第五十話「神々の力」
三月二日に日付が変わった頃。
ルーベルナの闇の大神殿では、未だルナの魂を修復する儀式が続けられている。
聖堂には神官以外の者にも神々が見守っていると感じさせるほど、神聖な気が満ちていた。
儀式開始から既に四時間が過ぎ、月魔族や翼魔族の神官は何度も交代しているが、儀式の中心人物である月の巫女、イーリス・ノルティアは休むことなく神々に祈り続けていた。また、彼女の部下であるヴァルマ・ニスカも休むことなく、イーリスの傍らで詠唱を続けている。
もう一人休むことなく、ルナを助けようとしている人物がいた。それは彼女の傍らで声を掛け続けるレイだ。
彼は神々への祈りを心の中で行いながら、日本語で思いつく限りの話を続けていた。高校時代の他愛のない話、ペリクリトルでの出来事などを話していく。
『……ペリクリトルの荒鷲の巣のご飯は美味しかったよね。君は昔から使っていたみたいだけど、いつから使っていたんだい。アッシュも昔使っていたそうだから、どこかで会っていたかもね……』
彼女の様子を窺うと僅かに反応を見せる。
(高校の話より、ペリクリトルの話の方が反応がある気がする……ライアンに聞いた話だと、二年前からペリクリトルにいたらしいけど、詳しい話を聞けていなかったな……)
自分の正体を明かした後、彼女が攫われるまで十日ほどしかなかった。更に彼女たちがリッカデールに派遣され、彼自身もペリクリトルの防衛準備で忙しかったため、ごく短い時間しか話せていない。
『君がこの世界で過ごした話を聞きたいんだ。君を助けた冒険者のこととか、助けられた後に住んでいたところの話とか……』
その言葉にルナの腕がピクリと動いた。更に僅かに口が開く。
『……さん……逢いたい……』
『ルナ! 戻ってくるんだ! 君が誰に会いたいのか、教えてくれ! ルナ!』
虚無神の力の影響を受けてから、初めてルナが言葉を発した。レイはこの機に彼女の意識を引き出そうと必死に叫んだ。
『ルナ! 君を待っている人がいるんだ! 頼む。戻ってくれ!……』
レイが突然叫んだことで、神官たちの詠唱が止まった。しかし、イーリスとヴァルマは祈りを続けており、神官たちも慌てて詠唱を再開した。
アシュレイは神官たちの詠唱が心地良く響く聖堂の隅で、レイを見守っていた。イーリスらの祈りで暖かい物が心の中に満ちていたが、彼がルナの手を取り必死に祈る姿に僅かに嫉妬心がもたげてくる。
(学院の同窓とは聞いているが、ただの同郷の者ではなかったのか? いや、憧れの相手だったと言っていたな……今も恋心を抱いているのか……)
その気持ちは横にいるステラに伝わった。
「レイ様は大丈夫です。ルナさんを助けるために必死になっているだけです」
突然話しかけられ驚くが、納得した表情は見せない。彼女の不信の表情を見たステラはレイを見つめながら話を続けていく。
「私の前の旦那様、デオダード様がお亡くなりになった時のことを覚えておいでですか? あの方はほんの数日一緒におられただけのデオダード様を必死に治そうとなさいました。そして、亡くなった時には家族のように悲しまれました。ですから、ルナさんのことも心配は要りません。私は信じています」
最後は自分に言い聞かせるような感じだったが、アシュレイはステラの言葉に自らを恥じた。
(私は何と女々しいのだろう。私が信じなくてどうするのだ。ステラにそれを指摘されるとは……)
そして笑みを浮かべ、
「ああ、そうだな。確かにレイは誰でも必死に助けようとする。そのことは理解していたつもりだったのだが……ありがとう。もう少しで嫌な女になるところだった」
そう言って小さく頭を下げた。
ステラはそれに視線を小さく下げることで応える。しかし、ステラの心の中では別の感情が渦巻いていた。
(私は嫉妬を見せることができるアシュレイ様が羨ましい。でも、お二人の間に入ることはできない……)
アシュレイはステラの気持ちに気づくことなく、レイを見つめていた。
イーリスは神々への祈りを続けながらも、自らが限界に近づいていることに焦りを覚えていた。
(魔力が限界……これ以上は無理……)
その時、傍らで詠唱を続けるヴァルマの姿が目に入る。
(ヴァルマは魔力を使い切っていた。あの短時間ではほとんど回復していない。それなのに御子様を救うために……私も泣き言を言っている暇はない。今回の原因を作ったのは私なのだから。魔力を全て使いきって命を失ったとしても、御子様をお救いできるなら本望よ……)
再び覚悟を決めた彼女は真摯な祈りを続けていく。
(闇の神よ! 我が命を捧げてお願いいたします。御子様をお救いください……我が命では見合わぬかもしれません……御子様は我が不明によりこのようなことになりました。いかなる罰でも謹んでお受けいたします。何卒、御子様をお救いください……)
彼女の祈りが神々に通じたのか、ルナが僅かに声を出した。イーリスはそれに気づくも、祈りを中断させることなく、更に強く祈りを捧げていく。
彼女の耳にはレイが発する日本語の言葉が聞こえていたが、意味は分からないものの、ルナの回復がこの瞬間に掛かっていることを感じていた。
(神々よ! 御子様を、ルナ様をお救いください! 我ら月魔族は全てを捧げます!……)
その時、イーリスの身体が僅かに光り始めた。その光は柔らかな春の陽のようで、冷涼だった聖堂が仄かに暖かくなる。
柔らかいその光がルナと傍らに跪くレイを包んでいく。
レイはその光りに力づけられ、ルナを呼ぶ声を強める。
『月宮さん! みんなが君のことを待っているんだ! こっちに戻ってきて!』
詠唱を続けていたヴァルマは光に導かれるようにルナの手を取っていた。それは意識しての行動ではなく、無意識のうちになされていた。
「御子様。お戻りください……」
アシュレイたちにもイーリスの放つ光が届く。
二人はその暖かな光に包まれ、警戒を解いていないステラですら跪きそうになるほど、神々の力を感じていたのだ。
「神々がおられる。これでルナは戻ってくるだろう……」
アシュレイはそう呟くとその場で跪き、神々への祈りを始めた。
「神々よ。レイの願いを聞き届けて……」
ステラも同じように神々の力を感じていた。
「私にも感じられます。神々に見捨てられた私のような者にも……ああ、レイ様のお姿が……」
ステラの目には微笑むレイの姿が映っていた。その微笑みは聖者のような清らかなもので、彼女は思わず跪いていた。
そして、彼女も神に彼の願いを聞いてほしいと祈り始める。
更に柱の陰に潜むウノら獣人奴隷たちも同じように祈りを捧げていた。
目的のためには親や子ですら斬り捨てられる彼らが、神に祈ったのだ。
神官たちの詠唱の声が一際高くなる。彼らも神々の強い力を感じ、祈りを強くしていく。
聖堂の中には神聖な力が満ち、その力がルナを焦点にして集束する。
しかし、その光は唐突に力を失った。
聖堂にあれほど満ちていた清浄な気が、どす黒いような重い雰囲気に変わったのだ。
「何が起きた?」とレイが呟くが、イーリスたちは祈りを続けていた。しかし、彼女たちの表情は先ほどまでとは違った苦悶に満ちたものになっている。
「まさか、虚無神が……復活したのか……」
ルナの表情も穏やかなものから苦悶に満ちたものに変わっていた。
『月宮さん!』
レイの叫びが聖堂に響き渡った。
■■■
ルナの魂はフワフワと浮かぶ海の中にいた。そこに春の日の暖かな陽が差し込むように当たり、柔らかな暖かさに身を委ねている。
遠くから彼女を呼ぶ、優しい声が聞こえていた。
『月宮さん。みんなが待っているんだ。早く戻ってきて……』
それは様々な声に変わる。
最初は若い男のもののようであったが、途中から日本にいる母親のものになり、更にはこの世界で姉のように優しくしてくれた女性の声に変わった。
最後には彼女が最も聞きたい声に変わる。
『もう充分休んだだろ。そろそろ、みんなのところに帰るんだ。お前が帰るところはここじゃない。俺たちのところなんだ……』
「そうね。私がここに逃げていてもみんなに迷惑が掛かるだけね」
そう呟くと浮き上がろうと意識を上に向ける。
しかし、彼女の意識は浮上しなかった。
彼女の足に漆黒の触手が巻きついていた。そして、その更に下には虚ろな目のような赤い二つの光点があった。その光は何の感情も見せていないが、見る者に絶望を与えるような力を持っていた。
「何? 放して! 私は帰るの! 放して!」
必死にそう叫ぶが、漆黒の触手は彼女を捕らえて放さない。ようやく捕まえたとでも言うように。
そして、彼女の脚が徐々に黒色に侵食されていく。
「いやぁぁぁ!」
ルナは自分の足が別の物に変わっていく恐怖を感じていた。
「……」
更にその虚ろな目からは自分に従えという意思を感じるが、彼女はそれに抵抗する。
「私はあなたになんか従わない! 私は私の意志で生きる!」
彼女が決意を漲らせると、変色していた脚の色が元に戻り始める。しかし、触手が離れる気配はなかった。
彼女の体感時間で十分ほど触手と格闘するが、絡みついたまま離れることはなかった。
脚が変色することはなかったが、彼女の浮かぶ空間が黒く染まり始める。
「この世界ごと私を取り込むつもりなの? どうすれば……武器もないし、魔法も使えない……どうしたらいいの……」
武器もなく、魔法も使えない身では何もできないと諦めそうになる。
その時、唐突に魔法を習い始めた頃のことを思い出した。
『この世界の魔法はイメージで何とでもなるんだ。例えば、光の剣なら昔見た映画を思い出せば、割と簡単に出すことができる』
彼女に魔法を教えた男はそう言ってオレンジ色の光の剣を現出させた。
(ここは普通の空間じゃないわ。だとしたら、私でも魔法が使えるかもしれない。あの人はイメージが大事と何度も言っていた。映画でもアニメでもいいから頭の中に思い描くんだって……)
ルナは教えてくれた男が見せた光の剣をイメージする。
(映画は真面目に見ていないけど、何度かテレビでやったから何となく分かるわ……ブォンって音がして光の剣が現れるはず。あの人はいつもオレンジ色で“暗黒面に落ちた記憶はないんだが”って言っていたわね。それに“出すなら青色にしておけよ”とも……フフフ。こんなことを思い出せるなら、私は負けない……)
心の中でそう叫ぶと右手に薄いブルーの光の剣を作り出す。
「できたわ!」と喜び、そのまま、その剣で触手を斬り付ける。
何の抵抗もなく、その触手は断ち切られ、彼女の身体は自由を取り戻した。
「掛かってきなさい。今の私ならあなたに勝てるわ」
そう言いながら光の剣を消し、煌びやかなバトンを出現させる。それは子供の頃に見た魔法少女系のアニメで見た魔法の道具だった。
「小さい頃に買ってもらった物と同じだわ。だとすれば、魔法も使えるかも……」
更に彼女の姿もその魔法少女の衣装になっており、僅かに赤面する。
「さすがにこの歳でこの格好は恥ずかしいわ」と呟く。
その時、彼女にはそんなことを呟く余裕があった。今の自分はこの程度の魔物に負けないと信じていた。
「それじゃ、これで終わりよ!」
そう言うと大きくバトンを振り、七色の光の帯を漆黒の魔物に放った。七色の光の帯は星型の映像効果を撒き散らしながら、漆黒の魔物を包んでいく。
ルナは決めゼリフを言おうか一瞬悩むが、さすがに恥ずかしいと思ったのか、無言でバトンを振った。
魔物を包んだ光は一瞬縮んだ後、派手な光を放って爆発する。
彼女の周囲に立ち込めていた暗黒も同時に消え去っていた。
「これで障害はなくなったわ」と呟くと、顔を上に向ける。
彼女の視線の先には丸く白い穴のようなものがあり、そこが出口であると直感する。
出口に向かおうとした時、彼女の前に淡い光の球体が浮かんでいた。
一瞬、敵かと考えたが、その光は先ほどの漆黒の目とは反対に全てを包み込むような暖かさを持っていた。
「私に何か用? 帰らないといけないのだけど……」
その光は頷くように揺らぐと彼女の中にすぅっという感じで吸込まれていった。ルナはそれに慌てるが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「何だったのかしら? 力を授かったということなのかしら」
そんな疑問が浮かぶものの、すぐに出口に向かって浮上していった。
■■■
レイは必死にルナの手を握り、祈っていた。
突然変わった聖堂の雰囲気に、虚無神が何か仕掛けてきたと思ったが、敵の姿が見えず手の出しようがなかった。
(ルナの精神に直接攻撃を仕掛けていると思うんだけど、どうすれば……)
祈りを捧げているイーリスの表情が苦しげで、更に詠唱を続けている神官たちの声にも力がなくなりつつあった。
ただ、反対側の手を取っているヴァルマだけは穏やかな表情を浮かべていた。
(何かを感じているのかな? 僕には分からないけど……)
そんなことを考えるものの、今はルナを励ますしかないと声を掛け続ける。
十分ほどすると、重かった空気が徐々に清らかになっていることに気づいた。更に硬かったルナの表情も柔らかく緩み、彼女がヴァニタスに打ち勝ったと確信する。
更に五分ほど経った時、ルナの瞳が開かれた。
『ありがとう、聖君……ありがとう……』
ルナは日本語でレイに感謝を伝えた。
彼女の声にヴァルマが「御子様!」と歓喜の声を上げ、イーリスもルナが目覚めたことを知った。
「ノクティスよ! 神々よ! 感謝いたします!」
彼女の周囲で詠唱を続けていた神官たちも安堵の表情を浮かべ、それぞれ神に感謝する言葉を口にしていた。
「お疲れ様。今はゆっくりと休んで」と言ってルナの手を放した。
そして、ゆっくりと立ち上がると、イーリスたちに向かって大きく頭を下げる。
「イーリス殿、ヴァルマ殿、神官の皆さん。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
彼の足元には小さな水滴の跡ができていた。




