第六十五話「タルヴォ・クロンヴァール」
三月四日午前一時頃。
レイたちはルーベルナに向かうロウニ峠で鬼人族と対峙していた。
ルナの言葉により、ほとんどの鬼人族が怒りを鎮めたが、ただ一人、大鬼族の長タルヴォ・クロンヴァールが異議を唱えた。
ルナは鬼人族の中で最も信頼できる彼が自分の言葉に従わなかったことに驚きを隠せなかった。
「あなたなら分かってくれると思ったのに……なぜなの……」
それまでの自信に満ちた笑みが消え、一気に不安気な表情になる。
「儂は御子様のためなら命を捨てることもいとわぬ。月魔族の裏切りも堪えろと言われれば堪えてみせる。だが、白の魔術師と手を組むことだけはできぬ! 我が息子オルヴォ、そして、多くの同胞たちを獣のように罠にかけた男と力を合わせることなどできぬ!」
鬼人族の精鋭たちは月の御子に異を唱えるタルヴォの行動に困惑するものの、その想いには共感する部分が多く、頷いている者が多かった。
しかし、彼の行動に疑問を持つ者が一人いた。小鬼族の長ソルム・ソメルヨキだ。
彼はタルヴォとの付き合いが長く、盟友といえる関係でもあった。そして、鬼人族の中でも感情に流されることなく、冷静に物事を判断できる尊敬できる人物であると思っていたのだ。
そのタルヴォが自らの嫡男を失ったという理由で、敬愛する月の御子に反発することが信じられなかった。
そして、ソルムはそのことを言おうと顔を上げる。しかし、彼が言葉を発する前に後ろから声が掛かる。
「タルヴォ様には何かお考えがあるのではないでしょうか。今少し様子を見た方がよいかと」
ソルムが振り返ると、そこには中鬼族のヨンニ・ブドスコの姿があった。彼は鬼人族の中でも最も気が短いといわれているブドスコ家にあって、唯一感情に流されずに大局を見ることができる人物であると、ソルムは評価していた。
「どのような考えがあるというのだ?」
「分かりません。ですが、タルヴォ様が何の考えもなく、御子様のお言葉に心から異を唱えるとは思えません」
ソルムはその言葉でもう一度タルヴォの姿を見ることにした。
タルヴォの言葉は怒りに満ちているように聞こえるが、その表情は普段と変わらず、暴走しているようには見えなかった。
(タルヴォは滅多に表情を変えぬが、それでも何かおかしい。ヨンニ殿の言うことも一理ある。ならば、今少し様子を見るか……)
ソルムはヨンニに小さく頷くと、上げかけた腰を静かに戻した。
ルナの横にいるレイはこの状況に困惑していた。
多くの情報を得ているわけではないが、大鬼族のタルヴォは信頼に値するとルナから聞いており、もし中鬼族が暴走した場合はタルヴォとソルムにとりなしを頼もうと考えていたのだ。
そのタルヴォが暴走したことで、レイは混乱する。
(ルナの話だとタルヴォ殿は信用できるということだった。それがなぜ……やっぱり子供の命を奪った張本人は許せないということなんだろうか……でも、月の御子であるルナにあれほどはっきり反対するなんて思ってもみなかった……でも、おかしい。鬼人族は月の御子を崇拝しているはず。そうじゃなければ、夜を徹して走り続けるはずはないんだから……)
レイの混乱を他所にタルヴォは彼の前に立っていた。
「儂はこの男が正々堂々の戦いで我が息子オルヴォを倒したとは思えぬ」
そう言って背中に括りつけてあった巨大な斧を構える。
「儂と戦え! 我が息子を倒した力を見せてみよ!」
ルナは慌てて「タルヴォ殿。私の言葉が信じられませんか!」と間に入ろうとした。
「御子様のお言葉に逆らうことは本意ではないが、この白の魔術師が本物かどうか確かめねば納得できぬ」
そう言って一歩前に出た。
タルヴォの身体から闘気のようなものが溢れ、レイの護衛であるウノたちが剣を抜き放った。
一触即発の状況にレイは慌てて「ウノさん。手を出さないでください!」と命じ、更に後ろに控えていたアシュレイとステラにも手を出さないように指示を出した。
「僕たちが戦わなければいけない理由はありません。武器を下ろしてもらえませんか」
できる限り冷静に告げるが、タルヴォは問答無用という感じで斧を構えたままにじり寄っていく。
「力を見るのであれば、私が」と言って、大鬼族のイェスペリ・マユリが前に出ようとした。彼はオルヴォの副官的な地位にあったが、ルナの護衛という任務を与えられたため、オルヴォと共に戦うことができなかった。彼はそのことを悔いていた。
このまま白の魔術師とタルヴォが戦い、万が一タルヴォを失うことになれば、二度も主を失うことになると、自分が代わろうとしたのだ。
「差し出がましいぞ、イェスペリ!」とタルヴォは一喝する。そして、イェスペリだけでなく、鬼人族の戦士全員に向けて宣言した。
「これは儂タルヴォ・クロンヴァールと白の魔術師との戦いだ! 誰一人、手を出すことは認めん! イェスペリ! 貴様は他の者が手を出さぬよう見張っておれ!」
その迫力に鬼人族の精鋭たちですら身動きができなくなる。
レイは必死に打開策を考えるが、思い付かない。
(どうしたらいいんだ? どうしても戦わなくちゃいけないのか。迫力だけならハミッシュさんに匹敵する相手と……正面からやりあったら僕に勝ち目はないよ……)
彼が感じている通り、タルヴォは戦士としても優秀だった。
六十歳になっているタルヴォだが、鍛え上げられた四メルト近い巨体から発する闘気は一級傭兵であるハミッシュ・マーカットと遜色がないと感じさせた。実際、長年の鍛錬で培った斧術は息子であるオルヴォより高く、レベル六十を超えている。
槍術士レベルが四十四に過ぎないレイが正面から戦える相手ではなかった。
「魔術師相手に槍で戦えとは言わぬ」と言い、更に間合いを詰めてくる。
アシュレイはマーカット傭兵団で高レベルの傭兵を見ていたため、タルヴォの実力を瞬時に理解した。そして、タルヴォの巨大な闘気にレイでは勝ち目がないと焦る。
(父上ほどでないにせよ、ガレス殿やゼンガ殿に匹敵する戦士であることは間違いない。魔法を使えるといっても間合いが近ければ瞬時で斬り殺されてしまう……)
彼女の見立てではレベル八十を超える一番隊の隊長ガレス・エイリングや二番隊の隊長ゼンガ・オルミガに匹敵する実力の持ち主だった。
彼女の横にいるステラはタルヴォに殺気がないことに気づき、そのことを告げる。
「タルヴォという方に殺気が見えません。どういうことでしょうか?」
その言葉にアシュレイは驚くが、もう一度タルヴォをしっかりと見つめた。
「確かに闘気は凄いが殺気はないな。ウノ殿、あなたはどう思われるか」
「私にも殺気は見えません。ですが、あの大鬼族は危険です。我ら五人が同時に掛かっても倒せるかどうか。あの斧であれば身代わりになることすら難しいかと」
レベル的にはウノたちの方が高いが、彼らの攻撃はスピードを生かした手数で勝負するものであり、オーガ並みの耐久力を持つ大鬼族戦士を一撃で倒すことは難しい。更に敵の武器は大木すら薙ぎ倒せそうな巨大な斧であり、レイの身代わりに斧を受けたとしても、何の障害もなく二人とも斬り殺されるだろう。
「うむ。しかし、殺気がないというのは解せん。何か思惑があるのか?」
ステラとウノという手練が殺気を感じないと言ったことで、アシュレイの焦りは僅かに弱まった。しかし、相手の思惑が読めず困惑していたが、徐々にタルヴォの考えが分かってきた。
「なるほど。あの男は真の長ということか。ならば……」
アシュレイはそう呟くとレイの横に立ち、
「タルヴォ殿の願い、叶えてやれ。ここにはイーリス殿もイオネ殿もいる。全力で相手をしても死ぬことはあるまい」
いつもは止めるアシュレイが積極的に勧めてくることに違和感を覚える。
「あの斧の一撃を受けたら、僕の雪の衣でも防げないよ」
そう言ったところでアシュレイが小声で説明する。
「タルヴォ殿はお前を鬼人族に認めさせるために戦いを挑んでいるのだ。お前の全力を見せれば、納得してくれるはずだ。だから、最初から雷の魔法を使え。あれを受けても大鬼族ならば死にはせん」
自分を認めさせるという言葉に一瞬疑問を感じたが、すぐに彼女の言いたいことを理解した。
(タルヴォさんは僕が本当に“白の魔術師”なのか証明させようとしているってことか。僕は頼りないからな……そうか! フォンスでハミッシュさんと模擬戦をやったときと同じか……いくら大鬼族だといっても雷は不味い気がする……)
レイはアシュレイの説明に納得するものの、雷の魔法を撃つことに躊躇いを感じていた。
「一騎打ちが恐ろしいなら束になって掛かってこい。儂はそれでも構わん」
挑発というには悪意を感じさせない口調だった。
レイは覚悟を決め、前に出ていく。
タルヴォの闘気に恐れることなく前に出たことで、鬼人族たちは目を見開いた。
「この場所は狭いのですね。魔術師としての僕と戦いたいなら、もう少し広い場所でやりませんか」
そう言って無理やり笑みを作る。
「よかろう。ここに来る途中、三十メルトほどの草むらがあった。その場でどうだ?」
そう言った後、ルナに向かって、「御子様には申し訳ないが、今少し時間を頂きたい」と言って頭を下げる。
ルナはこの展開についていけず、「どうして戦う必要があるのですか。私の言葉は信用できないのですか」と訴える。
「御子様は我が息子オルヴォの最後をご覧になられたのか? この男が正々堂々息子と一騎打ちをしたと断言されるのか」
「そ、それは……でも、レイは……」と言いかけたところで、レイが遮る。
「この人たちは戦士なんだ。だから、戦ってみないと本物かどうか納得できないんだと思う」
そう言って肩を竦め、「僕も必要ないと思うんだけど、アッシュは必要だと思っているみたいだしね」と笑った。
彼の気負いのない姿にルナは頷くことしかできなかった。
百五十メルトほど南に下ったところに直径三十メルトほどの広場があった。ところどころに倒木があるが、枯れ草は雪で倒れたのか、足場が悪いという印象はなかった。
アシュレイがウノたちに命じて灯りの魔道具を配置していく。
その周囲に鬼人族の主だった者たちが取り囲み、即席の闘技場ができ上がった。
二人は二十メルトほど離れて対峙する。
「本当に先に魔法を撃ってもいいんですね?」
「二言はない」とタルヴォが答えると、レイはゆっくりと呪文を唱えていく。
「世のすべての光を司りし光の神よ。御身の眷属、光の精霊の聖なる力を集め、雷帝の槍、雷を我に与えたまえ……」
真夜中の森の中に光の精霊の力が満ちていく。彼を中心に光の粒子が集まり、更にそれを取り囲むように闇の精霊が踊る。森の中に幻想的な光景が広がっていく。
「……我はその代償として、御身に我が命の力を捧げん。我が敵を焼き尽くせ! 雷!」
次の瞬間、広場全体が真っ白に発光し、バンという轟音が空気を揺らす。
レイたち以外、何が起こったか分からない状態で、再び広場は灯りの魔道具の淡い光に包まれる。
「タルヴォ様!」というイェスペリの声が響き、全員がタルヴォの立っていた場所に目を向けた。
そこには片膝を突き、巨大な斧で体重を支えているタルヴォの姿があった。
「大丈夫ですか」とレイが心配そうな声音で聞く。しかし、タルヴォは軽く頭を振るとすくっと立ち上がった。
「この程度でオルヴォが敗れたとは思えん。全力で来いといったはずだが、この程度なのか!」
そう叫ぶと斧を振り上げ、レイに向かって突進していく。
(出力を落としたけど、まさか立ち上がれるなんて……)
レイは大鬼族の驚異的な耐久力に驚き、対応が遅れる。
気づいた時には目の前にタルヴォの巨体が迫っており、慌てて愛槍白い角を構える。
「遅い!」という一喝と共に刃渡り五十cm、重さ二十kgの両刃の斧が振り下ろされる。
レイは紙一重でそれを避け、槍を繰り出そうとしたが、本能が危険だと叫び、横に跳んだ。
その直後、彼のいた場所を横薙ぎに払うように巨大な斧が通過していく。タルヴォは振り下ろした斧をその膂力で強引に引き戻し、そのまま横に払っていたのだ。
その攻撃には一切の手加減はなく、気を抜けば身体を両断される恐れがあった。
(完全に殺す気でいる。雰囲気が変わった。僕が手加減したことが気に入らなかったのか?)
その間にも暴風のように斧が襲い掛かっていく。しかし、その攻撃は思ったほど正確ではなかった。
(ハミッシュさんやゼンガさんの攻撃はもっと正確だった。もしかしたら、雷の魔法で体のどこかに異常が出ているのかも……どっちにしても、当たれば大怪我じゃ済まない。何とかして打開しないと……)
レイの予想はおおよそ当たっていた。
タルヴォはレイの手加減に怒っていた。更に雷の魔法を斧で受けたため、両腕が痺れ、彼本来の動きには程遠い攻撃しか繰り出せていない。
彼は当初、レイの魔法で死ぬか、瀕死の状態になる覚悟をしていた。それは鬼人族に“白の魔術師”という存在を認めさせるためで、月の御子であるルナにあえて逆らい、心の底では納得していない同胞たちの代弁をした上で、レイに討たれるつもりだったのだ。
タルヴォほどの戦士が魔法で倒されれば、力こそすべてという鬼人族たちは認めるしかない。彼はそれを狙ったのだが、レイが手加減をしたため、すべてが無に帰してしまった。
「貴様程度の腕で御子様を守れるはずがない! 小賢しい知恵だけで邪神には勝てぬ。貴様の覚悟を見せてみろ!」
タルヴォはボロボロになり感覚が麻痺した腕で、無茶苦茶に斧を振り回していった。
レイはタルヴォの叫びで彼の考えを理解した。しかし、その考えはレイにとっては認めたくないものだった。
「自分が犠牲になれば上手くいくなんて自分勝手なことを考えるな! ルナにはあなたが必要なんだ! なぜ彼女の信頼を裏切るような真似をした! 彼女が傷付くと思わなかったのか!」
レイは怒りに任せて槍を繰り出していく。その攻撃は急所を正確に狙うもので、一切手加減していない。彼もタルヴォの行いに怒りを覚え、我を忘れていたのだ。
十分ほど激しい攻防が続いた。
タルヴォは雷の魔法で痛めた両腕がいうことを聞かず、徐々に攻撃が鈍っていく。
一方、レイは激しい攻防に肉体的にも精神的にも疲弊し、荒い息を吐き出しながら攻撃を続けていた。
しかし、両者とも当初感じていた怒りはほとんどなくなり、相手がルナのことを考えていることに共感を覚え始めていた。
唐突にタルヴォが動きを止めた。レイもそれに合わせて同じように槍を引く。
「次の一撃にすべてを賭ける。お前もそのつもりで掛かってこい!」
タルヴォはそれだけ言うと大きく斧を振りかぶった。
レイはそれに応えることなく、静かに槍を構え、穂先に魔力を集めていった。
アルブムコルヌの穂先が白く輝き始めた時、タルヴォが渾身の力を込めて斧を振り下ろす。
レイはそれを避けることなく迎え撃つ。
「レイ様!」というステラの声と「聖君!」というルナの声が広場に響く。
タルヴォの斧とアルブムコルヌがぶつかる瞬間、光が大きくなり、直視できなくなった。
ドンという音が広場に木霊する。
光が収まると、二人の戦士は立ったままの状態で対峙していたが、タルヴォの斧は柄だけになり、刃部分はレイの後ろに突き刺さっていた。
「見事だ、白の魔術師殿」とだけ言うと、タルヴォはゆっくりと倒れていった。彼の右肩にはアルブムコルヌが突き刺さっていたのだ。
レイは緊張が解けたことから思わず片膝を突いてしまったが、すぐに槍を引き抜き、タルヴォに治癒魔法を掛けていく。
傷自体は深いものの、致命傷となる位置ではなく、彼の魔法ですぐに全治する。
その間、呆然としていた大鬼族の戦士たちが「タルヴォ様!」と叫びながら、一斉に駆け寄ってきた。
イェスペリは「タルヴォ様は」とレイに詰め寄るが、傷が癒えたタルヴォがそれを制する。
「問題ない」と言い、レイに向かって頭を下げる。
「白の魔術師殿、いや、レイ殿。貴殿はまさに一騎当千の戦士だ。貴殿なら我が息子オルヴォを倒し、絶望の荒野を越えてもおかしくはない」
レイはそれに応えることなく、タルヴォの目をしっかりと見つめた。
「あなたがやろうとしたことは間違っています。僕を認めさせようとしてくれたことには感謝しますが、あなた方が最も考えなければいけないのはルナのことです。彼女の信頼を裏切るようなことは二度としないでください」
レイはルナの心が不安定であることに危惧を抱いていたのだ。
ヴァニタスの影響に加え、ルーベルナで起きた事件で口では共感しているが、本当は理解されていないと思い込んでしまったからだ。
「それについてはどのような罰でも甘んじて受けるつもりだ」
レイはその言葉に更に怒りを爆発させる。
「何も分かっていない! ルナはそんなことを望んじゃいないんだ! 彼女があなたに罰を与えたいと思うわけがない! どうして分からないんだ!」
彼の剣幕にタルヴォは困惑する。
「どうすればよいのだ……」
その言葉にアシュレイが答えた。
「ルナを一人の人間として見てやってほしい。彼女は孤独なのだ。今でこそレイがいるが、神のように崇められる存在としてではなく、信頼できる仲間として接してやってほしい」
レイとアシュレイの言葉にルナは涙を浮かべていた。
(この二人は分かってくれた。私が孤独だということを……私もようやく自分が何に怯えていたか分かったわ。そう、私は一人になるのが怖かった。だから、素直になれなかった……)
ルナの横でイオネが跪いて涙を流していた。
彼女は自分がなすべきことをレイに教えられたと感じていた。
(御子様、いいえ、ルナ様は僕がほしいわけではなかった。信頼しあえる仲間がほしかった……私がなれるかは分からない。でも、努力はしてみるつもり……)
精霊たちが舞い、彼らを祝福していた。




