第四十話「強襲」
三月一日午前八時過ぎ。
妖魔族の都ルーベルナの南にあるロウニ峠では月の御子ルナを巡る戦いが始まっていた。
鬼人族からルナを奪った月魔族のイーリス・ノルティアだったが、ルーベルナへの空輸の途中、ロウニ峠で待ち伏せていたレイによって地上に引き摺り下ろされる。
戦力の約三分の一を失ったイーリスは“白の魔術師”レイの魔法に恐怖し、ルーベルナからの増援を待つことにした。彼女は更に長年に亘って確執が続いている黒魔族――妖魔族の一氏族で漆黒の肌を持つ――の関与を疑っていた。
黒魔族の族長サウル・イングヴァルは呪術師――魔族の魔術師の呼称――として優秀なだけでなく、中鬼族をも凌駕する戦闘能力を持った危険な人物で、ここ三年ほど行方が分かっていない。
そのことがイーリスの心に重く圧し掛かり判断を誤らせていた。
彼女の配下には翼魔族の優秀な呪術師キーラ・ライヴィオがいるものの、右腕であったヴァルマ・ニスカの姿はなかった。ヴァルマはルナを守るため、自らレイの魔法を受け、森の中に墜落していたのだ。キーラの他にも翼魔族の呪術師五名がいたが、ヴァルマどころかキーラにすら及ばない経験しか持たない。
眷属である翼魔は八体残っているものの、三体は翼を傷め飛行不能になっている。強靭な肉体を誇る翼魔であるため近接戦闘に不安はなく、魔法も使用可能であるが、それでも飛行能力を失ったことは能力の大半を奪われたに等しい。
イーリスはキーラを含む翼魔族の呪術師をルナと自らの周囲に配置した。更にその護衛として傷付いた翼魔を置く。無傷の翼魔五体は奇襲を警戒するため、周囲の警戒に当たらせていた。
翼魔族の呪術師の能力は西方諸国の宮廷魔術師並、すなわちレベル五十程度の魔術師に匹敵する。その中でもキーラはレベル六十を超えた優秀な呪術師だった。
翼魔の能力も高く、戦士としてはベテラン戦士並のレベル三十五程度、魔術師としては闇属性のみだがレベル三十程度と実用レベルの魔法を使える。
それに加えイーリス自身も全属性が使える呪術師であり、そのレベルは七十を超えている。但し、レベルの割には実戦経験が少なく、戦場での能力は未知数であった。
この戦力ならばカウム王国やラクス王国の正規騎士団の一個中隊約百名でも圧倒でき、短時間の守りに徹するなら一個大隊三百名の兵士が相手でも耐えられるだろう。
しかしイーリスは大きな不安を抱えていた。
黒魔族だけでも充分に脅威であるのに、数千の鬼人族戦士を倒し、歴戦のヴァルマにして逃げるしか手が無いと言わしめた“白の魔術師”がいることが大きな不安となっていたのだ。
(白の魔術師がいる。あの追いかける光の矢、オーガを一瞬にして焼き尽くす謎の魔法……それだけじゃないわ。猪突するしか能がないとはいえ、三千ものオークを僅か二百名の傭兵を使って破った知略……それにあの大鬼族の英雄オルヴォ・クロンヴァールが数千の兵力と共に敗れている……)
彼女の心の声をレイ本人が聞いたならば赤面しただろうが、イーリスはそれほど“白の魔術師”という存在に怯えていた。
(ルーベルナからここまで急げば三十分も掛からないはず。あいつが来るまでに逃げ出さないと……)
イーリスは完全に恐慌に陥っていた。
現時点で彼女が取り得る策は二つ。
一つは防御しやすい場所に移動してレイたちを迎え撃つこと。そして、もう一つはルナを連れて南に逃げることだ。
彼女の戦力は遠距離攻撃に特化していると言っても過言ではない。これは本来、妖魔族――月魔族や翼魔族など翼を持った魔族の総称――は空中からの攻撃が主であり接近戦を行う必要がないためだ。そうであるならば、敵が容易に近づけない場所、例えば崖の上や木の上などに陣取り、そこから接近してくる敵を狙い撃てばいい。
第二の策は安全策だ。ルナを攫った時と同じように篭を使わず翼魔が直接ルナを運ぶ。その際に木々の間を飛んでいけばレイの視界に入ることなく逃げ切れただろう。
彼女にもその策が有効であることは分かっていた。ただもう一つの懸念である黒魔族の存在がその策の実行を躊躇わせていたのだ。
(黒魔族はどこに? 白の魔術師が囮でルーベルナからの増援と合流させないことが目的だとしたら……)
肉体的に強靭な黒魔族の飛行能力は月魔族や翼魔族を凌駕する。また、眷属も翼魔の上位種である大魔や更に上位の魔将であり、大魔一体は翼魔五体に匹敵し、魔将一体は翼魔五十体に匹敵する。魔将が一体いるだけでも彼女たちに勝ち目はない。
イーリスは根拠なく恐れているわけではなかった。
二年前、黒魔族の居留地付近で魔将クラスの召喚が行われた痕跡が見つかっていたのだ。
痕跡はあったものの一級相当の魔物である魔将を見た者はなく、召喚された後の情報が一切ないことが彼女に疑心暗鬼を生ませた原因だった。
(もし、魔将が現れたら、私では倒すことができない。つまり、御子様を奪われてしまうということ……)
イーリスは祭祀長としての能力はあったものの、施政者としても指揮官としても二流以下だった。闇の大神殿を利用した月魔族の支配体制は磐石なものであり、ここ数百年間において問題はほとんど発生せず、彼女にこのような過酷な決断を求めることはなかった。
もし、イーリスに決断力があったならば、手を拱くことなく、何らかの行動を起こしていただろう。
イーリスが恐れる“白の魔術師”ことレイは、イーリスたちが見える茂みに隠れていた。距離はおよそ五十m。ステラの姿はなく、傍らにはアシュレイしかいない。
獣人奴隷部隊のウノたち五名はイーリスたちがいる場所から三十メルトほどの距離を置き、扇状に取り囲んでいる。そして、慎重に、だが確実に近づいていた。
ステラはウノたち更に後方に隠れている。今のところ静かに様子を窺うだけで動く素振りは見せていない。
レイたちの配置を上から見ると、イーリスたちがいる場所を中心に、正面約五十メルトの位置にレイとアシュレイが、後方に等間隔で囲むようにウノたち五人が、レイと対極の位置にステラがいる形だ。
目的であるルナはイーリスたちがいる場所にある一本の大木にもたれかかるように寝ている。
ウノたちは周囲を警戒する翼魔に見つかることなく更に接近していく。
唐突にウノたちの襲撃は始まった。
イーリスたちから死角となっている場所で一体の翼魔が突然倒れた。
ガサリという草が倒れる音がするが、警告も断末魔もなく、風の音に掻き消されていく。
レイの目にはウノが背後から近づき喉を掻き切った様子が一瞬だけ見えた。
(よし! まずは一体……)
レイは心の中で喝采を上げるが、気配を察知されないよう細心の注意を払う。
二体目の翼魔にウノの部下のディエスが襲い掛かる。この時も全く音はしなかったが、鋭い警告が森に木霊した。
「敵が潜んでいます! 後ろに獣人たちが!」
その声はレイが予想していなかった人物から発せられたものだった。その人物は月魔族のヴァルマだった。
彼女はフラフラと木々の間と飛びながら警告を発し、イーリスたちの右側方から現れた。
「敵です! 直ちに御子様を安全な場所に! 早く!」
ヴァルマはレイの魔法の矢を受け瀕死の重傷を負ったものの、気力だけで駆けつけ警告を発したのだ。
その警告の声にウノたちは一斉に行動を開始した。
セイスとヌエベは翼魔に向かって投擲剣を投げつけた。一体の翼魔は何とか腕で投擲剣を受けたものの、もう一体は喉に投擲剣を受けもんどりうって倒れていく。更にオチョは草の間を疾走しながらショートソードで周囲を必死に警戒する翼魔を斬りつけ、脇腹に小さくない傷をつけていた。
僅か数秒で四体の翼魔が無力化されていた。
しかし、ヴァルマの警告と指示によりレイの計画した奇襲は中途半端な形で終わってしまった。
ヴァルマの指示を受け、キーラが部下の翼魔族にルナを運ぶよう命じ、更にオチョに向かって即座に作り上げた闇の矢の魔法を放つ。
「夜と平穏を司りし、闇の神よ。闇を固めし矢を我に与えたまえ。我はその代償に我が命の力を御身に捧げん。我が敵を貫け!闇の矢」
オチョはトンボを切るような動きで闇の矢を避ける。ウノたちはこの隙にルナに接近しようとしたが、彼女の周りにいた翼魔が放つ闇の矢に動きを止められる。
ヴァルマは自分が来た右手側を指差し、
「この先に深い谷があります! そこまで飛べば容易には近づけません! ここは私とキーラで食い止めます!」と口の端から血を流しつつ、イーリスに撤退場所を教えた。
イーリスもその言葉に「分かったわ」と応え、ルナを抱える三人の翼魔族と護衛役の二人に「ヴァルマのいった谷に向かいます! 付いてきなさい!」と命じた。
レイはその様子を見ながら「もう少しだったのに」と残念がるが、すぐに立ち上がって光の連弩の呪文を唱えていく。
「世のすべての光を司りし光の神よ。御身の眷属、光の精霊の聖なる力を固めし、光輝なる矢を我に与えたまえ。御身に我が命の力を捧げん……」
イーリスは光の精霊の力が正面に集まっていくのを感じ、白の魔術師がいると直感した。
そして、自らも火属性の魔法、炎の矢の呪文を唱えていく。
「火を司りし火の神よ。御身の眷属、精霊の猛き炎の矢を我は求めん、我は御身に我が命の力を捧げん……」
連弩の魔法に比べ、単発の炎の矢の方が発動時間は早かった。
「我が敵を焦がせ! 炎の矢!」
放たれた炎の矢は立ちあがって狙いをつけるレイに向けて真直ぐと飛んでいく。
レイは呪文を中断することなく、立ち続けていた。
(ここで逃げられたら終わりだ。何としてでも敵を止めないと……)
彼は鎧で魔法を受けることで対処し、イーリスたちが逃げられないように光の連弩を撃ち込もうと考えた。
しかし、彼に炎の矢が届くことはなかった。矢が届くと思われた時、目の前にアシュレイが立ち塞がり、自慢の大剣を振り抜いた。
アシュレイは見事に捕らえており、轟々と燃えていた炎の矢は大剣によって消滅する。
レイは一瞬驚くものの、精神集中を切らすことなく、光の連弩の魔法を作り上げる。
「我が敵を貫け! 光の連弩!」
五本の光の矢が次々と放たれていく。光の矢は深い森の木々を滑るように避け、ルナを運ぶ翼魔族に迫っていった。しかし、その矢が届くことはなかった。
ヴァルマはレイに気付くと、連弩の魔法が使われると直感した。
そのため、イーリスの炎の矢の魔法とほぼ同時に刃の竜巻の呪文を唱えていた。しかもレイに向けて放つのではなく、イーリスたちの背後を守るように刃の竜巻を発動させたのだ。
光の矢が竜巻に当たり、精霊の力同士が激しくぶつかり合って消滅する。もし、僅かでもタイミングが遅すぎれば竜巻が発生する前に通り過ぎ、早すぎれば影響範囲を避けていっただろうが、絶妙のタイミングで光の矢の前に現れたため、レイの魔法ですら回避することができなかった。
この間にイーリスたちはレイの魔法の射程外に逃れることができた。
ヴァルマは満足げな笑みを浮かべると、すぐにイーリスたちを追うウノたちに向かって魔法を放とうとした。しかし、接近していたステラによってそれは叶わなかった。
ステラはヴァルマが乱入した直後から行動を開始していた。当初は自分がルナを追うことを考えたが、すぐに前方にいるウノたちの方が早いと考え直す。
「ウノさん! ルナさんを追ってください! ここで逃げられるわけにはいきません!」
ウノはそれに応えることなく、走り出していた。更にディエスも同じようにルナを追う。
ステラはヴァルマがウノを狙うと気付き、無防備な背後から双剣で斬り裂いた。
「あぁぁ!」というヴァルマの悲鳴が森に木霊する。
横でセイスとオチョを牽制していたキーラが「ヴァルマ様!」と叫ぶが、ヴァルマはそのまま地面に倒れ動かなくなった。
キーラはこれ以上ここにいるのは危険だと判断し、唯一無傷の翼魔にイーリスたちを追うように命じ、更に翼を傷めた翼魔たちに足止めを命じた。そして、自身も森の中を這うようにして飛んでいく。
レイは連弩の魔法ではイーリスたちに届かないと落胆するが、すぐに残っているキーラたちを攻撃することに切り替える。キーラは大木を盾にするように飛んでいるため、梢の上に出ようとした無傷の翼魔に狙いを定めた。そして、光の矢を放つと翼魔の背中に見事命中する。
五分後、イーリスたちの姿は消え、レイの奇襲は失敗に終わった。戦闘としてみるなら味方に全く損失がなく、敵の主力であるヴァルマと翼魔八体を倒した大勝利だが、レイの心は重かった。
(ウノさんが追っているけど追いつけるか微妙だ。このまま逃げられたらルナは都に連れ去られてしまう。完全に失敗だ……)
そう思うものの今は後を追うしかないと全力で森の中を駆けていった。
イーリスは意外に使えない指揮官でした。彼女が見捨てたヴァルマがいなければ……
ドリームライフ側でもお伝えしましたが、今週の月曜日に無事退院しました。今週は毎日リハビリで結構筋肉痛でしんどいです(笑)。
来週から本格的に元の生活に戻る予定です。
入院の最終日12/4に退院記念(?)と称して短編小説を書き、投稿しました。12/8まではジャンル別で日間一位、12月10日時点で週間一位ですが、一時間で書いた本当の拙作なので、皆さまからの退院祝いと考えております。
ちなみにタイトルは「全身麻酔」。興味のある方は下記のリンクからどうぞ。
http://book1.adouzi.eu.org/n2074dr/




