叫んで斧を振り上げる。
「ネストリは僕とアッシュで抑え込む! ステラはルナを頼む! ウノさんたちは囲まれないように! 敵を倒すより時間を稼ぐことを考えて!」
レイはそう叫ぶと、槍をネストリに向ける。
「お前の兄、オルヴォ殿は僕との一騎打ちに応えてくれた! 臆病者のお前は兄とは違う! 僕との一騎打ちを恐れているんだ!」
その嘲笑にネストリが怒りの咆哮を上げる。
「貴様! 俺が臆病者だと言いたいのか!」
「臆病者でないなら、小鬼族を下げて、僕との一騎打ちに応じろ! オルヴォ殿は側近の戦士に下がれと命じていたぞ」
レイの挑発にネストリは乗った。
「お前など俺一人で充分! 誰も手を出すな!」と叫び、レイに向かって突っ込んでいく。レイはこれで何とかなると安堵するが、
「相手は卑怯者の白の魔術師だ! ネストリ殿の周りを固めろ! 白の魔術師に手を出すな! だが、他の連中は別だ! 殲滅してしまえ!」
エイナルの命令に「オゥ!」と応えて小鬼族戦士がアシュレイたちに殺到していく。ネストリも自分の戦いに介入しないと思い、小鬼族戦士の動きに注意を払わない。
「卑怯者! 小鬼族で周りを固めて、僕の攻撃を防ごうというのか! 正々堂々と一騎打ちに応じろ!」
レイが再度そう叫ぶが、ネストリは「黙れ!」と言って斬りかかっていく。
レイは言葉では何ともできないと考え、ネストリとの戦いに集中するしかなかった。
ルナは自分の言葉が彼らの心に届かないと知り、どうしていいのか迷っていた。
(こんな状況じゃ、私の話なんて誰も聞いてくれない。弓があれば少しは手伝えるのだけど、今の私には何もできない……)
そんな彼女に隣にいたイオネが声を掛ける。
「祈りましょう。御子様の祈りがノクティスに通じれば、奇跡は起きるはずです」
ルナが振り返ると、戦場とは思えないほど穏やかな表情のイオネが彼女を見つめていた。その姿はまさに聖女というべきもので、ルナも即座に目的を理解した。
「分かりました。一緒に祈りましょう」
ルナは巨木の上で頭を垂れて祈り始めた。その横ではイオネも祈っているが、彼女は最後の砦となるべく、長さ二メルトほどの棍を握り締めている。
アシュレイは押し寄せる小鬼族戦士とゴブリンの波に飲み込まれまいと必死に剣を振っていた。
(不味い状況だ。私はまだマシだが、ステラやウノ殿たちには狭すぎる。ペリクリトル郊外での戦いの二の舞になりかねん……)
ペリクリトル攻防戦の最終盤、ウノたち獣人奴隷部隊はレイを守るべく周りを固めていたが、ゴブリンを使い捨ててきた小鬼族の作戦に梃子摺った。
(時間を稼ぐにしてもレイが魔法を使うことができねば難しいかもしれん……まだ、一年しか一緒に過ごしていないのだ! こんなところで終わらせるわけにはいかない!)
アシュレイは覚悟を決めると、小鬼族戦士を挑発し始めた。
「貴様らはそれでも武人か! ゴブリンの陰に隠れているだけの臆病者が月の御子を奪おうとは片腹痛い! 悔しいなら掛かってこい!」
彼女の挑発に数人の小鬼族戦士が「何だと!」と怒りの声を上げる。しかし、すぐに後ろからエイナルが激しい口調でそれを押し留める。
「安っぽい挑発に乗るな! 御子様をお守りするためだ! この程度の屈辱など何ほどのものか!」
小鬼族戦士は指揮官の言葉に踏み止まる。アシュレイは内心で大きく落胆しながらも、自慢の大剣でゴブリンをなで斬りにしていく。
「ゴブリンなど盾にもならぬ! 臆病者が出て来られぬというのなら、こちらから行ってやる! そこで震えながら待っていろ!」
更なる挑発に若い小鬼族戦士が暴発する。
「どけ! 俺が叩きのめしてやる!」
彼は自らの眷属を強引に後ろに下げた。そのため、他のゴブリンとの間に微妙な隙間ができる。
その隙間にアシュレイが強引に入り込み、大剣を車輪のように水平に振り抜いた。次の瞬間、五匹のゴブリンの首が刎ね跳ばされ、噴水のように血が噴き上がる。
更に、その光景に狼狽する小鬼族戦士に剣を突き立て、素早く元の位置に戻った。
しかし、その努力も大勢を変えることはできず、すぐにゴブリンたちに群がられてしまう。
ステラはウノたちと連携しながら、巧みに位置を変えてゴブリンたちを倒していた。彼女の双剣は既に十匹以上のゴブリンを倒し、数名の小鬼族戦士に傷を負わせたが、その足元にはゴブリンの死体が溜まり、徐々に動ける範囲が狭くなっていく。
(このままでは押し潰されてしまう……これがレイ様言っていた“数の暴力”というものね。投擲剣もあと二本になったし、剣の切れ味も……どうしたらいいのかしら……)
まだ余裕はあるものの、血糊で剣の切れ味が悪くなっており、一撃で仕留めることが難しくなりつつあった。
(レイ様もアシュレイ様もまだ余裕はありそうだけど、このままだと危険だわ。でも、レイ様も今は動けない。何とかできるとしたら、あの人なのだけど……)
剣を振りながら自分の後ろで祈りを捧げるルナのことを思い浮かべる。しかし、変化の兆しは全く見えなかった。
レイはネストリと戦いながらも余裕があった。
(ネストリはタルヴォ殿やオルヴォ殿に比べたら大したことはないな。もちろん、当たればただじゃ済まないけど、ミスさえしなければやられる気はしない……)
実際、ネストリの技量は低く、それが理由で西方派遣軍に選抜されていない。但し、大鬼族だけあってスタミナだけは驚異的で、一瞬でも気を抜けば両断されるほどの斬撃を五分以上続けている。
(こいつを倒しても小鬼族が襲ってくる。魔法を使う暇はないだろうな。アッシュたちも五十くらいは倒しているみたいだけど、全然減った感じがしない……どうしたらいいんだろう……)
そんなことを考えながらも、愛槍で敵を確実に傷つけていく。そのため、ネストリは血塗れになっているのだが、オーガに匹敵する耐久力を誇る大鬼族は倒れるどころか、疲れすら見せていない。
逆に最小限の動きでスタミナを温存しているはずのレイの方が疲労し始めていた。
打開策が見えないまま、槍を振り続けるしかなかった。
何分戦っているのか時間感覚がなくなってきた頃、徐々に敵の動きに変化が見えてきた。
後ろからゴブリンたちを嗾けていた小鬼族の操り手たちの声が小さくなっていたのだ。それに伴い、ゴブリンたちの動きも精彩を欠き始めている。
レイはネストリとの戦闘を続けていたため、何が起きているのか理解できない。しかし、すぐに理由が判明する。
「祈りが通じました! 御子様、皆にお言葉をお与えください」
イオネの声が彼に届き、ルナがノクティスに祈り続けた効果が出たのだと理解した。
「何をしている! 白の魔術師を仕留めねば、御子様は我らの下に戻ってこぬのだ!」
エイナルの焦りを帯びた声が森に木霊する。しかし、彼の声に反応する小鬼族戦士はおらず、戸惑うかのように周囲を見回していた。
エイナルは業を煮やし、自らの眷属、三十匹のゴブリンをルナの下に向かわせた。
「ええい! 御子様を奪え! 行け!」
ウノたちはそれに反応しようとしたが、未だにゴブリンたちが囲んでいるため、動きが取れない。
「ステラ様! お願いいたします」とウノが叫び、ステラの前のゴブリンを斬り捨てる。ステラは「ありがとうございます」と礼を言いながら、バク転で後方に下がり、巨木の上に登った。
ゴブリンたちは必死に巨大な倒木に登ろうとするが、矮躯であるため、中々上れない。エイナルは焦るが、それ以上打つ手はなかった。
これで何とかなると思ったが、それを覆す者がいた。
レイにのらりくらりとかわされていたネストリが「オォォ!」という咆哮を上げた。その咆哮は彼本来の熱さを感じさせず、アクィラの山を吹き抜ける吹雪のようなすべてを拒む冷たさすら感じさせた。
その咆哮がゴブリンたちを狂わせた。
本来、眷属でもないゴブリンに命令することはできないのだが、何らかの力が働き、ゴブリンたちは恐慌に陥ったかのようにウノたちに襲い掛かった。
その後ろでは小鬼族の操り手が必死に眷属を制御しようとするが、その努力をあざ笑うかのようにゴブリンたちはネストリの咆哮に踊らされていく。
「ネストリ殿の力を見よ! これぞ、ノクティスに愛されし戦士の力! 宿敵、白の魔術師を仕留めるのだ!」
エイナルが狂ったようにゴブリンたちを嗾ける。小鬼族の戦士や操り手たちは戸惑いながらもそれに追従し始めた。
(ルナの祈りが打ち消された? ヴァニタスの介入なのか……だとしたら、ネストリを倒せば何とかなるかもしれない……)
レイは時間稼ぎを止め、一気に攻勢に出た。しかし、ネストリは先ほどまでの無駄の多い動きから一変し、超一流の戦士を髣髴とさせる斧捌きを見せる。
(これもヴァニタスの力なのか?……押し切るどころからやられないようにするので精一杯だ……)
この時、ネストリはただ欲求の赴くままに斧を振り、その力に酔っていた。
(俺が白の魔術師を倒す……俺にならできる……今の俺は兄上どころか、親父殿すら超えている……)
この時、彼が考えるとおり、鬼人族最高の戦士であるタルヴォやその後継者であるオルヴォの身体能力を超えていた。彼には時間がゆっくりと流れるように見えており、更に思い通りに身体が反応している。
(今なら神ですら斬り殺せる……俺は最強の戦士だ! クックックッ……この力でソキウスの王にも、いや、世界を征服することすらできる……)
力に酔いしれながら、暴風のように斧を振るっていく。
レイは最初こそ戸惑ったものの、冷静さを取り戻した。
(確かに斬撃は正確になったし鋭くなったけど、それだけだ。ハミッシュさんを相手にした時ほどの絶望感はない……そうか! ただ力任せに斧を振っているだけで、追い詰めようっていう戦略がないんだ。だとしたら、やりようはある!)
彼はマーカット傭兵団の猛者たちに鍛えられ、戦い方を叩き込まれていた。その彼の目から見ると、鋭いだけの斬撃は脅威ではあるものの、絶望感を与えることはなかった。
逆にネストリの弱点を探り始める。
(斧で突くことはできない。それに今のネストリは単調な大振りしかしてこない。タイミングを計って急所に一撃を入れれば、いくらなんでも動きは止まるはず……)
レイは紙一重で巨大な斧を回避しながら、慎重に反撃を狙っていた。




