第四十七話「イーリスの決意」
三月一日の午後四時頃。
月魔族の指導者、“月の巫女”であるイーリス・ノルティアは部下である翼魔族のキーラ・ライヴィオの様子を見ていた。キーラを看病していた神官たちを下げさせ、馬車の中は二人だけになっている。
彼女の視線の先には大量の出血により蝋のように血の気のないキーラの姿があった。キーラは虚無神に洗脳されたイーリスに短剣で刺され重傷を負ったのだ。
レイの治癒魔法を受けたものの意識は未だに戻っておらず、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
イーリスは洗脳されていたとはいえ、自分の行いを恥じていた。
(あの時の私はおかしかった。でも、キーラを刺した事実は変えられない。目覚めた時に何と言ったらいいの……ヴァニタスが降臨しそうになっていたことも、私が殺されそうになったこともキーラは知らないというのに……)
そんなことを考えながらも、イーリスは闇属性魔法でキーラに安寧を与えていた。
(これで少しは楽になるはずなんだけど……)
魔法を掛け終わるとキーラの表情が僅かに緩んだ。そして、ゆっくりと目蓋が開いていく。
「ここは……イーリス様は……御子様は……」
目覚めた直後なのか、それともイーリスに刺されたショックが原因なのか、うわ言のように呟いている。イーリスはどう声をかけてよいのか迷うが、キーラの手を取り声を掛けた。
「気分はどう? キーラ、大丈夫?」
イーリスがそう声を掛けると、キーラはゆっくりと視線を向けた。そして、イーリスが手を握っていることに目を見開く。
「イ、イーリス様……」
その声には怯えが含まれており、イーリスはキーラの手の震えを感じていた。
「ごめんなさい。あの時の私は邪神に、ヴァニタスにおかしくされていたようなの……でも、これは言い訳にしかならないわね。巫女である私が洗脳されていたなんて……でも、よかったわ。あなたが無事で……」
イーリスはそう言いながら涙を零していた。キーラはその姿を見て驚くが、同時に手の震えも止まっていた。ここ最近のイーリスは以前に増して近寄り難かったが、今のイーリスは昔の優しさを取り戻しているように見えたからだ。
「御子様はご無事でしょうか? ヴァルマ様は……」
「ヴァルマは無事よ。それに御子様のお身体も。でも、御子様はヴァニタスに身体を奪われかけて心が壊れているかもしれないわ。あの神は人が受け入れられるような存在じゃなかったから……」
危険を顧みず、鬼人族から強引に拉致した結果が神の御使いを失うことだと言われ、キーラは強い衝撃を受ける。
「そんな……」
「でも、大丈夫よ。大神殿で魂の修復を行うから。必ず御子様をお助けするから」
イーリスが自信を持っていることにキーラは安堵する。
「あなたにお願いがあるの」
そう言って小さく頭を下げるイーリスに、キーラは僅かに違和感を覚える。
「どのようなことでしょうか」
イーリスは少し躊躇った後、レイたちが同行していることを告げる。
「実は別の馬車に白の魔術師、レイ殿がいる……」
白の魔術師と聞き目を見開くが、口を挟むことなくイーリスの言葉を聞いていく。
「……レイ殿は私がヴァニタスに操られていると知っていた。そして、御子様をお救いするためにアクィラを越え、更に絶望の荒野すら越えてきたのよ……」
絶望の荒野という言葉に思わず声を上げてしまう。
「絶望の荒野を……」
イーリスは話を遮られたことを咎めることはなかった。
「そうよ。レイ殿たちはあの荒野を越え、御子様を助けにきたの。どれほどの覚悟かそれだけで分かるでしょう……レイ殿と御子様は同郷らしいわ。それに深い絆で結ばれている感じなのよ。だから、御子様の心を修復する時に彼がいた方がいいの。そこまでは分かってくれるかしら」
キーラが頷くと更に話を進めていく。
「彼が白の魔術師であると知られるわけにはいかないわ。でも、今このことを知っているのは私とヴァルマ、そしてあなただけ。だから、あなたにも私たちに合わせてほしいの……納得できないかもしれないけど、御子様のお命を救うためには必要なことなの……」
イーリスはレイたちと打ち合わせた内容をキーラに説明していった。キーラは納得し難いと思うものの、上位者である巫女の命令に頷くことしかできなかった。
「ありがとう。とにかく、今は御子様をお助けすることが一番大事なことよ。それを忘れないで」
そう言って馬車から出ていった。
残されたキーラの心には僅かだが不信の火種が残されていた。
(イーリス様のおっしゃることは分かるわ。でも、私の部下はあの男に殺された。それをすぐに忘れることなんてできない……)
イーリスと入れ替わるように神官が入ってきたため、それ以上考えることができなかった。
イーリスは元の馬車に戻ると、出発を命じた。馬車が動き出した後、キーラの説得に成功したことをレイたちに報告した。
「キーラも納得してくれたわ。御子様をお救いするために」
レイは小さく頷くが、アシュレイはそれほど簡単に納得できるものなのか疑問を感じていた。
「キーラ殿は翼魔族の指揮官であったのだろう。部下をレイに殺されているが、本当に大丈夫なのだろうか」
アシュレイの疑問にイーリスが、「彼女なら大丈夫よ。私の命じたことを違えるようなことはしないわ」と自信を示す。
更にヴァルマもそれに同調した。
「イーリス様のおっしゃる通りよ。キーラは決して巫女様の信頼を裏切らないわ。何があろうとも」
アシュレイは二人の言い分に納得できないものの、それを口に出すことはなかった。
(この二人は支配者だ。戦う者の本当の気持ちを分かってはいない。長年苦楽を共にした部下が殺されているのだ。頭で分かっても心から納得するとは限らぬ……ウノ殿たちほど割り切っておれば別だが……レイとステラには注意を促しておいたほうがよいだろう……)
彼女はこの場で議論すべきではないと考え、後でレイとステラに伝えることを心に決めた。
日没前、馬車はルーベルナに到着した。
馬車の周囲を警戒していたウノたちも、ヴァルマが個人的に配下に加えた護衛ということで何事もなく街の中に入る。
月の御子ルナが到着したのだが、街は静かだった。これは神官たちが彼女たちの体調を考えて公表しなかったためだ。
大神殿は政務を行う政庁と神事を司る神殿を兼ねている。正門を入ると、神事を執り行う神殿が正面にあり、その左右に政務を行う政庁が連なっていた。
神殿の前には多くの参拝者がいるため、今回はイーリスの指示により目立たない裏門から神殿の裏に入っている。神殿の裏には神官たちの居住スペースがあり、すぐに馬車をそこにつけた。
思った以上に簡単に魔族の中枢部である闇の大神殿に入れたことに、レイは驚きを隠せなかった。
(この国の実質的な支配者とその腹心がいるからかもしれないけど、あまりに警戒が薄い気がする。これで大丈夫なんだろうか……)
彼が知る国家の中枢はラクス王国の王宮とペリクリトルの冒険者ギルド総本部であり、そのいずれもが厳しい警戒を行っていた。ラクス王国の王宮は国王自らであってもオーブ――身分を証明する魔道具――を見せなければ入れなかったし、ペリクリトルでも間者対策として充分な警戒がなされていた。
そのことをヴァルマに告げると、彼女は不思議そうな顔で聞き返してきた。
「巫女であるイーリス様を疑う理由がないわ」
「魔法で操られるとか、馬車に間者が忍び込むとかがあると思うんですけど?」
「闇の魔法の使い手である月魔族に傀儡や催眠を掛けることは難しいわ。本人が望む場合は別だけど」
その言葉にレイが疑問を呈した。
「しかし、今回虚無神に操られています」
ヴァルマは「そうね」といった後、
「今までは自分たちが闇の魔法で操ることはあっても操られるなんてことは考えなかったわ。今後はもう少し警備を強化した方がいいかもしれないわね。でも、神が相手なら無駄な気もしないでもないけど……」
実際、月魔族の精神攻撃に対する耐性は非常に高く、特にイーリスやヴァルマといった高位の魔術師に闇属性魔法が効くことは少ない。ヴァルマがイーリスの麻痺の魔法を受けてしまったのは、ヴァニタスに操られ、異常に闇の精霊の力が強くなった状況だったからだ。通常の状態なら、月の巫女といえどもヴァルマほどの闇魔法の使い手に対し、麻痺の魔法は成功しなかっただろう。
「少なくともヴァニタスに操られた者がいるかもしれないという前提で警備をした方がいいと思います。降臨に失敗しただけで、ヴァニタスの力が消えたわけじゃないので」
レイの提案にイーリスは素直に頷いた。
「確かにそうね。今までは神官が闇の魔法で操られるなんて考えたこともなかったわ。敵が黒魔族だけならそれでよかったけど、神が相手なら考え方を変えた方がいいわね」
そんなことを話しているうちに神官たちから声が掛かる。
「御子様はいずこにお連れしましょうか」
その問いにイーリスに代わりヴァルマが「とりあえず、客室へお連れするのです。沐浴と食事の手配も行いなさい」と命じた。神官たちはすぐに行動を開始し、下働きの獣人や人族の女性が現れる。
イーリスは大神殿に戻ったことで緊張の糸が切れたのか、立ちくらみを起こして馬車の椅子に座りなおす。その姿にヴァルマが慌てるが、
「大丈夫よ。神官たちを聖堂に集めておいて。午後八時からノクティスに祈りを捧げます」
その言葉にヴァルマは大丈夫なのかと不安そうな視線を送るが、イーリスの強い意思を込めた視線を受けて静かに頭を下げた。
(イーリス様は命懸けで御子様の魂をお救いするつもりだわ。きっと責任を感じておられるのだと思う。ならば、その責任の一端は私にもあるはず……)
そう考えると回復しきっていない重い体を引きずるようにして神殿の奥に入っていった。
「レイ殿たちはこれから私の部下として扱います。他の者たちに不審がられないために」とイーリスが小声で伝える。
レイは小さく頷き、了承する。
「食事を摂り、身体を清めるのです。同郷であるあなたは御子様に語り続けるという大事な仕事があるのですから」
イーリスは鷹揚にそう命じると、レイは「かしこまりました」と大きく頭を下げる。
更にアシュレイとステラにも、
「二人は御子様についていなさい。お目覚めになった時にあなたたちがいなければ御子様も戸惑われるでしょうから」
その言葉でマルヤーナを始め、残っていた神官たちはアシュレイたちがルナの付き人であると思い込んだ。
更にウノたちにも命令を下していく。
「ヴァルマの指示があるまでレイのもとにいなさい。この者の催眠が解けるとは思えませんが、万が一の場合は取り押さえるのです」
事前の打合せ通りであるため、ウノたちも静かに頭を下げる。
(これでレイ殿たちは私の手の者に見えるはず。後は今の私にどこまでやれるかだけ……いいえ、やれるかじゃない。やらなければならない……)
イーリスは今の疲れ切った身体で大規模な儀式を執り行えるか不安を感じていた。しかし、自ら言っているように、ルナの処置は可能な限り早い方がよく、そのためには自らの命を失ってもいいとさえ思っている。
(御子様の魂が傷ついたのは私のせい。ヴァニタスに操られていたとはいえ、強引に神降ろしの儀式を行ったから……だとすれば、私の命で贖わないといけない。これはヴァルマにも言えないこと……)
イーリスは内心の決意を表に出すことなく、柔らかい笑みを浮かべながら神官たちに指示を出していった。




