第六十三話「ロウニ峠」
三月三日午後七時頃。
レイたちは月魔族の都ルーベルナの入口に当たるロウニ峠にいた。
その日の昼にルーベルナで起きた騒動によって、ルナの心は未だ打ちひしがれている。一緒に馬車に乗っていたイーリスは必死に彼女を慰めたが、彼女の心は沈んだままで沈黙していた。
励ましながらも、イーリスはルナが落ち込んでいる理由の本質を理解していなかった。
(下級の衛士が信じられない失態をして責任を取っただけ。これほどまでに悲しむのはなぜなのかしら? 西側の国でも王族に無礼を働けば処罰されるのは当たり前のことなのに……)
彼女にしてみれば、国の支配者以上の存在である月の御子に無礼を働いたのだから、命をもって償うことは当たり前という認識だ。
人族の治癒師イオネはルナに話しかけることができずにいた。権力者であるイーリスが常に話しかけているということもあるが、自分は月の御子の付き人に相応しくないのではないかと思い始めていたためだ。
彼女は衛士たちが自害したという話を聞き、表情には出さなかったものの内心では溜飲を下げていた。しかし、ルナはその考えを否定するかのように落ち込んでいる。
(衛士の詰所ではお役に立てなかった……それに御子様の御心の内が私には分からない。そのような者がおそばにいてもご迷惑を掛けるだけ……)
一緒に馬車に乗り込んでいたレイはイーリスとともに何度か慰めているが、自分自身の失敗であると自責の念に押し潰されそうになっている。それでもこのタイミングを逃したら、虚無神の侵攻を許すことになると危機感を抱いている。
(今を逃せば大変なことになる。逆上した鬼人族をルーベルナに近づけたら、何を言っても月の御子を取り戻そうと戦端を開くはず。だから、ここで鬼人族を説得して、ザレシェに連れ戻さないといけない。ルナには悪いけど、ここでがんばってもらわないと……)
ルナはイーリスとレイの慰めの言葉を聞きながら、どこか冷めていた。
彼女自身、ヴァニタスによって傷つけられた精神が回復しきっていないところに、衛士たちが自害したという情報が入り落ち込んでいたが、そのショックが強すぎ、どこか現実感がなかったのだ。
(私のせいで五人もの人が死んだ。でも、それを言ったら、ペリクリトルの戦いも私のせいだし、ティセク村が全滅したのも私のせい……やっぱり私は不幸を呼ぶのかな。これもヴァニタスが狙っていることなら、私がいなくなるのがこの世界にとってはいいことのように感じてきたわ……)
そんな彼女の心に一番届いたのはアシュレイの言葉だった。
「“自分がいなければ”などと考えていないか?」
「えっ?」
突然、心中を言い当てられ、ルナは戸惑う。
「お前という存在が神々にとって必要だということは確かだろう。イーリス殿やヴァルマ殿がそれを慮ったことが今回の原因だ……」
ルナはどう答えていいのか迷い、口を開くことができない。
「……更にヴァニタスに狙われていることも確かだ。それによって戦いが引き起こされたこともあるだろう。実際、ペリクリトルやミリース谷は月の御子を奪うための戦いだった……」
ルナには彼女が何を言いたいのか分からなかった。そのため、疑問を口にしようとした。しかし、アシュレイはそれを無視して話を続けていく。
「……だから、お前という存在がいなくなればすべてよくなると思いたくなるのは分からないでもない。だが、本当にそうなのか? 言い方は悪いが、今、お前が命を絶ったとして死んだ者たちが生き返るわけではあるまい。それにこの先のことはどうするのだ? ジルソールに行けば、世界の崩壊を防げるかもしれぬ。そこまで分かっていて、それを投げ出すのか。ここで死ねば楽になる。確かにそうだろう。だが、残された者はどうすればいい? お前が死ねば、多くの者が更に不幸になるのだ。そのことをよく考えてみるのだな」
そう言ってルナの答えを待たずに静かに目を瞑った。
ルナは彼女の言葉に怒りを覚えた。
「私は望んで“月の御子”になったわけじゃない。神様が勝手に私を呼んで、そんな役割を押し付けたのよ。それでも見知らぬ人のために生きろというの!」
その怒りの言葉にアシュレイは静かに目を開く。
「皆が望み通りに生きているわけではない。私もそうだ。ハミッシュ・マーカットの一人娘に生まれたことを何度も恨んだことがある……」
ルナはアシュレイが発した言葉に一瞬怒りが消えた。彼女の方が自分より遥かに強い女性だと思っていたためだ。
「……確かにお前は同情に値する。私もそう思う。だから死を選ぶというなら、それもいいだろう。だが、お前の死を悲しむ者がいる。お前を助けるために命を懸けた者がいる。そのことを忘れなければそれでいい」
ルナはアシュレイの言葉にどうしていいのか分からなくなった。
(聖君が命を掛けて私を守ろうとしてくれた。それは事実……でも、だから私が苦しい思いをしなくてはいけないというのはおかしいわ。だって、私が頼んだわけじゃないのだから……)
そして、心配そうに見ているレイと、どこか憮然とした感じで目を瞑るアシュレイを交互に見た。
(聖君は私のことを心配してくれている。詳しくは聞いていないけど、ペリクリトルからここまで追いかけてくるのは大変だったはず。だから、アシュレイさんは怒っている。自分の愛する人が命を賭けて世界を守ろうとしているのに、そのカギとなる私が不甲斐ないから……でも、私はただの高校生だったのよ。それに何をやっても上手くいかなかったし……だから無理よ……)
ルナは自ら命を絶った衛士たちのことに心の整理をつけることができない。
(五人もの人が死んでしまった……私という存在がいなければ、あの人たちは今も幸せに生きていたはず……愛する人もいただろうし、家族だって……でも、どうしたらいいのか分からない……)
彼女の瞳から涙が零れる。
「アッシュの言ったことは気にしなくていい。今回のことは僕が悪かったんだ。もう少し気を引き締めておけば、こんなことは起きなかった。だから責任は僕にある」
必死に慰めようとする彼の表情にルナの心は僅かに暖かくなった。
(あの人も同じように言っていたわ。私が少しでも落ち込むと自分の責任だと……私は子供ね。日本での生活も入れたら三十年以上生きているのに……)
昔のことを思い出したルナはレイに小さく頭を下げる。
「ありがとう。でも、あなたの責任ではないわ。今回のことは誰か一人の責任ということではないと思う……落ち込んでいるのは事実だし、まだ心の整理ができないけど、がんばってみるわ」
そして、アシュレイに向かって頭を下げる。
「ありがとうございます。アシュレイさん。私はあなたのように強くはないけど、自分がすべきことを投げ捨てるようなことはしません。とりあえず今は……あなたたちが私を助けてくれた。その恩を返すまでは私に与えられた使命というものに向き合ってみます」
アシュレイはゆっくりと目を開ける。
「私に頭を下げる必要はないぞ。私はレイがやることを手伝っているだけだからな。なあ、ステラ?」
そう言ってステラに話を振る。
「は、はい」
突然話を振られ、ステラは答えに窮する。
彼女はルナがどうして落ち込んでいるのか理解できず、レイに心配を掛け続けていることに怒りすら感じていた。しかし、アシュレイまでルナを励まそうとしていると気づき、自分の至らなさに情けない思いをしていたところだったのだ。
「我々はレイに従っただけだ。あいつがどれほど心配していたかと少しだけ考えてくれれば、それでいい。そうだな、ステラ?」
アシュレイはそう言って、もう一度ステラに話を振る。
ここに来てアシュレイが何を意図しているのか、ステラはようやく理解できた。
(アシュレイ様は私がルナさんに対して怒っていると気づいておられる。でも、それはレイ様のお考えには合わない。だから、ルナさんを励ましながら私にも気を使ってくださった……すべてレイ様のため。本当にこの方には敵わない……)
ステラはアシュレイに「はい」と答えると、ルナに向き直る。
「レイ様はあなたを助けるために何度も無茶をしました。これから先もあなたの使命を助けるために無茶をされるでしょう。そういう方があなたの傍にいらっしゃることを忘れないでほしいですね」
ルナは二人の女性がレイのことを心から愛していると改めて思った。
(聖君にはこんなにも愛してくれる人がいる。この三人は強い絆で結ばれているわ。本当に羨ましい……私にはこんなにも想ってくれる人はいない。それは私が人を信頼しなかったから。あの時もそう。私は独占したかっただけ。今思えば、あの人の家族になりたいと思えばなれた気がする。すべては私の弱さが原因……この人たちのように強くなりたい……)
アシュレイとステラを見て、自分も強くならなければと思い始めた。
「少しは元気が出てきたようだね。じゃあ、鬼人族が来る前に腹ごしらえでもしておこうか。イオネさん、持ってきた弁当を出してください」
レイが明るい声でイオネに声を掛ける。アシュレイとステラも表情を明るくし、食事の準備を始めた。
食事を終えた後、レイはルナと鬼人族説得のための最終的な打合せを行った。
「正直に君の気持ちを話すことが一番だと思う。但し、話す順番は重要だけど」
「どういうことかしら?」とルナが首を傾げる。
「鬼人族は怒り狂った状態でここに到着する。彼らが一番心配しているのは君がザレシェに戻ってくるかだよね。だからまず、そのことを伝えて、彼らの怒りを鎮めないといけないんだ」
「そうね。最初に攫われた時のことを話したら、中鬼族は私の話を無視してルーベルナに向かっていきかねないわ」
そう言ってくすりと笑う。レイはルナに笑みが戻ったことで安堵するものの、表情は変えずに説明を続けた。
「話すべきことの順番は、ザレシェに向かうこと、月魔族がヴァニタスに操られていたこと、自分もヴァニタスに飲み込まれそうになったこと、そして、ヴァニタスから世界を守るために協力してほしいこと。ここまで話せば、鬼人族も落ち着くと思う。その段階で、イーリス殿が謝罪して、僕の話をする」
「ジルソールに行く話はどうするのかしら?」
「成り行き次第だけど、ザレシェに行ってから話してもいいと思う。多分、僕の存在が認められないと、僕が君を西に連れ戻そうと策を弄していると思われてしまうから」
アシュレイがそれに大きく頷く。
「確かにそうだな。お前は鬼人族の天敵、“白の魔術師”なのだ。信頼されることは難しいだろうが、ある程度の信用は勝ち取らねば、西に向かうことを切り出せまい」
「そうね。アシュレイさんの言うことはよく分かるわ。ヴァルマがずっと気にしていたから」
「確かに私たちにとっても“白の魔術師”の名は大きなものでした。それともう一つ懸念があるのですが……」
イーリスがそう言って切り出した。
「私たちが調べた範囲では黒魔族がこの件に関与しているようなのです。長であるサウル・イングヴァルは戦士としても呪術師としても優秀です。そして、彼が魔将を召喚した痕跡を見つけています……」
黒魔族は月魔族と同じ妖魔族に属する種族で、月魔族に匹敵する魔法の才能と中鬼族の戦士に匹敵する身体能力を持っている。千年前までは魔族の指導者的な立場にいたが、大侵攻時に多くが命を落とし、魔族の中で力を失っていた。
一方、魔将は一級相当の魔物であり、一体で城塞都市を全滅させることができるといわれているほど危険な存在だ。特に魔法は光属性以外のすべての属性が使え、その魔力保有量は魔法に特化した種族である月魔族さえ大きく凌駕する。
「レイ殿なら対抗できるかもしれませんが、サウルと魔将が御子様を攫おうと考えているとしたら、非常に危険です」
レイはその話を聞き、イーリスが焦ってルナを拉致したことに納得した。しかし、彼自身は黒魔族や魔将が狙っているとは思っていなかった。
「本当に彼女を狙っているのでしょうか? それだけの存在なら、いくらでも機会はあったはずです。もし、西側にいたのなら、アクィラの麓で簡単に拉致できたでしょうし、東側にいたとしても、レリチェ村からの移動中にいくらでも機会はあったはず。全く気配を感じさせないというのはあまりに不自然だと思います。ヴァニタスの策略の可能性があると思いますが」
レイの話を聞き、イーリスも考え込む。
(確かにサウルが近くにいるという証拠はなかったわ。それに魔将を召喚して随分経っている。私でも御子様の降臨に気づいた。彼が見逃すとは思えない。どこかで何かあったと考える方が自然ね……今までこのことに気づかなかったのはやはりヴァニタスのせいかしら……)
それでも油断することは危険だと警鐘を鳴らす。
「レイ殿のおっしゃりたいことは分かります。ですが、これもヴァニタスが打った手の一つかもしれません。もし、レイ殿が現れなければ、御子様はヴァニタスに飲み込まれていたのですから」
「確かにそうですね。失敗した時のための布石を打っていたと考えた方がいいかもしれません。いずれにせよ、強敵がいるかもしれないと考えておいた方が安全ですし」
レイが納得したことでイーリスは大きく頷く。
「でも、このことは鬼人族に言う必要は無いと思います。これを言ってしまうと、ジルソールへいけなくなりそうですから」
ルナは「そうね。このことは言わないでおくわ」と言ったものの、ペリクリトルで一年ほど前にあった事件のことを考えていた。
(そう言えば一年くらい前に、リッカデールの先で魔神が現れたって噂があったわね。時期的には近いし、もしかしたら、その魔神が魔将だったのかも……ペリクリトルの冒険者たちが退治したって聞いたけど、死体が消えてしまって、結局本当に魔神だったのかって話になった気がするわ。あの頃はそんなことを気にする精神状態になかったからあまり覚えていないけど……)
ルナはその話をレイたちに話した。
「御子様のお言葉ですが、魔将を冒険者が倒したというのは信じられません。レイ殿くらいの魔術師であれば別ですが、それほどの魔術師がいるとは思えませんから」
イーリスがそう言って遠慮気味に否定する。
ルナは憧憬を感じさせる表情を浮かべて、更にその言葉を否定する。
「そうでもないわ。あの頃、あの街にはレイに匹敵する魔術師が三人はいたもの。本当に凄腕の冒険者だったわ」
「私も聞いたことがある。確か、“真闇の魔剣士”と呼ばれる凄腕の魔道剣術士が率いるパーティがいたはずだ。私と同じくらいの歳だが、十代半ばの頃に一級相当のアンデッドを倒しているという話だ。彼らならば黒魔族と魔将であっても遅れを取ることはないだろう」
アシュレイは護衛任務で何度かペリクリトルを訪れており、その凄腕冒険者の噂を聞いていた。同じ宿を利用していたものの、森に篭ることが多い冒険者と短期間で街を去る傭兵ということで面識はなかった。
「“真闇の魔剣士”って凄い二つ名だね」とレイが笑うと、ルナは「そうね」といい、昔のことを思い出す。
(この名を言われると物凄く嫌そうな顔をしていたわ。懐かしい……今どうしているのかしら?)
ルナが思い出に浸っている間にレイが話を締めくくる。
「いずれにしても油断をしないということだね。今回のこともそうだけど、どこに敵がいるか分からないと思っておくべきだ」
その場にいる全員が大きく頷いた。
何やら聞き覚えのある二つ名が出てきました(笑)。
黒魔族のサウルと魔将の件については今まで触れなかったことが不自然だったので、前々話にルーベルナの警備を強化した理由として、少し加筆しています。
ストーリーには影響しませんが、気になる方は第六十一話「誤算」をご覧ください。




