第四十九話「急行」
三月一日の夜。
レイたちが妖魔族の都ルーベルナに入った頃、月の御子ルナを奪われた鬼人族が狭い街道を走っていた。
鬼人族たちは眷属であるオーガやオークに食料を持たせ、自らは武具だけを身に着けた軽装だ。そのため、その移動速度は行軍というより暴走に近い。
大鬼族の族長タルヴォ・クロンヴァールはその巨大な全身から汗を噴き出しながら、鬼人族の戦士を叱咤する。
「御子様をお救いするのだ! 時を掛ければ“巫女”は儀式を行ってしまうだろう! 儀式が行われれば、御子様は別の存在に取って代わられる! 我らに時はない!」
そして、自らもその言葉に奮い立つ。
「鬼人族の戦士たちよ! 心臓が張り裂けようとも走り抜け! 遅れる者は捨てておけ! 今は一刻でも早くルーベルナに行かねばならん!」
その声に数人の戦士が応えるが、ほとんどの戦士は走ることで精一杯で声を上げることすらできない。
彼らは既に三昼夜に渡って走り続け、険しい山道を二百五十km以上進んでいた。しかし、ルーベルナは直線で三百五十キメル、街道沿いに進めば五百キメル以上ある。ようやく全行程の半ばに達したところだった。
小鬼族の族長ソルム・ソメルヨキもタルヴォの半分にも満たぬ矮躯でありながら、必死に先頭を走り続けている。そして、彼も戦士たちを奮い立たせるため、荒い息の中、無理やり声を上げる。
「戦士たちよ! この戦いの正義は我らにある! 御子様のお姿を思い出せ! 我らにソキウスの理想を語ってくださった御子様を!」
中鬼族の雄、バインドラー家の族長エルノ・バインドラーや若いヨンニ・ブドスコなど主要な部族の長も同族たちを叱咤していた。
鬼人族たちの隊列は十数キメルにも及び、その総数は優に一万を超えていた。更に鬼人族の都ザレシェから各都市に伝令が走り、数万に及ぶ鬼人族戦士がルーベルナに向かっている。
街道にある小さな村の住民たちは怒りに打ち震える鬼人族を恐れた。鬼人族たちはタルヴォらの命令により、掠奪などは行っていないものの、村人たちは何が起こっているのか分からず、いつ自分たちに向かってくるのかと恐れ、村を放棄して森の中に逃げ込んだ。
体力自慢の鬼人族にも休息は必要であり、小休止を取る。食事を待つ間に、タルヴォは主要な族長たちと今後の協議を行った。
「敵が何も仕掛けてこねば、あと三日でルーベルナに到着するだろう。懸念があれば今のうちに話し合っておきたい」
タルヴォの言葉に気が短いエルノが語気を荒げる。
「懸念など何もないわ! 御子様を取り戻すだけだ!」
ソルムはその言葉に呆れるが、ここで揉めても仕方が無いと宥めるように話し始めた。
「エルノ殿の言うことももっともだ。だが、今は御子様をお助けするための懸念が僅かでもあれば、皆が認識しておくべきだろう」
ソルムの言葉にタルヴォとヨンニが頷く。
「私も同感です。一刻も早くルーベルナに向かうのはもちろんですが、相手は月魔族です。何をしてくるか分からんでしょう」
ヨンニはそう言うと、他の三人も頷く。ヨンニはそれに頷き返すと、更に言葉を続けていく。
「ルーベルナに入るにはロウニ峠を通らねばなりません。私も一度しか通ったことがないのですが、あの場所を塞がれたら、容易には越えられません」
ソルムが「確かにな」と賛意を表す。
「魔法で崖を崩されれば、オーガを用いても数日は足止めを食らう。俺たち小鬼族なら峠を迂回して、山の中を抜けることもできるが、それでも時間は食うだろうな」
タルヴォはいつもの重々しい声で「今は心配しても仕方なかろう」と言い、
「いずれにせよ、迂回する道はないのだ。眷属をすり潰してでもやるしかあるまい。それよりもルーベルナにどの程度たどり着けるかだ。食料がそろそろ尽きる」
眷属たちに食料を持たせているが、ザレシェにいる眷族の数は少なく、四日分ほどしかない。既に三日が経ち、食料が乏しくなり始めている。
「この辺りの村では徴発しても大した量にはならん。だが、腹が減っては進むこともままならん」
タルヴォがそう言うと、若いヨンニが声を上げる。
「私に提案があります」
その言葉に族長たちが一斉に彼を見つめた。その視線に僅かにたじろぐものの、すぐに本題に入っていく。
「ここで精鋭部隊を選抜して先行させます。今ある食料を集めれば何とかルーベルナまではもつでしょう。ロウニ峠を越えてしまえば農村から徴発できます」
「それでは残った者たちが飢えることになるではないか」とエルノが言うと、
「後続部隊は食料を多く持っているはずです。合流してから移動すれば飢え死にすることはありえません」
ヨンニの答えにソルムが「それがよい」と大きな声で賛同する。
「今は一刻を争う。精鋭を先行させる案はよいかもしれん。要は御子様に危害が加えられる前に我らがたどり着ければよいのだ。全軍である必要はない。タルヴォ、俺はヨンニ殿の案を押すぞ」
ソルムがタルヴォを見上げると、彼も大きく頷き、「エルノ殿もそれでよいな」と中鬼族の同意を取り付ける。以前のエルノならばここで反対したかもしれないが、ルナに心服してからはタルヴォらへの協力を惜しまなくなっていた。
「儂もそれでいい。だが、儂とバインドラーの精鋭は必ず加えてもらうぞ」
「もちろんだ。バインドラーを外すことなどありえぬ」
そう言うともう一度全員を見回し、
「では、中鬼族はバインドラーとブドスコ、ベントゥラの三家から戦士を千、眷属を五百。小鬼族はソメルヨキとスラングスから戦士を千、大鬼族はクロンヴァールとハンヌラから戦士を二百、眷属を百だ。準備ができ次第、出発する。直ちに準備を始めてくれ」
タルヴォの指示に三人は「オウ」と言って応えると、すぐに自らの部族のところに走っていった。
残されたタルヴォもクロンヴァール家の戦士たちに命令を発していく。
二時間後、やる気に満ちた鬼人族の戦士が並び、高く積み上げた食料を背負ったオーガとオークがその後ろに座っている。タルヴォは居並ぶ戦士たちに訓辞を行った。
「これより精鋭のみでルーベルナに向かう! 我らは鬼人族の先兵となり御子様をお救いするのだ! 残された者たちはここで体力を少しでも回復させよ! 後続が到着したらすぐに我らを追え! 此度の戦はすべての鬼人族の力が必要なのだ! 先兵とならなかった者もそのことは努々忘れるな!」
その言葉にそこにいた全ての鬼人族が怒号をもって応えた。その叫びは深い森の木々を揺らし、木霊となって谷を渡っていく。
「出発!」というタルヴォの言葉で戦士たちが走り始めた。二時間という短い休息であったが、体力が自慢の鬼人族には充分な時間だった。更に自分たちが月の御子を救うのだと使命感に燃え、三日間走り続けたとは思えないほど足取りは軽かった。
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ルナの魂は深い海の底のような場所に沈んでいた。そこで彼女は夢を見ていた。その夢はティセク村から助け出された後の、ある村での生活の場面が多かった。
『ホイップクリームの作り方ってこれでよかったのか?』
若い男の声が聞こえる。その言葉はこの世界のものではなく、日本語だった。
『もう少し激しく泡立てても大丈夫です……そんな感じで……それでいいですよ。上手です』
彼女の心の中には丘の上の瀟洒な家で、ケーキを焼いているシーンが映し出されていた。
『俺は食べる方が専門だったからな。それにしても今時の高校生でもケーキなんて焼くんだな。まさか、ルナがケーキを作ったことがあるとは思わなかったよ』
『それどういう意味ですか?』とちょっと拗ねた感じで口を尖らす。
黒ずくめの男は『悪い悪い』と言って軽く頭を下げ、
『俺の子供の頃なら割といたんだが、世代が違いすぎるだろ。俺にとっちゃ、女子高生なんてものは宇宙人以上に理解不能の存在だったからな』
『いつの時代でも女の子はおんなじだと思いますよ……』
そんな他愛のない会話を思い出し、微笑む。
(あの頃は楽しかったな。この世界にない料理、それもあの人が作り方を知らない料理を再現するのが一番楽しかった。おつまみになる料理はいっぱい知っているのに、普通のお菓子の作り方とかは知らないんだもの。本当に変わった人だった。フフフ……)
そして、夢の場面は宮殿と見紛うような大きな屋敷に移る。
『このブランデーを使ったパウンドケーキは貴領の名産にできると思います。香り豊かなブランデーを含ませることにより、舌触りが滑らかになり……』
黒ずくめの男が金や銀をあしらった豪華な服を着た貴族に説明していた。
(この時はまだあまりしゃべっていなかった時ね。まだ、この人が日本から来たって知らなかった時……)
再び、場面は変わる。丘の上の屋敷の近くの草原に男は寝転がり、白い雲を眺めている。彼女は草原に座り、隣で寝転がる男を見ていた。
『……高校二年だったのにやりたいことが何もなかったんです……』
日本にいた時のことを話しているシーンだった。
『弓道をやっていたんじゃなかったか? それも結構いい線までいっていたと聞いた気がするが?』
『そんなことないです……一応、学校では一番でしたけど、やりたいことかって言われたら……進路も決めないといけない時期だったのに、何も決められなかった……だから、この世界に飛ばされてきたのかもって思っています』
彼女の言葉に男は起き上がり、笑顔を見せる。
『それはないと思うぞ。俺の時代でもやりたいことを見つけて大学にいった奴なんて数えるほどしかいなかった。大抵、やることがなくて、とりあえず大学に行ったって感じなんじゃないのか? 俺自身、食っていくのに一番楽そうな学科を選んだんだからな。それに、そんなことで異世界に飛ばされていたら、日本人だらけになっちまう』
男の軽口に微笑むものの、すぐに表情を曇らす。
『でも、ここではやりたいことが見つかったんでしょう。私には何もないんです……』
『そりゃ仕方ないさ。俺みたいに後悔しまくったおっさんと違うんだからな。今からゆっくり探せばいいさ。それに無理にやりたいことを見つける必要なんてないと思っているしな』
『そうなんですか』と彼女が驚くと、男はニコリと笑い、彼女の頭に手を置く。
『ルナは何でも考えすぎるんだよ。人生なんて楽しめばいいんだ。理由なんてなくてもいいから、やりたいと思ったら何でもやればいい。失敗してもいいんんだ。失敗したらやり直せばいいだけだから』
『でも……やりたいことが……』
『無理に探す必要はないさ。探したって見つかるとは限らないんだし。いろいろやってみるってのも一つの手だと思うな』
そう言って頭を撫でる。
(あんな風に言ってもらったことがなかったから嬉しかったかな。あの人はいつも優しかった……)
そして、自分が恋していたことを思い出す。
(私だけにその笑顔を見せて欲しかった。奥さんがいるのは分かっていたけど、私だけに……でも、それは叶わないこと。あんなによくしてもらった奥さんたちを裏切ってと言えなかった……)
更に場面は変わった。
彼女は丘の上の屋敷の中にいた。外から男たちの緊迫した叫び声が微かに聞こえてくる。
彼女の横には煌びやかな鎧を纏った美しい女性が三人、自分と同年代の双子の男女、更に皆が奥方様と呼ぶ優しい女性がいた。そして、彼女たちはルナに「何も問題はないわ」と笑顔で話しかけている。
(生まれた村から助け出されて一年くらいの頃だった。どんなことが起こっているのか、その時は知らなかった。すべてが終わってから、アンデッドの大軍が襲ってきたって聞いた……)
屋敷の中は静かだった。時折、甲冑に身を固めた男たちが出入りするが、遠くから微かに声が聞こえる程度だ。
(今はアンデッドがどんなものか知っているし、実際に戦ってもいるから分かるけど、聞いた時にはホラー映画しか思いつかなかったな。今なら私が原因だって分かるけど、あの人たちは必死にそれに気づかせないようにしていた。本当に子供だったんだって思うわ……)
その時、彼女を優しく呼ぶ声が聞こえてきた。それは今まで見ていた人々の声ではなく、別の若い男の声だった。
『月宮さん! 諦めないで! 僕たちがいる。一人じゃないんだ! 今から助けに行くから……』
その声に思わず笑みが浮かぶ。
(助ける? 私がいるとみんなに迷惑が掛かるわ。それにあの冷たい場所じゃないの、ここは。だから、このまま放っておいて……)
それでも声は聞こえてくる。しかし、今度聞こえてきた声は別人だった。彼女が最も聞きたい声だった。
『二十年や三十年しか生きていない奴が思い出に浸るな。今からいくらでもいいことはあるんだ。それにお前を助けに来た仲間がいるんだろ。命懸けで助けに来てくれた仲間が……』
(そうね。聖君は私のためにこんな遠くまで追いかけてきてくれた。私みたいな存在でもまだ気にかけてくれる人がいる……)
ルナは深海の底のような場所から僅かに浮き上がった。




