第二話「レリチェ村、再び」
三月二十九日。
月の御子一行はソキウスの西方進出拠点レリチェ村に到着した。伝令が到着を伝えており、村は歓迎ムード一色だった。
馬車が村に入ると、鬼人族を中心に「御子様、万歳!」と「ソキウス、万歳!」の声が上がる。
ルナは月魔族のヴァルマ・ニスカとともにレリチェ村を出発した時のさげすんだような視線を思い出し、手の平を返したような歓迎振りに違和感を持つ。
(あの時は完全に私を偽者だと決め付けていた。それがこんなにも変わるなんて……)
そのことをレイに話すと、彼は小さく肩を竦める。
「仕方がないよ。人は見たいものしか見ないんだから。それに話を聞く限りだけど、そのエイナルっていう人が権力争いのネタにしようとしていたみたいだし、これだけ有力者が集まっているのに、本心は別としても歓迎しないっていう選択はできないよ」
彼はエイナル・スラングスの心情を正確に把握していた。エイナルは鬼人族内での自らの地位を高めようと西方への再侵攻を主張していた。そのため、月の御子が偽者であるという噂を流したが、今回は鬼人族最高位の族長会議首座であるタルヴォ・クロンヴァールを始め、主要な氏族の族長が月の御子を敬っていることから、態度を一変させた。
「それよりもこの先、エイナルという人が暴走しないか心配だな。君が月の御子であるということを未だに疑っているようなら、西側にちょっかいを掛ける可能性もあるからね。そうなると、君が帰ってくる時にやっかいなことになるかもしれない」
彼が懸念したのはタルヴォたちがザレシェに戻った後、レリチェの司令であるエイナルが暴走し、カウム王国の村を襲って勝手に戦端を開くことだ。
エイナルから見れば、今は最前線基地の司令という地位にあるものの、西側への侵攻作戦が凍結されれば、レリチェ村の責任者は辺境の開拓村の村長と変わらなくなる。
何らかの理由をつけて西側の国との戦端を開き、なし崩し的に西方侵攻作戦を再開することで、自らの地位を安泰なものにする可能性があると考えたのだ。
「まあ、これは杞憂かもしれないけどね。君の言葉を聞かない鬼人族がいるとは思えないし、スラングス家の族長にも来てもらっているから」
「そうね。エルノ殿も最初は私のことを侮っていたけど、今ではそんなことはないし。それにスラングス家のイスト殿も私の言葉を聞いてくれるわ」
中鬼族の族長エルノ・バインドラーを引き合いに出すが、彼女は引っ掛かるものを感じていた。
(何を考えているのか分からないって感じの人だったわ。何か嫌な予感がする……)
レイが「それよりも心配なことがある」と言ったため、ルナは顔を上げる。
「ここには僕のことを狙う大鬼族がいる。君を取り戻すためにマーカット傭兵団と一緒に山に入った時、しつこく追いかけてきたんだ。タルヴォ殿が上手く説明してくれればいいけど、気が短い感じがしたな……」
ルナもそのことは覚えており、「ネストリという人ね。タルヴォ殿の息子さんだったはずだけど……」と言ったところで、最初に会った時の印象は良くないため、言葉を濁す。
「……でも、タルヴォ殿とは似ても似つかないわ。態度は大きいし、粗暴だし。タルヴォ殿の息子って聞いた時に嘘って思ったくらいよ」
彼女自身はネストリと直接会話していないが、彼女の護衛であったイェスペリ・マユリらに対して暴言を吐き続け、居心地の悪さを感じていた。
「タルヴォ殿が抑えてくれればいいのだけど、注意しておいた方がいいわね」
「そうだとすると、僕は姿を見せない方がいいかもしれないね。“白の魔術師”のことをどこまで知っているか分からないし」
レイとアシュレイは馬車の中に留まることにし、目立つ鎧、雪の衣は外していた。その代わり、目立たない革鎧を身に着けており、彼の顔を知らなければ、白の魔術師と同一人物とは見分けられないようにしている。
村の中心部に到着し、馬車が停止した。
馬車の外では熱狂的な声が続いており、馬車の扉が開かれると更にボルテージが上がる。村人だけでなく、護衛の戦士たちも万歳を叫び、祭のような騒がしさになった。
馬車の横に立つタルヴォが両手を大きく開き、「鎮まれ! 御子様をお迎えする!」と命じると、声は徐々に収まっていく。
馬車からルナが姿を現すと、レリチェ村の鬼人族から溜め息に似た声が漏れる。彼女の姿は漆黒のドレスと同じように闇を溶かしたような黒髪、そして気品のある佇まいで、まさしく月の御子であると誰もが思った。
エイナルは彼女を見て、自分が過ちを犯したと気づく。
(あの時とはまるで違う。今の姿はまさに闇の神の使いたる御方と素直に首肯できる……しかし、これは不味いことになったぞ。タルヴォ殿だけでなく、兄者までもが完全に崇拝の眼で見ておる。幸い、ヴァルマはおらぬが、御子様があの時のことを持ち出したら、今の地位を剥奪されかねん……)
スラングス家の族長である彼の実兄イストまでもが崇拝の眼差しを向けていることに、冷や汗を流していた。
ルナは彼のことなど眼中になく、タルヴォに促されるまま、馬車の前に降り立つ。
「レリチェ村の皆様。私が月の御子、ルナです。この度は私のために集まっていただき、ありがとうございます……」
あいさつを行った後、ここでも虚無神の脅威とソキウスの理想を語っていく。
「既に聞いておられる方もおられるかと思いますが、今、この世界はヴァニタスの脅威に曝されています。それを食い止めるには皆さんの力が必要です! ソキウス建国の理想を実現すること、それを世界に広めていくことで、邪神からこの世界を守ることができるのです!……私はその準備のため、一度西に戻ります。ですが、必ずここに戻ってきます! 皆さんもソキウスの理想を叶えるため、私に力を貸してください!」
彼女の声は精霊たちによって全ての人々に届けられる。護衛として同行している戦士たちは途中の町や村で何度も同じ話を聞いているが、それでも涙を流しているものが多い。
そんな中、一人の若者だけはルナの言葉に反応していなかった。
彼ネストリ・クロンヴァールはタルヴォの護衛である戦士から偶然“白の魔術師”が同行していると聞いていた。そのため、出てきたところで斬りかかろうと巨大な斧を握り締めている。
憎悪に歪んだ彼の心には闇の精霊の力も及ばず、彼一人だけがルナに対して畏敬の念を抱いていなかった。
すぐ近くには側近であるクロンヴァール家の戦士たちがいたが、彼らはルナの演説に聞き入っており、彼の行動に気づく者はいなかった。
ルナの演説が終わり、演台から降りていく。
レイもここまで来れば大丈夫だろうと、馬車を降りようとした。
その直後、「貴様が白の魔術師か!」という罵声が彼の耳を打ち、足元から視線を上げる。
目の前には憤怒の表情を浮かべ、巨大な斧を振りかぶったまま向かってくるネストリの姿があった。
レイの護衛であるウノが一番に反応した。彼は投擲剣をためらうことなく、ネストリの右腕に向けて投げつける。狙い違わず二の腕に突き刺さるが、興奮したネストリは斧を取り落とすことなく、突進していく。
ルナが上がっていた演台を吹き飛ばし、その余波で彼女は大きくよろめいていた。
ネストリはルナのことなど眼中になく、真直ぐにレイを見て突き進んでいく。
「アークライト様! お逃げください!」
セイスがそう叫び、更にヌエベとディエスとともにレイの前に立つが、圧倒的な体格差があり、レイにはその突進を止められるとは思えなかった。
(不味い! あの巨体だと斧を避けても馬車ごと潰される……)
魔法を使う余裕もなく、腰の長剣を抜くことすらできず、馬車を飛び降りることしかできない。
彼の後ろからアシュレイの「レイ!」という焦りを含んだ声が聞こえてくる。
セイスたちは決死の覚悟でネストリの太ももに剣を突き刺すが、僅かにスピードを落とす程度の効果しかなかった。
レイは斧が振り下ろされる瞬間を狙って回避する覚悟を決めたが、いつもの装備でないことから動きに精彩がない。
レイが逃げ切れるのかと焦りを感じながら、巨大な斧を見つめていた。
しかし、ネストリの斧が振り下ろされることはなかった。
「何をしておる!」という大音声と共に、ネストリの振りかぶった腕はタルヴォに押さえつけられていた。
「離せ! 親父殿はよいのか! 兄上の仇なんだぞ!」
ネストリが喚くようにそう言うが、タルヴォは更に力を込めて彼を引き倒していた。
「愚か者! 御子様に危害を加えるとは……」
「なぜだ! 兄上の仇が目の前にいるんだ! 白の魔術師はソキウスの敵だ! 親父殿はソキウスを裏切ったのか!」
斧を取り落とし、タルヴォに押さえ込まれながらも喚き続ける。
「レイ殿は御子様の盟友。御子様をヴァニタスから守るためにオルヴォと戦い、厳寒のアクィラを越え、更に絶望の荒野を越えた……」
タルヴォは僅かに表情を歪め、更に話を続けていく。
「オルヴォは、我が息子は正々堂々の一騎打ちで敗れたのだ。貴様のように不意討ちで襲い掛かるようなことは決してせぬ……オルヴォの名誉を穢すことは許さぬ!」
ネストリは更にもがいていたが、タルヴォ直属の戦士たちにも押さえ込まれ、ようやく観念したのか大人しくなる。
しかし、彼は右腕と両脚から血を流しながらも、憎悪の目をレイに向ける。その瞳には悔し涙が浮かんでいた。
「俺は認めんぞ。お前如きに兄上が負けるわけがないのだ。卑怯な罠を使ったに決まっている。俺の部下を殺した時のように……」
彼の言葉には呪詛が満ちていた。三十名にも及ぶ部下を雪崩を使った罠で殺されたことも、彼がレイを恨む要因の一つだった。
タルヴォは「縛り上げて牢に入れておけ。儂の許可なく、牢から出すことは許さぬ」と命じた。
ネストリ直属の戦士が傷の治療を願い出たが、タルヴォはそれを拒否した。
「この程度の傷で大鬼族は死にはせん。御子様に危害を加えた重罪人に情けは無用」
タルヴォはルナが倒れたことに怒りを覚えていたが、それ以上にここで中途半端な対応を取れば、ルナに陶酔する鬼人族たちがネストリを害する可能性があると考えたのだ。
ルナは自分の演説でも鬼人族が暴走したことに驚いていた。
(私の言葉が届かなかった。どうして?……憎悪が酷いとノクティスの力も届かないということなのかしら?)
彼女はそう考えるものの、僅かだが彼に同情していた。
(ここまで憎むということはお兄さんのことを本当に尊敬していたのね。聖君を殺そうとしたことは許せないけど、肉親を殺されたのだから仕方がないのかも……でも、聖君は大丈夫なのかしら? 私なら肉親の仇って面と向かって言われたら心が折れると思うわ……)
彼女はイオネを呼び、「ネストリ殿に治癒魔法を掛けて上げて」と頼む。そして、タルヴォだけでなく、周りの人々に聞こえるように、「ネストリ殿に罪はありません」と言った。
それに対し、タルヴォは大きく頭を振る。
「この者は御子様に危害を加えております」
「いいえ。彼が逆上したことは仕方がないことです。事前にきちんと話しておくべきでした。私から安寧を司るノクティスの教えをしっかりと伝えておけば、このようなことにならなかったと思います」
その言葉にネストリ以外の鬼人族が深々と頭を下げる。基本的には単純な彼らは、月の御子が深い慈悲の心を見せたことに、素直に感動していた。
その隙に「イオネ、治癒魔法を」と命じ、彼女はそれにすぐに応じる。
治癒魔法を受けながらもネストリはルナにも憎悪の目を向けていた。
「お前も白の魔術師の仲間なのだな……俺は絶対に認めん。貴様が月の御子であろうと……」
彼の呟きはイオネにしか聞こえなかった。彼女はその憎悪に満ちた言葉に目を見開く。しかし、ここでこれ以上話をすることはルナの考えに合わないと思い、何も言わなかった。
ネストリは両手両足を頑丈なロープで縛られ、牢に入れられた。
一連の騒動を冷ややかな目で見ていた者がいた。
エイナルはルナが本物の月の御子であると確信したが、ネストリ一人御せないと見て、再び侮り始める。
(最初は驚いたが、月の御子と言っても思ったより大したことはないな。だが、今は敬う態度を見せねばならん。この地位を失うわけにはいかぬからな……)
エイナルが闇の精霊の影響を受けなかったのは、先入観が原因だ。
彼は月の御子の力に覚醒していない彼女を間近で見ており、当初から侮っていた。その先入観が強く、闇の精霊が振りまく力を感じつつも素直に感情に従うことをしなかった。
また、レリチェ村はヴァニタスの影響を強く受けている土地であり、更にルーベルナのように闇の大神殿があるわけでもなく、ノクティスの力が十全に作用しているとは言い難かった。
そして、不幸なことに、このことに気づく者は誰もいなかった。




