第四十四話「目覚めぬルナ」
ルナはふわふわとした空間を漂っていた。
手や足はもとより身体の存在すら全く感じず、淡い光を放つ魂だけが広い海のような空間に浮かんでいる。
そこには光はなく、かといって闇もない。彼女にはそれらを感じることすらできなくなっていた。
時間という概念すらなく、僅かに残った“ルナ”という自我だけがこの空間に存在するすべてだった。
(寒いわ……いいえ、冷たさは感じない。でも、何だか寒い気がする……ここには何もないわ。何も……それにすべてを受け入れない。何も受け入れない……だから寒いのね……)
漂いながら感じたのは、すべてを拒絶するという意思だけだった。
(ここはどこ? 死者の国ですらもっと別のことを感じるはず……こんな感じを知っている気がする。そう何年か前にあの村で……)
ルナは自分を助けた冒険者と過ごした日々のことを思い出していた。
(あの人に出会ってすぐの頃、私の心はこんな感じだったわ……何もかも拒絶していた頃の私のよう……)
更に思い出に浸っていく。
(あの人と一緒の時は楽しかったなぁ……ふふ、日本にいる時よりも楽しかったわ。いろんなところに行って、知らない人に会って、お祭なんかもあった……みんな楽しそうだった。私も楽しかった。あの時までは……)
そこで自分が拒絶したことを思い出す。
(私が拒んだ。あの人に無理なことを言って困らせて……忘れていたわ。私は不幸を運ぶ女。私が行くところでは必ず何かが起きる。たくさんの人が死ぬ。だから、私はあの人の下を去ったんだ。ようやく分かったわ。どうして、あんなこと言ったのか……)
存在しない彼女の涙腺が緩む。
(私は居てはいけない存在。周りに不幸を与えるから。だから大好きだった人たちからも離れたんだ……どうしてそんな風に生まれたんだろう。どうしてこんな世界に飛ばされてきたんだろう……)
その時、温かい手の感触を思い出した。
(あの人は私が悲しそうな顔をすると、いつも頭に手を置いてくれた。私が転生者だって知ってからも。中身は高校生なのに幼い子供にするみたいに……そして、それに気付くとちょっと照れた感じで謝ってくれた。懐かしいなぁ。会いたいなぁ……)
彼女の魂が僅かに揺らめく。
(でも、もういいかな……このまま消えた方がみんなのためになるし……消えたら日本に帰ってるってことにならないかな。それはちょっと欲張りね。いいわ、このまま消えていくだけで……)
そして、彼女の放っていた光が徐々に薄れていく。それに従い、空間そのものも小さくなっていく。
その時、ふと懐かしい言葉が聞こえてきた。誰かが日本語で自分の名を呼んでいる。その声は聞きおぼえがあったが、消えつつある彼女にはそれが誰なのか思い出すことができない。
ただ、それがきっかけとなったのか、彼女の魂にある言葉が浮かんでくる。それは昔、聞かされた日本語での言葉だった。
『大人になったら酒の美味さを教えてやるよ。その時は一緒に酒を飲もうな。みんなと楽しく……』
その言葉に魂の放つ光が強くなる。
(本当にお酒が好きな人だったなぁ。他の人には十代でもお酒を勧めるのに、私だけには絶対に勧めなかった。その理由がおかしかったな。日本人は二十歳にならないと飲んじゃいけないんだって。ここは日本じゃないのに……あと一年半くらいだったわね、私が二十歳になるのは……)
消えそうになっていた魂は未来を考えることで僅かに光を強めた。
(もう少し生きていたいかな。あの人にもう一度会うまでは……)
ルナはもう一度会いたいという想いだけで存在を保っていた。
■■■
三月一日午前十時頃。
月魔族の都ルーベルナの南約八kmにあるロウニ峠にある谷。
険しい谷の小さな岩棚がある。その岩棚は奥行き二m、幅五メルトほどで、三人の女性が横たわっている。
一人は月魔族の指導者、月の巫女であるイーリス・ノルティア。彼女は強引に神降ろしの儀式を行い、邪神に乗っ取られたルナに首を絞められ瀕死の状態に陥った。
彼女の部下、月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカの応急処置により一命を取り止め、更にレイの治癒魔法によって完治していたが、精霊の力を極度に行使したためか、未だに目覚めていない。その美しい顔には時折、苦悶の表情を浮かべていた。
二人目は翼魔族の呪術師キーラ・ライヴィオ。彼女は乱心したイーリスに胸を短剣で刺され、重傷を負った。彼女もレイの治癒魔法により傷は塞がれたものの、大量の出血のため未だに意識が戻る気配がない。
最後の一人は月の御子ルナ。彼女はイーリスによって強引に始められた神降ろしの儀式により、一時邪神に精神を乗っ取られ、魂が消失する危機に陥った。間一髪、ステラの矢により邪神の降臨は防げたものの、精神に大きな傷を負ったのか、レイが必死に呼びかけているものの目覚める気配はない。
ヴァルマは魔力切れからは脱していたが、それまでの戦闘で受けた傷により体力はほとんど回復していない。ルナを何としてでも助けるという気持ちと、レイの絶大な効果の治癒魔法がなければ、死んでいても不思議ではなかった。
いかに治癒魔法で傷は完治したとはいえ、通常なら安静にしていなければならない状態だ。
しかし、彼女は自らの責任を感じ、三人の女性の傍らから離れようとしなかった。
彼女たちの他にこの岩棚にいるのは、レイ、アシュレイ、ステラの三人に加え、獣人奴隷部隊のウノと彼の部下であるヌエベの五人。残りの獣人セイス、オチョ、ディエスは谷の向こう岸で周囲を警戒している。
レイは重傷者の治療を終えた後、再びルナに声を掛け続けていた。一度だけ僅かに反応はあったものの、その後は全く反応を示さなくなった。
精神を安定させる魔法を使おうと考えたが、邪神の影響が残っている可能性があり、躊躇している。
(下手に魔力を与えると邪神が降臨するかもしれない。でも、あれだけの力が月宮さんの心の中に入っていったんだ。影響がないなんてことは絶対にない。どうしたらいいんだろうか……)
レイがルナに付き添っている横で、アシュレイとステラはこの状況をどうすべきか頭を悩ましていた。
「……無理に動かすわけにはいかんだろうな。といって、この場にいてもよいものか……」
アシュレイの呟きにステラも同じような考えを示す。
「おっしゃる通りです。今日は天気もよいですが、いつ天候が崩れるか分かりません。できれば向こう岸に渡るだけでもしておきたいのですが……」
そう考えるものの、三人の女性は意識がなく、ヴァルマも立っていることすら厳しいという状況だった。
「いつまでここにいるかだな。ここは思いのほか風が強そうだ。夜になれば防寒が必要になるだろう」
三月に入ったとはいえ、ルーベルナ近郊は大陸でも北部に位置し、更にロウニ峠は標高が高い。数日前にも雪が降っており、峠を吹き抜ける風は身を切るように冷たいことを、身をもって知っていた。
二人の結論はできるだけ早く谷を渡るというものだった。谷を渡ってしまえば安全に休む場所は容易に見つかるが、この場で天候が崩れた場合、意識を失っている三人の命に関わる。
アシュレイはルナに語り掛け続けるレイの横に座り、自分たちの考えを伝えていく。
「……ここに長居することはあまり良くないと思う。ヴァルマ殿、キーラ殿が動かせるようになり次第、向こう岸に渡るべきだ」
レイは呼び掛ける声を止め、アシュレイに頷く。
「そうだね。そこまで気が回らなかったよ。助かった」と言い、岩に背を預けているヴァルマに声を掛ける。
「今アッシュが言った方針で行きたいんだけど、それでいいかな」
ヴァルマは目を開けるのも億劫という感じだったが、
「明日になれば私は飛べるわ。私がルーベルナから運び手を呼んできた方が早いと思う」
レイはヴァルマの今の状態から明日で飛行が可能になるとは思えなかった。一方、アシュレイは未だにヴァルマを信じきれず、疑わしげな表情を浮かべていた。
「あなたに何かあればルーベルナで今回のことを説明してくれる人がいなくなります。だから、確実に飛行できるようになるまで自重してほしいんですが」
「レイの言う通りだ。イーリス殿が目覚めた時に貴殿がおらねば話がややこしくなる。少なくともイーリス殿が目覚めるか、短時間で戻ってこれる状況でなければ許可できん」
二人の言葉にヴァルマは素直に「分かったわ」と答える。更に今後のことを口にした。
「これからどうしたらいいかしら? 白の魔術師殿の意見を伺いたいわ」
「まず、ルナとイーリス殿、キーラ殿を安全な場所に移す。その後はあなたに三人を移送する人員の手配をお願いしたい。あなたの名で手紙か指示書を書いてもらい、ウノさんたちの誰かにルーベルナに運んでもらえば大丈夫だと思うんだけど、どうだろう?」
ヴァルマはレイの案を聞き、即座に頷く。
「そうね。この人たちなら都までそれほど時間は掛からないだろうし、私の名で命じれば、翼魔族と翼魔をすぐに派遣してくれるはずよ」
ヴァルマの言葉にアシュレイが反対する。
「この状況で空中を運ぶのは危険だ。もし、移送中に意識が戻ったら恐慌に陥りかねん。時間は多少掛かるが、馬車を手配した方がよいのではないか」
アシュレイはレイほどヴァルマを信用していなかった。
翼魔を使う場合、自分たちがどう扱われるのかを懸念していたのだ。仮に自分たちも空を運ばれる場合、空中から落とされないとも限らない。つまり命を預けることになるのだ。
逆にルナたちだけを空中移送する場合、自分たちはルナと引き離されることになる。
「そうね。短時間とはいえ、お一人にするのは不安だわ。馬車でも二時間くらいしか掛からないなら、そっちの方が安全ね」
心身ともに疲弊しているヴァルマはアシュレイの懸念に気付くことはなかった。そのまま、レイから受け取った紙に指示を書き始める。すぐに書き終え、レイたちに見せた。
その命令書にはイーリスとルナが重病に陥ったため、馬車を手配するよう書かれ、最後にヴァルマのサインが記されている。
「これならいいでしょう。でも、あなたたちの正体は伏せておいて頂戴。ややこしくなるから」
「ええ、これならいいでしょう。ウノさん、この状況でこの三人を運べますか?」
「問題ございません」とウノは表情を変えずに頷いた。
「ヴァルマ殿、あなたとこの三人を向こう岸に運びます。僕たちに任せてくれますか」
ヴァルマは「お任せするわ。自分で渡れそうにないし」と気だるげに答えた。
すぐにウノとヌエベはロープと毛布を巧みに使って、簡単な移送用の吊り籠を作り上げる。
ヴァルマから順に谷を渡していき、三十分後には全員が谷を渡り終えていた。
谷を渡り終えると、街道に近い安全な場所に三人を運んでいく。
レイは「大至急ルーベルナにこれを」と言って、ウノにヴァルマの命令書を渡した。
「巡礼者に偽装してください。偶然ロウニ峠でヴァルマ殿たちを見つけたということにすれば、疑われる心配はないでしょう。その後ウノさんは馬車を案内してください」
ウノは小さく頷くとすぐに峠道を走り始めた。
レイはルナの横に座り、手を握っている。その姿を見たヴァルマは二人の間に何があるのかと考えていた。
(白の魔術師は御子様とどんな関係なのかしら? 同郷だと聞いたけど、それ以上に何かありそうな感じね……)
そして、自分の今の状況を自嘲する。
(私は何をしていたのかしら。もし彼がいなければ、邪神の思惑通りに操られて御子様のお命すら……多くの鬼人族の戦士を失ったあの戦いは……いけない! 鬼人族たちが都を目指しているのだったわ。どうすれば……)
月の御子であり、鬼人族に慕われていたルナを傀儡の魔法を使って攫っている。
「言わなくてはいけないことがあるわ」と切り出すと、鬼人族の都ザレシェでの出来事を語っていく。
「二日前に出発したと思うから、あと四、五日で鬼人族の軍勢が来るわ。このままでは鬼人族との戦争になってしまう……」
レイはルナが鬼人族に慕われていたという話に驚くと同時に、仲間である鬼人族を無視したイーリスのやり方に反感を持つ。しかし、そのことは口に出さなかった。
ステラはイーリスの選民意識に怒りを覚えていた。
(この人はルークスの聖職者と同じ。人を人と思っていないわ。こんな人を助ける必要なんてない……)
ステラの思いとは関係なく、レイは今後の話を進めていく。
「話は分かった。その戦いを防ぐにはルナに説得してもらうしかない。それにイーリス殿にも納得してもらわないと……イーリス殿はもうそろそろ目を覚ましてもおかしくないんだけど……」
神降ろしの儀式で大量の魔力を使い、更に邪神に乗っ取られたルナに一瞬とはいえ、力を奪われている。その後遺症により意識が戻らないのだが、倒れてから既に二時間以上経っており、魔力切れだけなら回復してもおかしくない時間だ。
「もう一度治癒魔法を掛けてみる。もしかしたら精神にダメージを負っているのかもしれないから、闇属性で精神を修復してみる。問題あるかな」
ヴァルマに確認するが、彼女は「そんなことができるの? できるならお願いするわ」と驚いていた。
ヴァルマが使う闇属性魔法は精神攻撃に使うものが多く、魂の安らぎをもたらすような魔法は神殿で神官たちが使っているだけだ。ヴァルマはレイが神官と同じことをするということに驚いたのだ。
(この男はどんな魔法でも使えるのかしら? 知略も魔法も敵わない。こんな男が光の神殿にはいるということなの……)
ヴァルマはレイの装備から光の神殿の聖騎士だと思い込んでいた。実際、ペリクリトルでは聖騎士隊を指揮しており、そのことを大鬼族の戦士から聞いている。
レイは精神を回復させるイメージで闇属性魔法をイーリスに施していく。安らぎをもたらす闇の精霊たちが集まり、アシュレイやステラですら心が洗われるような清冽な感覚を覚えていた。
五分ほど魔法を掛け続けると、イーリスの苦悶に満ちた表情が穏やかなものに変わっていく。そして、ゆっくりと目を開いていった。
ヴァルマは思わず、「イーリス様!」と声を掛けた。




