第四十五話「和解」
三月一日の正午頃。
月の巫女イーリス・ノルティアは、邪神に誘導された神降ろしの儀式の影響によって、精神に大きなダメージを負った。レイの魔法によって回復したものの、記憶が混乱しているのか、目の焦点が合っていない。
「ここは? 闇の神の降臨は……」
イーリスはそう呟いた後、自分が殺されそうになったことを思い出す。そして、震え出した。
「あれは違うわ! ノクティスではなかった! あれはこの世界に呼び出してはいけないもの……虚無神!……あれは世界を滅ぼすもの!……」
ヴァルマはイーリスを抱き締め、幼子をあやすように「もう大丈夫です。邪神は消えました」と囁く。
一、二分、その状態が続いた後、イーリスは自分がどういう状況にあるのか悟った。そして、何とか落ち着きを取り戻し、ヴァルマを見つめた。
「あなたに助けられたということかしら。ヴァルマ?」
ヴァルマはすぐに否定する。
「いいえ、白の魔術師、レイ殿が闇属性の安寧の魔法を掛けてくださいました」
その言葉にイーリスは驚き、ようやく自分がレイたちと一緒にいることに気付いた。
「どういうこと……」と言い掛けたが、すぐに自分に起きたことを思い出し納得する。
「私が間違っていたわ。あれは闇の神ではなかった……虚無神よ。ヴァニタスが世界を壊そうとしていたの。私たち月魔族、いいえ、私はヴァニタスに操られていた……」
レイはヴァニタスの仕業と知り、
(どこかで聞いた気がする。誰かに言われた気が……僕の小説の設定なんだろうか? まだ思い出せない……)
考え込む彼を無視し、イーリスは彼の目を強く見据え、「で、私を助けて、あなたはどうするつもりかしら?」と問う。
突然話を振られ、レイはどう返すか悩み、まず雰囲気を変えることにした。
「まずは自己紹介を。僕はレイ・アークライト。ただの傭兵兼冒険者。こっちがアシュレイ・マーカット、傭兵仲間で僕のパートナー。その隣がステラ。僕の大事な仲間……」
獣人奴隷であるセイス、オチョ、ヌエベ、ディエスの四人を紹介し終える。
イーリスは厳しい表情をレイに向けた後、ヴァルマに視線を向ける。
「私が聞いている報告と違うわ。白の魔術師は光の神殿から派遣された聖騎士で、各国で軍を指揮しているという話だった。実際、ラクスとペリクリトルではあなたにずいぶん痛い目にあったと聞いているのよ。ねぇ、ヴァルマ。あなたの報告とも違うのだけど、本当なのかしら?」
ヴァルマも首を傾げる。
「私も白の魔術師はペリクリトルの軍の指導者の一人と思っておりました。私が傀儡から得た情報では、“白き軍師”と呼ばれ、詩になるほどの人物です」
レイはその言葉に苦笑いを浮かべる。
「確かにそう呼ばれていましたし、吟遊詩人がいろいろ広めたようですけど、身分は私設傭兵団の一員、それも新米の一人に過ぎないんです。冒険者の街ペリクリトルでも司令官を補佐する臨時の参謀に就いただけで、正式に冒険者ギルドの役員になったわけではないんです」
ヴァルマは更に信じられないという顔をする。
「でも、私が集めた情報ではラクスの英雄、白の軍師が魔族の侵攻を事前に知り、ペリクリトルを守るために全てを投げ打って救援に来たと……信じられないわ」
レイはどう答えていいのか悩み逡巡していると、アシュレイが先に口を開いた。
「それはペリクリトルの防衛司令官ランダル・オグバーン殿が流した噂だ」
「そうなの……あのオルヴォ・クロンヴァールが一介の傭兵に敗れたというわけ……でも、聖騎士を率いて戦っていたと聞いたわ。今も同じ鎧を着けているじゃない。嘘を吐いているとは思わないけど、信じられないわ」
ペリクリトル攻防戦を目の当たりにしているヴァルマにとって、レイが指揮官あるいは聖騎士でなかったということが信じられなかった。
「聖騎士じゃありません。第一、僕は光神教の司教に一度殺されかかっているんですよ。それにあの時は彼らを使うしかなかったんです。この鎧は聖騎士の物に似ていますけど同じじゃないですから」
イーリスは小さく頷くと、
「分かったわ。あなたが光の神殿の関係者じゃないというのは信じる。闇の魔法を平気で使う光の神殿の関係者はいないはずだから。私も光の魔法を使えるけど、躊躇いはあるもの」
レイはその言葉に安堵する。しかし、イーリスは厳しい表情を崩していなかった。
「さっきの質問の答えですが、あなたをどうこうするつもりはありません。僕たちは仲間であるルナを助けに来ただけなんです。ルナを助けることができれば、この国に干渉するつもりはないんです」
「御子様を助けに来たということだけど、それはヴァニタスの降臨を防ぐだけなのかしら? それとも御子様を西に連れ戻すということかしら? 答えによっては私たちの対応も変わってくるわ」
「邪神、いえ、ヴァニタスに乗っ取られないようにすることが一番の目的です。もちろん、最終的には仲間のところにつれ戻すつもりです」
レイはイーリスの強い視線を受け止めながら宣言する。
「それでは私たちから月の御子を奪うと。それは認められない。これは我々の悲願なのよ」
「ですが、それはヴァニタスに操られていたからではないですか? それにルナは攫われたんですよ。彼女の意思を無視して」
レイの糾弾にイーリスは言葉に詰まる。実際、自分たちがいつの時点でヴァニタスに操られ始めたのかはっきりしない。そうであるならば、そもそも“月の御子”という存在が魔族にとって幻想だった可能性があるのだ。
レイはこれ以上議論をする気がなかった。
いつから月魔族がヴァニタスに操られていたのかを証明する方法がなく、相手を追い詰めても解決することではないと思い直したためだ。
「今そのことを話し合っても問題の解決にはならないと思います。まずはルナを目覚めさせることを優先させるべきです」
イーリスもレイと同じように考えていた。
「そうね。まずは御子様に回復していただくということに異論はないわ」
「僕には分からないんですけど、あなたに使った安寧の魔法でルナを治すことは可能なんでしょうか。あれほどの力を受け入れたんです。いまいち自信がなくてやっていないんですが」
レイの問いにイーリスは即答しなかった。
(確かに彼の言う通りだわ。近くにいただけの私でも……恐怖に対して耐性のある闇属性魔法の使い手である私でさえ、あれほどの恐怖を感じた。ということは、御子様は想像を絶する恐怖を感じているはず。恐怖を感じる前に魂を守るために精神の奥底に逃げ込んだ可能性も……そうなると生半可な方法は逆効果ね……)
彼女はそのことをレイたちに伝えていく。
「……御子様を確実にお助けするには中途半端な方法は逆効果。大神殿の魔法陣を使って闇の神の御力に縋る方がいいと思う」
レイは頷くが、ステラが反対する。
「そこでもう一度ノクティスの召喚をするのでは? あなたたち聖職者は神の力を得るためなら多少の犠牲は仕方ないと考える人たち。だから、今回も……」
そこでレイが彼女の肩に手を乗せる。
「イーリス殿も、ヴァルマ殿もそこまで酷い人たちじゃないよ」
「しかし……」と、ステラはなおも反発しようとした。
「それに今回はルナの、月の御子の命が掛かっているんだ。彼女の命を危うくするようなことはしないはず。そうですよね、イーリス殿、ヴァルマ殿?」
二人は即座に頷く。更にヴァルマがステラの目をしっかりと見据え、
「獣人のお嬢さんの言っていることは耳が痛いけど間違っていないわ。でもね、私たちは、いいえ、私は御子様を本当にお慕いしているの。だから、私が命に換えてもお守りする。それで納得してもらえないかしら」
ステラは言葉を捜すが、レイに「ルナを助けるには彼女たちを信じるしかないんだ」と言われると口を噤むしかなかった。それでも心の中では納得していなかった。
ルナが攫われたのは、彼女のパーティリーダー、ヘーゼルを傀儡とし、更にパーティメンバーのライアンの命を盾にルナに降伏を迫ったためだ。その前にも娼婦に仕立て上げられた女性やギルド職員を傀儡にし、利用価値がなくなった後は口封じのために殺している。
(ヴァルマは卑劣な手を使ってルナさんを攫っているわ。目的のためなら人の命も、人の情も利用することに何の躊躇いもない。レイ様はそのことを忘れていらっしゃるのかしら?……私がしっかり見張って、この人たちに勝手なことをさせないようにしないと……)
ステラは自分がレイたちを守るのだと強く心に誓う。
その後、レイたちがどうやってここに来たかを説明していった。特に驚かれたのは絶望の荒野を越えたという話だった。
「あの絶望の荒野を越えたというの! 信じられないわ」
“絶望の荒野”は魔族にとって、“死”と同じ意味を持つ。二千年前、国を追われてこの地にやってきた時、多くの同胞を失った。その言い伝えだけでなく、多くの無謀な若者が自らの力を示すために挑戦し、誰一人生還していないのだ。
「でも、嘘ではなさそうね。不可視の殺戮者まで知っているのだから」
レイたちが話をしていると、周囲を警戒していた獣人のディエスが「上空に翼魔族です!」と鋭く警告を発した。全員が見上げると、そこには翼魔族が一人、街道沿いを何かを探すように低空で飛んでいた。
「確認に来たのかしら……あれはマルヤーナね」というイーリスの声にヴァルマが頷き、レイに着陸の許可を求める。
「レイ殿、あの者は大神殿の神官よ。ここに呼んでもいいかしら」
レイが頷くとヴァルマが街道に出て、大きく両手を振る。マルヤーナと呼ばれた神官はその姿を見て地面に激突するのではないかというほど勢いよく降下してきた。
地面にぶつかることこそなかったが、あまりの勢いに着地と同時に大きくよろめく。よろめきながらも、「イーリス様は……イーリス様はどちらに……」とヴァルマに縋るように尋ねる。
「落ち着きなさい。御子様とイーリス様はあちらです。あなたの姉も」
マルヤーナはヴァルマが指差した方に向けて走り出す。ヴァルマはその光景に苦笑いを浮かべていた。
「イーリス様……ご無事で、本当にご無事でよかった……お怪我はございませんか?」
イーリスに心酔しているマルヤーナには、月の御子であるルナも、姉であるキーラの姿も映っていなかった。
「私は無事ですから、少しは落ち着きなさい。あなたはいつまで経ってもそうなのですね」
イーリスは笑いながらマルヤーナを優しく叱責する。その言葉にマルヤーナはようやく周りの状況が見え、自分が慌てふためいていたことに赤面する。
マルヤーナは敬愛するイーリスが無事だったことに安堵したが、姉が重傷を負い、月の御子が意識不明という事実に困惑する。更に護衛であった翼魔族と眷属たちがおらず、代わりに人族と獣人族がいることにも疑問を感じていた。
「何か起きたのでしょうか……私はどうすれば……」
「事情は後で説明します。今は急ぐのです。すぐにルーベルナに戻り、馬車を用意させなさい。今日中に御子様を都にお連れしなければなりません!」
イーリスは困惑しているマルヤーナに強く命じた。
マルヤーナは内心では納得いかないものの、巫女からの強い命令に即座に頷き、空に舞い上がっていった。
午後三時頃、ガラガラという車輪の音が峠に響いてきた。先触れのためかウノが現れる。
レイを見つけるとすぐに片膝を突いて報告を始めた。
「ルーベルナからの迎えです。闇の神殿の神官とその護衛たちです」
「お疲れ様でした。神官たちは納得していましたか?」
レイの問いに小さく頷き、
「ヴァルマ殿の手紙を渡すまでは懐疑的でしたが、その後は蜂の巣を突いたような混乱でした。私のこともほとんど気にしていない様子です」
レイが頷いたタイミングで二輌の馬車が見えてきた。上空には翼魔が二十体旋回し、馬車を護衛している。
イーリスとヴァルマが道で待ち構えていると、馬車からマルヤーナが現れ、すぐにイーリスの前に跪く。後ろから現れた翼魔族の神官たちも同じように跪いている。
「遅くなりました」とマルヤーナが頭を下げると、イーリスは「時が惜しい。すぐにでも御子様を馬車へ」と命じる。
レイがルナを運ぼうとすると、神官が「邪魔だ」と言って押し退け、担架に乗せる。その行いにアシュレイとステラが抗議しようとしたが、レイが二人の前に立ち、「今は一刻も早く都に行った方がいい」と言って止めた。
イーリスがルナとともに馬車に乗り込もうとすると、ヴァルマがレイのことを思い出す。
「レイ殿も一緒の方がよいでしょうか」
「そうね。それでいいわ」
イーリスは特に深く考えることなく了承する。ヴァルマはレイを伴って馬車に乗り込もうとするが、マルヤーナと神官たちは被支配階級の人族が、最高権力者である月の巫女と同じ馬車に乗ることに反対した。
「人族風情を巫女様とご一緒させるのはいかがかと……」
「この者たちは御子様に必要な者たちです。これはイーリス様のご意思でもあります」
ヴァルマがそう言うと、神官たちは渋々ながら納得する。
「レイ殿とアシュレイ殿、ステラ殿はこちらに、ウノ殿たちはもう一輌の馬車へ」
ヴァルマに促され、レイたちは馬車に乗るが、ウノは「我々は馬車の周囲を警戒しますので」と言って固辞した。ヴァルマはウノたちが自分を信用していないことに苦笑するが、この状況では仕方が無いとそれを認める。
その間にイーリスがマルヤーナに命令を与えていた。
「至急都に戻り、御子様の御座所の準備と神官の招集を。御子様の魂を修復するための儀式を行います。集められる神官は全て大神殿に集めておきなさい」
マルヤーナは切迫した表情のイーリスに理由を問うことなく一礼し、そのまま空に舞い上がっていった。
二輌の馬車はルーベルナに向けて走り出した。




