第三十六話「拉致」
二月二十八日。
月の巫女であるイーリス・ノルティアは傀儡にした中鬼族の族長を使い、民衆を扇動していく。ルナに魅了されている中鬼族の民衆たちは、ここ数日間ルナの姿を見られないことに不満を感じており、イーリスが流した大鬼族と小鬼族が月の御子を独占しようとしているという話が出ると、元々単純な彼らは一気に不満を爆発させた。
中鬼族の民衆たちが大政庁前の広場に徐々に集まっていく。イーリスに操られた氏族以外の民衆も集まりだし、広場は瞬く間に埋め尽くされる。
その状況に憂慮したのは大鬼族の族長タルヴォ・クロンヴァールと小鬼族の族長ソルム・ソメルヨキだった。
二人は月の御子の声を聞きたいという民衆の想いは理解するものの、時期が悪いと顔を曇らせる。
「間が悪い。イーリス殿は姿を見せんが、ルーベルナに帰ったとも思えん」とタルヴォが唸るようにいうと、ソルムも「確かにな」と相槌を打つ。
「御子様に伝えれば、必ず民たちに話をするとおっしゃられるはずだ。だが、我らだけでは空から来られれば対処できん」とタルヴォが漏らすと、ソルムも自分の抱く懸念を伝えていく。
「確かに我が小鬼族の呪術師では翼魔を撃ち落すことは難しいだろうな。そもそも御子様を攫われたら魔法を放つことなどできん。今回の件は奴らが仕組んだことではあるまいか」
ソルムの疑念にタルヴォは沈黙するだけで答えず、今後の方針に話題を転換する。
「それよりもこの状況をどうするかだ。中鬼族同士であれば流血という事態は避けられるのではないか」
タルヴォは中鬼族の有力な氏族バインドラー家とブドスコ家に事態を収拾させようと考えた。ソルムもその考えに賛同し、二人は月の御子ルナに面会を申し込む。
すぐに許可が下り、四階にあるルナの執務室に通される。
タルヴォが「中鬼族の民衆が騒いでおります」と伝え、その言葉を引き取るようにソルムが説明を加えていく。
「御子様のご尊顔を拝したいという民たちの願いは分からぬでもないのですが、イーリスたちがどこに潜んでおるかも分かりませぬ。今回のこの騒動も月魔族が陰で糸を引いておる可能性が高いと見ております」
ルナはソルムに笑顔を向けるが、心中は不安で一杯だった。
(月魔族がなりふり構わず拉致しようとしている? いいえ、そんなことはないはず。ここで強引な手段を使えばソキウスという国は完全に崩壊してしまうわ。そこまで愚かではないはず……でも、“神降ろし”の儀式が国よりも大事ということもあり得るわ。どうしたらいいんだろう。こんな時に聖君が居てくれたら……)
それでも「どうしたらよいと思いますか」と平静を装う。
ソルムはタルヴォに視線を送った後、
「御子様を危険に晒すようで大変申し訳ないのですが、民たちにお姿を見せていただけないでしょうか」と大きく頭を下げる。
「我らの命に換えてもお守りいたします」とタルヴォも身体を折り曲げるようにして大きく頭を下げた。
ルナは不安を感じるものの暴動が起きる方がリスクが大きいのではと考えていた。
(暴動が起これば付け入る隙を与えることになるわ。私がいれば闇属性魔法の効きは悪くなるはず。だとすれば、私が強引に連れ去られないように注意すればいいだけ……私は月の御子よ。鬼人族を完全に掌握しているはず。一度だけ説得すればそれで問題はなくなるわ……)
ルナは月魔族が傀儡の術を使うということを失念していた。失念というより同じ国の仲間に対して、人権を無視するような魔法を掛けることはないと思い込んでいたのだ。
甘いといわれればそれまでだが、ヴァルマと長く付き合い、月魔族も自分たちと同じ“人”であり、魔物のような異質な存在だとは思っていなかった。彼らが鬼人族や人族などを見下していることは知っていても、相手の意向を無視する魔法を使うとは考えられなかったのだ。
「分かりました。皆さんに話をしましょう」
ルナは安全な大政庁を出ることを決意した。
大政庁前の広場は立錐の余地がないほど人が溢れている。更に人々は大鬼族と小鬼族を非難する罵声を発しており、いつ暴動に発展してもおかしくない状況だった。
そんな中、漆黒のドレスに純白の毛皮のコートを纏ったルナが大政庁の門から現れた。
民衆たちは罵声を歓声に変え、「御子様、万歳!」という声に広場は支配される。
ルナは笑顔で用意された壇に登り、両手を広げて民衆の興奮を収めようとした。いつもならすぐに興奮は収まり、静かに自分の声を聞くのだが、今回は状況が異なった。民衆たちは万歳を叫びながら、ルナに一歩でも近づこうと徐々に進み始めたのだ。
その状況にルナは戸惑っていた。
(いつもなら静かに聴いてくれるのに、今日はどうしたのかしら? 何かおかしい感じがする……)
それでもルナは気丈に振る舞い、笑みを浮かべて声を上げる。
「皆さん、落ち着いてください! 私は皆さんと共にあります! すべての鬼人族の方たちと共にあるのです! ですから、一度落ち着いてください!」
その声に傀儡ではない一般の中鬼族は静まっていくが、傀儡とされた中鬼族はイーリスの命令に従い、叫び声をやめようとしなかった。
その行いに操られていない者たちが「静かにしろ! 御子様の声が聞こえないのか!」と怒りを見せるが、傀儡たちはそれを無視して「御子様を取り戻せ!」と叫んでいる。
傀儡たちとそれ以外の者たちの間で衝突が発生した。それは小さな衝突で、一人の若者が静まらない傀儡に腹を立て、「静かにしろって言っているんだよ」と言いながら胸倉を掴んだだけだった。
しかし、傀儡は「貴様も大鬼族の手先か!」と言って声を荒げ、更には腰の剣を引き抜く。それがきっかけとなり、広場は大混乱に陥っていった。
ルナはその光景を見て混乱しながらも、「落ち着いてください!」と声を張り上げ、必死に民衆を落ち着かせようとした。闇の精霊たちが直接脳に伝えているものの、既に彼女の声は混乱に掻き消され、ほとんど届いていなかった。
ルナの後ろではタルヴォとソルムが困惑の表情を浮かべていた。
「拙い状況になったな」とソルムが言うと、タルヴォも大きく頷いて同意するが、「この状況では御子様を大政庁に戻すこともできん」と渋面で呟いている。
タルヴォの懸念は大混乱の中、ルナを大政庁に戻せば、中鬼族の民衆が大鬼族と小鬼族が月の御子を奪うように見え、暴徒と化すのではないかというものだった。
タルヴォはルナの護衛であるイェスペリ・マユリに「御子様に誰も近づけるな」と命じ、自らは前に進んで民衆たちに対峙する。
「御子様がお困りになられておる! 御子様のお言葉を聞けぬ者はこの場から去れ!」
身長三mを超える偉丈夫の大音声が広場を圧した。傀儡となった者でさえ、その空気を震わせる大音声に言葉を失い、広場が静まり返る。
しかし、その静寂は一瞬にして数倍の怒号となって掻き消された。
「大鬼族が御子様を独占しようとしておるのは明白! 御子様を我らの手に取り戻せ」という声が広場のそこかしこから響き、それに呼応するかのように剣を振り上げた中鬼族戦士が前に出ようとした。
タルヴォはその様子に動揺することなく、「中鬼族も御子様を守っておる! 長たちに聞けば分かる!」と叫び返す。しかし、暴徒たちはその言葉に耳を貸さず、剣を振り上げて前に進んでいく。
タルヴォは中鬼族の最大氏族であるブドスコ家の長ハンヌ・ブドスコに「暴徒どもから御子様をお守りしてくれ」と指示を出す。ルナに魅了されているハンヌはすぐに「承知!」と言って頷き、配下の戦士たちに「御子様をお守りしろ!」と命じた。
ルナが立つ演壇の前に中鬼族戦士の壁ができる。
タルヴォとソルムは民衆の大半が中鬼族であり、同族同士の方が説得しやすいだろうと考えたが、それが裏目に出た。
中鬼族は大鬼族や小鬼族に比べ気が短い。ブドスコ家の戦士たちは輪を掛けて気が短く、崇拝する月の御子に逆らう同族に対し、怒りを覚えていた。そのため暴徒たちに対し、殊更強引な手段に訴え、混乱を助長していく。
暴徒が中鬼族だけならブドスコ家の戦士たちだけでも大きな問題にはならなかっただろう。しかし、イーリスたちは傀儡とした中鬼族以外に翼魔族の呪術師を広場に潜ませていた。体格のいい中鬼族を盾にするようにフード付きのマントで正体を隠した翼魔族の呪術師と翼魔が隠れていたのだ。
翼魔族の呪術師たちは混乱に乗じてルナに接近する。そして、タイミングを計り、静かに麻痺の雲の呪文を唱えていく。
その時、演壇の上にいたのはルナ一人で、その後ろに大鬼族のイェスペリらクロンヴァール家の戦士たちが配置されていた。壇の高さは二メルトほどであり、身長三メルトを優に超える大鬼族戦士たちが守れば、翼魔族が空から現れても充分に対処できる。また、大鬼族戦士の後方には、上空に現れた翼魔族を撃ち落すため、スロ・ソメルヨキを筆頭に小鬼族の呪術師十数人が守りを固めていた。
イーリスとヴァルマはこのような配置になると予測しており、上空から強襲を掛けるのではなく、民衆の中に潜んで奇襲を掛けることにしたのだ。
呪術師たちの魔法が完成し、ルナの周りに黒い煙が漂っていく。呪術師たちも月の御子であるルナに魔法を放つことは不敬であると考えていたが、仮にルナに闇属性魔法を放ったとしても闇の精霊たちが打ち消すため効果がなかっただろう。
黒い煙状の魔法にタルヴォらが気付いた。
「呪術師が隠れているぞ!」とソルムが叫ぶものの、魔法に対して対抗する手段がなく、手をこまねいているうちにルナの周囲の護衛たちに煙が纏わり付いていく。更にタルヴォやソルムがいる位置や前衛となっているブドスコ家の戦士たちにも広がっていった。
今回投入された呪術師は翼魔族のキーラ・ライヴィオを筆頭に十名おり、いずれも戦闘経験が豊富な優秀な呪術師であった。このため、魔法抵抗力の低い鬼人族は次々と倒れていく。
ルナもイーリスたちが自分を拉致しようと闇属性魔法を使っていることに気付いていたが、どうすることもできず呆然と立ち尽くしていた。
(まさか、味方に魔法を……何とかしないと……)
そして、闇の精霊たちに魔法をキャンセルするように祈る。
(闇の精霊たち、私の声が聞こえていたら、この魔法を消して……このままでは大変なことになるの。お願い、助けて……)
闇の精霊たちはルナの願いを叶えようとしたが、ルナの願いに具体性がなく、更に彼女に危険が迫っているわけではないため、彼女の周りを乱舞することしかできない。
ルナは焦りながら、更に強く願った。しかし、闇の精霊たちは彼女の願いを叶えることはなかった。
(どうして……どうして助けてくれないの……お願い、助けて!)
絶望を感じながら祈り続けたところで、昔教えてもらった魔法の基本を思い出す。
(……そう言えばあの人が教えてくれたわ。精霊たちは自分で考えて行動するのは苦手だって。術者はできるだけ具体的に願いを伝えないといけないって……でも、この状況で具体的にって、どうしたら……)
その間にも護衛の戦士たちは次々と身体の自由を奪われ、その場に膝を突いていく。小鬼族の呪術師が同じように中鬼族の暴徒に闇属性魔法を放とうとするが、すぐに喉が麻痺し魔法を完成させることはできなかった。
「御子様をお守りしろ! 御子様! 大政庁にお逃げください!」というタルヴォの声が響く。
タルヴォの言葉に、ルナは自分が完全に孤立していることに気付いた。そして、慌てて演壇を降りようとした。
大政庁に向かおうと振り返った瞬間、何者かに腕をとられ、身体が急に浮き上がった。左右を見ると、そこには屈強な体躯で厳しい顔付きの魔物、翼魔の姿があった。
ルナは二体の翼魔に腕をとられ、そのまま空に舞い上がっていく。
タルヴォは自由が利かなくなる身体を無理やり動かし、徐々にルナに近づいていく。意識が朦朧とし始めたため、自らの左腕に短剣を突き立て痛みによって強引に意識を保っているが、瞼は鉛のように重く、視界が徐々に狭くなっていく。
そして、彼が最後に見た光景は翼魔に連れ去られるルナの姿だった。
「御子様……」と呻くように呟いた後、タルヴォは地面に突っ伏すように倒れこんでいった。




