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トリニータス・ムンドゥス~聖騎士レイの物語~  作者: 愛山 雄町
第四章「魔族の国・東の辺境」

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第三十七話「北へ」

お待たせしました。

 二月二十八日の昼過ぎ。


 月魔族のイーリス・ノルティアとヴァルマ・ニスカはザレシェの大政庁に近い中鬼族の屋敷にいた。

 二人は二階の窓から大政庁前の暴動を見つめ、月の御子奪還の成功を祈っていた。


 暴徒と化した中鬼族とルナを守るブドスコ家の戦士たちの間で小競り合いが始まり、広場に混乱が広がっていくと、イーリスはヴァルマに笑顔を向ける。


「御子様を取り戻せそうね。わたくしたちもタイミングを見て飛び立つわよ」


 満面の笑みを浮かべるイーリスとは対照的にヴァルマの表情は暗かった。彼女は敬愛するルナを強引に拉致することに未だ納得していなかったのだ。


(また御子様のご意思を無視してしまった。これで御子様は二度と私に心を開いてくださらないわ。仕方が無いということは分かっているのだけど、これでよかったのかしら……)


 そう考えるものの、言葉には出せない。

 ヴァルマの想いとは関係なく、広場では翼魔族の呪術師たちが麻痺の魔法を行使し始めていた。


「いい頃合ね。行くわよ」とヴァルマを見ることなくイーリスは言い、すぐに二階の窓から飛び立っていく。ヴァルマは仕方なくイーリスに続いて空に舞い上がった。


 広場の混乱は容易に収拾が付かないほど大きくなっていた。

 鬼人族の中にも闇属性魔法が使われたことに気付いた者がおり、「月魔族の手先が潜んでいるぞ!」と叫ぶが、彼らと月の御子の間には傀儡くぐつとされた中鬼族たちが壁を作っており、容易に近づくことができない。

「御子様をお守りしろ!」という怒号が上がるが、黒い煙状の魔法が護衛たちを無力化していくと、それは「身体が動かん! 助けてくれ!」という悲鳴に変わっていく。


 そして、十体の翼魔が突然広場に舞い込むと、「御子様が!」という悲痛な叫びに変わる。

 悲鳴に似た怒号が渦巻く中、二体の翼魔がルナを抱えるようにして飛び去っていく。一瞬、揺らぐように高度を下げるものの、他の翼魔が加わり、北に向かって速度を上げていった。


「誰か! 御子様をお助けするんだ! 誰でもいい!」


 広場には嘆きのような叫びが空に向けて放たれていた。

 しかし、その思いも空しくルナの姿はすぐに見えなくなる。広場に集まっていた鬼人族の民衆はその現実が受け入れられず、呆然と空を見上げることしかできない。中鬼族の中にいた翼魔族の呪術師たちが舞い上がって逃げていくが、誰一人対応することができなかった。



 ルナは翼魔に抱えられ連れ去られようとしていると知り、「放しなさい! 私は月の御子よ! 無礼でしょう!」と命じるが、翼魔たちは彼女の言葉を無視して上昇を続けていく。ルナは両腕を拘束されながらもコートの内側に隠していた短剣を苦労して取り出し、翼魔の腕を斬り裂いた。この短剣は鬼人族の族長の一人から贈られた物だが、イーリスが現れてからは護身のため常に携帯していたのだ。

 翼魔の腕から赤黒い血が噴き出し、地面に滴り落ちていく。傷つけられた翼魔は痛みのため僅かにバランスを崩した。


(ここから落ちても骨折くらいで済む。もう一体も斬りつければ落とすかも……)


 既に二階建ての家の屋根近くまで高度が上がっており、十(メルト)近い高さがあった。この高さから落ちることに対し、強い恐怖を感じていたが、それ以上に生贄にされる恐怖の方が強かった。そのため命の危険を覚悟の上で翼魔を斬り付けたのだ。

 二体目の翼魔を斬りつけようとしたが、両腕を拘束されて自由が利かない彼女に比べ、翼魔の方は片手が自由であるため、容易に短剣を奪い取ることに成功する。短剣を下に投げ捨てると、これ以上暴れないよう更に強く腕を拘束した。

 反撃の手段を失ったルナは「痛いわ! 放しなさい!」と叫び、身を捩って逃れようとした。自由に動く足を激しくバタつかせると、再び翼魔はバランスを崩す。しかし、他の翼魔が助勢に現れ、暴れるルナの足を抱え込む。

「放しなさい! どこを触っているの! 止めなさい!」と喚き散らすが、翼魔は無言で速度を上げていく。

 ザレシェの町並みが消え、寒風の冬空を更に十分ほど飛行すると、ようやく降下を開始した。ルナの眼下には針葉樹の深い森が広がっている。


(どこに連れて行くつもりなの。何もないようだけど……今はそんなことを考えている時じゃない。何としてでも逃げ出さないと……)


 三体の翼魔に運ばれながら必死に脱出する方法を考えるが、武器もなく、味方もいない状況では良い考えが浮かばない。

 更に五分ほど飛ぶと、森の中に村らしき場所が見えてきた。その頃には周囲に十人くらいの翼魔族と同じくらいの数の翼魔がいることが分かっており、どう足掻いても逃げ出せないと諦め始めていた。


(どうすればいいの……このままルーベルナに連れ去られて神降ろしの儀式の生贄にされるの……)


 村の上空に到着すると、ゆっくりと降下していく。村の中心にある広場に降り立ったが、二十分以上手足を押さえ込まれていたルナは立っていることができず、へたり込んでしまう。そこにイーリスとヴァルマが優雅な羽ばたきで下りてきた。

 イーリスは満足げな笑みを浮かべているが、ヴァルマは硬い表情でルナに目を合わせようとしない。イーリスは優美ともいえる会釈とともに、


「少々乱暴なお迎えとなり申し訳ございませんでした。敵の介入を防ぐためには仕方がなかったのです」


 ルナは「敵?」と思わず呟いていた。その時、彼女の頭に浮かんだのはレイの顔だった。


ひじり君が助けに来てくれた。まだ希望はあるわ……)


 一方、イーリスは黒魔族――漆黒の肌と漆黒の翼を持つ妖魔族の一氏族――のことを言っており、そこに認識の違いが生じていた。そして、イーリスは敵についてそれ以上言及せず、ルナも完全に思い込んでいたことからそれ以上聞かなかった。


「私を生贄にするために手段は選ばないということね。私の意志を尊重すると言っておきながら。本当にあなたたちは信用できないわ」


 ルナはイーリスを睨みつけながら、そう吐き捨てる。

 イーリスはルナの怒りを感じながらも笑みを絶やさず、「仕方がなかったのです」とだけ言い、すぐに近くに控える翼魔族のキーラ・ライヴィオに向き直る。


「すぐに出立の準備を。今日中に五十km(キメル)は進んでおきたいから」


 イーリスの言葉を受けキーラは一軒の農家に入っていく。彼女の後ろには屈強な翼魔が三体付き従っていた。そして、大きな籐製の篭を運び出す。

 その篭には人が出入りできる蓋と数本のロープが取り付けられており、ルナは自分を運ぶためのものだと直感的に理解した。


(あれに乗せられるのね。あの中に閉じ込められたら飛び降りることは無理そうね。ひじり君が近くにいるなら、望みを持つべきかしら。それともこれで命を絶った方がいいかしら……)


 ザレシェに入るまでに手に入れた小さなナイフの存在が大きく感じられる。

 ザレシェでは鬼人族を完全に魅了しており、使うどころか新たな短剣まで与えられていた。しかし、いつ裏切られるか分からない状況であったため、その小さなナイフを肌身離さず持ち歩いていたのだ。

 自決の手段を得ているものの、自らの命を絶つという決断は彼女に重く圧し掛かる。


(助かる見込みがあるのなら、それに賭けてみよう。もし駄目だったら……考えたくないけど、このナイフで自殺するしかない……でも、私に命を絶つことができるかしら……)


 ザレシェでの女王然とした雰囲気は鳴りを潜め、完全に元のルナに戻っていた。そんな彼女にヴァルマが声を掛けてきた。


「申し訳ございませんでした……」と声を震わせながら謝罪の言葉を口にする。それに対し、ルナは冷たく対応した。


「あなたに拉致されるのは二回目ね。私に忠誠を誓うといいながら、今回も私の意思は無視。それでよく心から忠誠を誓うなんて言えたものね。それとも月魔族の辞書では相手の意思を無視して思い通りにすることを“忠誠”というのかしら?」


 辛辣な言葉に対し、ヴァルマは頭を下げることしかできなかった。


「私の敵はあなたたち月魔族だけ。鬼人族は私に味方してくれると誓ってくれた。そして、命懸けで私を守ろうとしてくれた。でも、あなたは違うわ。言葉だけで、結局は私より自分たちの目的の方が大事なのよ」


 ヴァルマにそれだけ言うと、ルナはそれ以上何も言わなかった。ヴァルマはもう一度頭を下げ、イーリスの下に向かった。

 残されたルナはヴァルマを味方に付けることはできないと考え、翼魔族を味方に付けられないか考え始める。


(ヴァルマは駄目ね。イーリスに逆らうことができないから。翼魔も私の言うことは聞かなかった。だとすると、残るのは翼魔族だけ。見た感じだと、イーリスの命令に忠実だけど、そこに付け入る隙はないかしら……権威に弱い者はより強い権威に従う。組織を動かす時のために覚えておいた方がいいってあの人が言っていた気がするわ。あの人のことだから、この状況も想定していたのかも……)


 彼女の脳裏に一人の青年の姿が映し出される。その姿を思い出すと彼の横に常にいた女性の姿も思い出し、胸にちくりと痛みを感じる。


(……今は思い出に浸っている場合じゃないわ。あの翼魔族、キーラっていう人を味方につける。これが今の私にできる唯一のこと。イーリスやヴァルマを遠ざけてキーラに身の回りの世話をさせられれば……とにかく聖君が来ているなら希望はあるわ)


 ルナはキーラを味方につけるべく行動を開始した。



 一方、ルナの奪還(・・)に成功したイーリスも見た目より余裕はなかった。彼女の心の中では鬼人族より危険な黒魔族の族長サウル・イングヴァルのことが重く圧し掛かっていたのだ。


(サウルのところに優秀な呪術師はほとんど残っていないはず。でも、彼のことだから翼魔を召喚していてもおかしくはないわ。いいえ、彼ほどの呪術師なら大魔グレーターデーモンどころか、魔将アークデーモンすら召喚しかねない。だとすると、この戦力では不安が残る。早急にルーベルナに戻らないと……)


 イーリスは翼魔四体にルナの輸送をさせ、残りの翼魔族と翼魔に周囲の警戒をさせることにした。

 自分に次ぐ戦力であるヴァルマにはルナの最後の砦と常に付き従わせるとともに、三日程度でルーベルナに帰還する必要があると考えていた。

 しかし、その構想はルナの言葉で変更を余儀なくされる。


「ヴァルマは近づけないで。一度約束を破った者を傍に置けるほど私の器は大きくないの。もちろん、あなたも近づくことは認めないから」


 強引に進めることも考えたが、翼魔族のリーダー、キーラであれば認めるという言葉に、渋々ながら従う。


(ヴァルマに翼魔族を指揮させればよいだけ。キーラより自分で考えて行動できる分、黒魔族に対するには都合が良いかも……)


 そう考えてキーラに「御子様のお世話を頼むわ」と命じた。キーラは現人神である月の御子付きとなることに感激し、「身命を賭してお守りいたします」と額を地面に付けんばかりに頭を下げていた。


 ルナはその光景を冷ややかな表情で見ていた。


(何としてでもキーラを味方につけなくては……これだけの数の翼魔がいるなら、ルーベルナまで数日で着いてしまう。その間にどうやって味方につけたらいいのかしら……)


 具体的な方策が決まらないが、焦るイーリスの命令ですぐに出発の合図が出される。ルナも抵抗を試みるが、屈強な翼魔たちに篭の中に押し込められてしまう。

 鍵こそ付いていないものの、外側から蓋を厳重に封鎖され、逃げ出すことはできそうにない。

 中は足こそ伸ばせないものの思った以上に広く、外気を遮断するためか篭の裏側は毛皮で覆われている。そのため、蓋を閉じられると真っ暗になるが、灯りの魔道具も取り付けられているため不自由はない。更にクッションが敷き詰められており、少しでも快適にしようと努力した跡が見られた。


 外からイーリスの出発の合図があり、ゆっくりと篭が持ち上がっていく。四体の翼魔が羽ばたくため、微妙に縦揺れがあるが、思った以上に揺れは少ない。

 ルナは揺り篭のように揺れる篭の中で、今後の行動方針を必死に考えていく。



 その頃、ザレシェではイーリスの命令通りに暴動を起こしていた中鬼族が鎮圧された。彼らは支離滅裂の言葉を吐き散らして暴れていたが、麻痺の魔法を逃れた鬼人族戦士たちに一人残らず斬り殺された。同族同士での争いとなったが、月の御子を奪われた原因であり、誰も同情しなかった。

 暴動の鎮圧後、直ちに小鬼族の呪術師により麻痺の解除が行われた。

 二時間ほどで暴動の鎮圧と麻痺の解除が終わると、怒りに打ち震える鬼人族たちによる追撃が始まった。


「月魔族は同胞を傀儡くぐつにして御子様を奪った! 御子様をお救いするのだ!」


 中鬼族の雄、ハンヌ・ブドスコがそう叫ぶと、対立していたはずの大鬼族や小鬼族の戦士たちも「オウ!」と呼応する。

 普段は冷静な大鬼族のタルヴォ・クロンヴァールですら、月の御子の拉致という事実に怒り心頭に発しており、怒号のような雄叫びを上げた後、配下の戦士たちにルーベルナへの侵攻を命じていた。


「月魔どもは三日でルーベルナに着く。儀式の準備を含めれば猶予はあっても五日だ! 各自、持てるだけの食料を持て! 使えるだけの眷族に食料を担がせろ! 御子様を救うため五日で駆け抜けるぞ!」


 ザレシェからルーベルナまで約三百五十km(キメル)。実際には道が曲がりくねっているため、その倍以上の距離であり、それを五日で駆け抜けるということは、一日当たり百五十キメルを走り抜ける必要がある。平地であり荷物を持たなければ、また、強靭な肉体を持つ鬼人族なら可能かもしれなかったが、深い森の山道であることを考えると鬼人族といえども限りなく不可能に近い命令だ。普段のタルヴォなら最短で十日という数字を弾き出したのだろうが、イーリスたちの行う儀式にどの程度の猶予があるか判らないため、無謀とも思える数字を口にしたのだ。


 しかし、タルヴォの命に誰も異議を唱えず、雄叫びで応えると、すぐに準備を始める。屋敷に戻り武器を掴むと背負えるだけの食料を背負い、隊列も作らず走り始めた。総大将格のタルヴォも同様で、眷属である大鬼オーガに背負子を背負わせ、屋敷中の食料を掻き集めさせる。


「急ぐのだ! 御子様をお救いせねばならん! オーガどもに武器はいらぬ。一刻でも早く追いかけるのだ!」


 詳細を知らない家人たちも、月の御子が攫われたという情報は得ており、タルヴォの命令に従って大慌てで準備を行っていく。僅か三十分で準備を終えると、彼は氏族の戦士と眷属を従え、北に走り始めた。

 それは正常な軍事行動とはいえないだろう。どちらかといえば大暴走(スタンピード)というべき行動だった。

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