第五十一話「キーラの誤解」
月の御子ルナは虚無神の影響を排することに成功した。
闇の神の祭祀長である月の巫女イーリス・ノルティアは神の子であり自分たちを導くと伝えられている月の御子が無事だったことに安堵する。
彼女はこの事態を招いた責任を自覚していた。
「ご無事で安堵いたしました。しかしながら、この度のことは私の失態に始まったもの。御子様のお命を危うくした罪、死をもってしても償いきれるものではございません」
そう言って深々と頭を下げた。
彼女の腹心ヴァルマ・ニスカも同じように頭を下げ、更に月魔族や翼魔族の神官たちも慌てて頭を下げる。
ルナは寝台の上に横たわったままだったが、ゆっくりと身体を起こすと、
「わだかまりがないと言えば嘘になります。でも、あの存在を前に人間は無力です。例えノクティスの祭祀長、月の巫女であったとしても……ですから、罪は問いません。今はもっと大事なことがあるはずです」
ルナは柔和な表情でそう伝えた。
イーリスは許すというルナに「しかし……」と反論しようとしたが、ルナが話を続けたため口を噤む。
「鬼人族を止めなければ、また悲しみを生み出すことになります。私を鬼人族のもとに連れていってください」
ルナの言葉は決して強いものではなかった。しかし、有無を言わせぬ威厳のようなものがあった。イーリスやヴァルマはその言葉に深く頭を下げることしかできない。
レイも同じようにルナに威厳を感じていた。
(月宮さんの雰囲気が物凄く変わった。ペリクリトルであった時は高校時代とそんなに変わらなかったのに、今は“神の使い”と言われれば素直に頷ける……でも、今は無理だ。ヴァニタスの影響が完全に消えたかも分かっていないし……)
レイは彼女の体調を気遣い、翌朝まで休むことを提案する。
「今は休むべきだ。鬼人族が体力自慢でもここに来るにはあと二日は掛かるんだ。睡眠を取ってきちんと食事をしてからでも充分に間に合うはずだよ」
ヴァルマたちから得た情報で鬼人族が到着するのは早くても二日後であると考えていた。
レイの言葉にルナは素直に頷く。先ほどまでの威厳は消え、柔らかな笑みを浮かべた。
「そうね。私もそうだけど、皆さんも疲れているはず……無理を言ってごめんなさい」
それだけ言うと起こしていた身体をゆっくりと倒していった。
イーリスは疲れた身体に鞭を打ち、神官たちに指示を与えていく。
「御子様をお部屋に。アシュレイ殿、ステラ殿は御子様のお傍に……翼魔族の呪術師と翼魔を直ちに街道に向かわせなさい。今、鬼人族がどこにいるか確認しなければなりません……明日の朝、鬼人族対策の会議を行います。主要な役職の者に明日の朝一番で連絡を……」
その姿にレイは彼女が支配者であるということを改めて思った。
(さすがはソキウスの女王だ。馬車の中で見た弱々しさが全くない)
レイはルナに「明日、また会おう」と言って壁際に立つアシュレイたちのところに向かった。
「大丈夫だと思うけど、ルナのことを頼んだよ」
そう言うとステラが小声で、
「ここは敵地です。レイ様がお一人になるのは危険です」
「大丈夫だよ。イーリス殿もヴァルマ殿も僕に敵対する気はないから。それにウノさんたちがいるしね」
ステラはまだ何か言いたげな表情を浮かべていたが、アシュレイが「私たちに任せておけ」と言ったため、それ以上何も言わなかった。
レイはイーリスたちに部屋に戻ることを告げると、ゆっくりと聖堂を出ていった。
残されたアシュレイは不満気なステラに、
「ルナを守るには我々の方がよいのだ。今はレイを信じよう」と言ってステラの肩に手を置いた。
ステラは「はい」と頷くものの、
「レイ様と連絡を取れるようにしておくべきです」
「そうだな。ウノ殿に渡りをつけてくれないか。彼らならこの神殿でも自由に動けるだろう」
ステラはウノが潜んでいそうな柱の陰に視線を送り、獣人部隊が使う符丁で連絡を取りたいことを伝える。
聖堂の外に出たレイは控えていた人族の小間使いの女性と共に、自分に与えられた部屋に戻っていく。案内されながら、周囲の気配を探っていた。
(さすがに監視されているか。僕が何となく分かるくらいだから、大した腕じゃないな。まあ、ウノさんたちくらいの腕だと、僕には全く分からないから監視されていても分からないんだけど……さて、イーリス殿がきちんと部下を把握してくれればいいんだけど……)
自分を見張っている者はイーリスやヴァルマの指示ではないと考えていた。神官か、戦闘部隊の誰かが独断で見張りをつけたのだと思っているが、その意図まで正確には分かっていない。
(人族を蔑視している感じだからな。それが“巫女”から特別待遇を受けていれば、何者なのか探るために監視を付けたくなってもおかしくない。ただそれがイーリス殿やヴァルマ殿に報告されればいいんだけど……鬼人族の密偵だと疑われたら厄介だな……)
彼は今回のイーリスの行動に疑問を持つ者がいてもおかしくないと考えていた。それまでは鬼人族から強引に月の御子を奪い戦争も辞さないとしていたのに、突然それがヴァニタスの罠だったと言い出せば、プライドが高い月魔族や翼魔族の呪術師が反感を持ってもおかしくない。
(神官たちは渋々って感じで従っていただけで、僕に対する視線は決して好意的じゃなかった。鬼人族との話し合いの前に変なトラブルに巻き込まれないようにしないと時間がなくなってしまうかもしれない……)
そんなことを考えているうちに与えられた部屋に到着した。
「トイレはこの部屋にありますから、勝手に外に出ないように。何かあればそのベルで呼んでください。それでは失礼します」
丁寧な言葉ではあったが、小間使いは露骨に警戒していた。更に彼女が部屋を出た後、扉の外に人の気配がするようになった。彼の世話をするための者なのだろうが、監視を兼ねていることは間違いない。
僅かに苦笑するが、すぐに天井付近に向けて小さな声で「誰かいますか」と呼んだ。
すぐに獣人のディエスが天井に現れ、物音一つ立てずに床に舞い降りる。
「お呼びでしょうか」
その声は聞こえるか聞こえないかのギリギリのものだった。
「アッシュたちの場所を把握しておいてください。それから、僕を監視していた者が誰のところに行くかも確認をお願いします」
ディエスは「御意」と言って天井に消えていった。
相変わらず忍者みたいだと思いながら、ベッドに横になった。
ヴァルマはルナを看病するつもりで同行しようとしたが、イーリスから「明日からのことがあるわ。あなたも休みなさい。これは命令よ」と言われ、渋々自室に戻っていく。その足取りは重かった。
ルナを救うという使命感が彼女を支えていたが、ルナが無事に回復したことで安堵し、今までの疲れがどっと襲ってきたのだ。
(休まないと……明日も忙しくなるわ。御子様のことを神殿の者たちに説明しなければならないし、鬼人族とのこともあるわ。それにレイ殿のことも……神官たちが勝手に動かなければいいけど……駄目ね。疲れすぎて考えがまとまらないわ……)
そう思いながらも部下であり、ルナを拉致した時の唯一の生き残りであるキーラ・ライヴィオにだけはルナが無事だったことを伝えに行こうとした。
キーラの部屋に行き、「晩くにごめんなさい」と言って中に入る。
キーラは突然のヴァルマの訪問に驚いていた。
「御子様はご無事よ。元の御子様のまま。あなたにだけは伝えておこうと思って……」
「ありがとうございます。御子様がご無事でこれほど嬉しいことはございません」
そう答えるものの、月魔族のヴァルマが翼魔族の自分のところに来ることだけでも異常だが、更に御子が無事だったことを一番に知らせに来たことに違和感を抱く。
「何か問題でもあるのでしょうか?」と疑問を口にした。
「ええ、鬼人族のことが心配。彼らが怒り狂っていることは火を見るより明らかだから。このままでは戦になるわ」
「確かに」とキーラは頷き、
「ならば、ロウニ峠を封鎖してはいかがでしょうか。呪術師と翼魔を総動員させれば可能かと思います。それで時間は稼げるのではないでしょうか」
ヴァルマは頭を振った。
「それは駄目ね。鬼人族の怒りに油を注ぐだけ。御子様に説得していただくのが一番なんだけど」
キーラはその言葉に強く反対する。
「それはなりません! 怒り狂った鬼人族は理性を失っております。怒りに身を任せている鬼人族はオーガやオークと同じ。そのような者たちの前に御子様をお連れすれば、話を聞く前にザレシェに連れ戻すだけになります! 我々があれほどの犠牲を払ってお越しいただいた御子様を奪われてしまいます!」
ヴァルマは疲労で判断力が鈍っていた。彼女はキーラの言葉が正しいと感じた。
「そうね。明日の朝、イーリス様にそのことを伝えるわ」
そう言った後、部屋を出ようとした。しかし、扉の前で立ち止まり、
「勝手に動かないように。御子様の、そして、イーリス様のご意思は鬼人族と和解することだから」
「分かっております」とキーラが答えると、ヴァルマはそのまま部屋を出ていった。
残されたキーラはイーリスとヴァルマの一連の行動に困惑していた。
(御子様をお救いするためとはいえ、西の者を神殿に、それも聖堂に入る許可を与え、秘儀まで見せている。それも私たちの邪魔をし続けた白の魔術師に。報告を聞いただけだけど、あの男は異常に頭が切れる。そんな男にソキウスの最高機密を見せてしまっていいのかしら……今までのイーリス様、ヴァルマ様ならありえないことだわ……)
彼女はレイがルナを助けるため、真摯に祈り続けたことを知らない。仮に知ったとしても、実際に見ていない彼女には、部下を次々と撃ち落し圧倒的な魔法の力を見せ付けた彼は“白の魔術師”、つまり強力な敵という認識でしかない。
(御子様が回復されたのなら、白の魔術師は不要だわ……いいえ、鬼人族と和解するのに大きな障害になる。何といっても千五百人もの西方派遣軍を壊滅させた男なのだから。でも、どうしたらいいの……)
キーラは寝台に横になり、打開策を考えるが、よい案が浮かばない。
その時、彼女の妹である神官のマルヤーナが見舞いにやってきた。マルヤーナもルナの回復の儀式に参加しており疲れていたが、実姉の容態が気になり、見舞いにやってきたのだ。
「大丈夫、姉さん?」
「ええ。何とかね。あなたの方も疲れているみたいだけど大丈夫なの?」
マルヤーナは小さく頷き、
「確かに疲れているけど、イーリス様に比べたら大したことはないわ。あのお体で四時間以上も儀式を行い続けたのだから」
「そう言えば人族の男が一緒にいたはずだけど、様子はどうだったの?」
何気なくレイのことを聞いたが、マルヤーナから帰ってきた言葉は意外にも賞賛だった。
「あの男は凄いわね。最初は人族だから大したことがないって思っていたけど、もしかしたらヴァルマ様に匹敵する使い手かもしれない。イーリス様もよい部下を手に入れたと思うわ」
マルヤーナはレイのことをヴァルマが西で見つけた協力者だと思い込んでいた。そのため、普段なら人族のことなど一顧だにしないのに、儀式の際に見せたレイの力を賞賛する。
キーラは無邪気にイーリスの言葉を信じる妹に危惧を抱いた。しかし、イーリスからレイのことを口止めされ、更にヴァルマからも勝手に動かないよう釘を刺されたため、どうすべきか悩む。
(完全にイーリス様の嘘を信じているわ。神官だから仕方がないのかもしれないけど……でも、あの男の正体を知らせるわけにはいかないし、どうしたらいいのだろう……)
そこで神官たちがレイのことをどう考えているのか探ろうとした。
「あの男に監視は付けているんでしょ」
「もちろんよ。イーリス様の術が簡単に破られるとは思わないけど、虚無神のこともあったし、何が起きるか分からないんだから」
キーラは満足げに頷き、
「そうね。それがいいわ。あの男は油断ならないから。しっかりと監視しておいて」
キーラの言葉にマルヤーナは首を傾げる。彼女には真摯に祈るレイしか知らず、彼が危険な人物とはとても思えなかったからだ。
「そうなの? 私には無害な男にしか見えなかったけど。まあ、あの衣装にはちょっと驚かされたけどね」
そう言ってレイが着ていた騎士服の説明をする。キーラ自身、レイの情報はほとんど知らされておらず、マルヤーナの情報から光の神殿の関係者であると思い込んだ。
マルヤーナはイーリスやヴァルマからレイが光の神殿の関係者でないことを聞いていたが、そのことをキーラに告げなかった。
「やはり光の神殿の……」
その呟きはマルヤーナに届かなかった。そのため、キーラの誤解を解くことはなかった。




