第三十二話「イーリス・ノルティア」
お待たせしました。
あらすじ:
レイは月魔族の都ルーベルナ近くに到着した。しかし、警備が思ったより厳しく、彼自身はルナが通る可能性が高いロウニ峠に潜み、ステラとウノにルーベルナへの潜入を依頼した。
一方、月の御子ルナは月魔族のヴァルマを追放し、鬼人族の都ザレシェを掌握した。ヴァルマは制約の魔法で制限がかけられている自分ではルナの説得は不可能と考え、月の巫女イーリスに説得を依頼することを思いつく。
二月二十二日の夕方。
ルーベルナを発した“月の巫女”イーリス・ノルティアは護衛の翼魔族キーラ・ライヴィオとともに鬼人族の都ザレシェ近くの村に到着した。
真冬の飛行ということで寒風に頬は朱に染まり、長距離移動を終えた疲労から息遣いも荒かった。
見張りに立っていた翼魔族の呪術師の一人が片膝を突いて出迎える。
「ヴァルマはどこかしら」というイーリスの声に「こちらでございます」と言って一軒の民家に向かった。
村は人族が多く住む農村で、茅葺屋根の粗末な造りの民家が多かった。
その中でも最も大きな一軒の前で月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカが平伏していた。
「この度の失態、まことに申し訳ございません」
うっすらと雪が積もる地面に額をつけて謝罪する。
「本当に失態だわ。何をしていたの……まあいい。中で詳しく聞かせてもらうわ」
イーリスはそう言うと平伏するヴァルマを無視して民家の中に入っていく。中では人族の老夫婦が土間で平伏していたが、彼女は一瞥するだけで声すら掛けず暖炉の前にある椅子に腰掛ける。
「さすがに堪えるわね、冬の飛行は。暖かい物を出すくらいの気遣いはできないのかしら?」
不機嫌そうにそう言うと、平伏していた老夫婦が慌ててかまどに向かった。イーリスはキーラに「翼魔たちを休ませなさい。もちろん、あなたもね。明日にも移動するかもしれないから」と告げ、暖炉の火に手を翳す。
キーラが去ると代わりにヴァルマが入ってきた。
その顔は憔悴しており、暖炉のオレンジ色の光を受けても、白皙の肌が青ざめて見えるほどだった。
イーリスは老婦人から湯気が上がる陶器のカップを受け取ると目で下がるように促した。老婦人は大きく頭を下げ、奥に下がっていく。それを確認したイーリスはヴァルマを見ながら、
「さて、詳しく聞かせてもらえるかしら」と冷ややかな視線を投げる。
ヴァルマは「申し訳ございませんでした」ともう一度大きく頭を下げると、
「御子様の信頼を失ってしまいました。突然のことで……」
ヴァルマの言葉を「言い訳はいらないわ」と遮り、
「事実だけを言いなさい。で、原因は何なの」と不機嫌そうに聞く。
「原因は……私にも原因がよく分からないのです。突然、御子様が“儀式”のことを持ち出されて……」
ヴァルマは困惑の表情を浮かべながら、必死に説明を行っていく。
「……なぜ御子様が儀式のことを知っておられたのか、誰がそのことを伝えたのかは全く分かっておりません。少なくともレリチェ村に入る直前からは御子様に信頼していただけたと思っております。ソキウスに入ってからは鬼人族と一部の人族以外、御子様に接触しておりません。鬼人族が知っているはずはないと思っているのですが……」
ヴァルマの報告を聞きながら、イーリスは疑心暗鬼に陥り始めていた。
(鬼人族が知っていた? いいえ、そんなことはないはず。鬼人族の族長たちですら知り得ない情報よ……)
イーリスは「オルヴォたちは儀式のことを知っていたのかしら?」と確認する。
「いいえ」とヴァルマは即座に否定し、
「少なくとも御子様から聞かされるまでは知らなかったようです。今も概要すら知りません」
イーリスは小さく頷くと、再び考え始めた。
(なら誰が教えたの? この中で知っているのは私とヴァルマだけ。ヴァルマには“制約の術”が掛けられている。それが効いていたからこそ御子様の信頼を失ったのだから……私たちの知らない誰かがいるということ? 誰が? どこに?……もし裏切り者がいるなら誰?)
“神降ろし”の儀式は妖魔族――月魔族や翼魔族など翼を持つ魔族の総称――の最高機密であり、知りうる者自体が非常に少ない。しかし、ルナがそのことを知っていたという事実がある。彼女は自分が気づかないところで裏切り行為が行われているとしか考えられなくなっていた。
「分かったわ。どうやら裏切り者がいるようね。それも闇の神殿の中に」
その言葉はヴァルマに強い衝撃を与えた。闇の神殿は魔族の精神的な柱であり、特に神官たちは闇の神の代理である“月の巫女”に対して絶対的な忠誠を誓っている。その神官たちに裏切り者がいるということはソキウスの支配体制に綻びが出始めていることを意味する。
「し、神官たちが裏切っていると……」とヴァルマは窺うような目でイーリスを見つめる。
イーリスは「神官とは限らないわ。元神官という可能性もあるから」と否定する。
この時、彼女は黒魔族――妖魔族の一氏族、漆黒の肌と漆黒の翼を持つ――の族長サウル・イングヴァルの不敵な顔を思い浮かべていた。
(黒魔族ならやりかねない。あいつらは月魔族を恨んでいるから。それにここ二年ほどサウルの姿が見えないという話だし……元神官長の彼なら……)
千年ほど前まで妖魔族の主要な氏族であった黒魔族は常に月魔族と競い合っていた。しかし、大侵攻の際に先陣を切って攻め込んだため、黒魔族は大きな損害を受けた。優秀な呪術師や戦士を失った彼らは没落していき、月魔族がそれに代わった。
今ではルーベルナの東に小さなコミュニティを作って細々と暮らしているが、その戦闘能力は月魔族を凌駕し、特に族長のサウルは妖魔族きっての呪術師として名を馳せている。
ヴァルマもイーリスの言葉から黒魔族のことを思い浮かべ、月魔族を追い落とすためならソキウスの悲願である闇の神の降臨を妨害することすらやりかねないと考えた。
「やはり黒魔族でしょうか?」とヴァルマが問うと、
「証拠はないわ。でも、儀式のことを知り、御子様に伝えることができるのは彼ら以外にいないわ」
「しかし、私は常に御子様とともに……」と言ったところで、驚愕の表情を浮かべる。そして首を横に振りながら、
「ザレシェに着いてから御子様は私を遠ざけるようになられました。もし、黒魔族がザレシェを掌握していたら……ないとは言い切れません……」
ヴァルマの言葉にイーリスも頷く。
「月魔族は鬼人族を侮りすぎていたのかもしれないわね。ザレシェの監視をもっときちんとしていれば……いいえ、駄目でしょうね。もし、サウルが動いているなら、私でも危ういわ……」
最後は独り言のように呟くが、すぐに顔を上げ、
「御子様が僅かな期間で鬼人族を掌握した裏には彼らがいそうね。いくら御子様でもあれほど頑なだった中鬼族を掌握することは難しいと思うわ。もし、サウルが事前に手を回していればありえない話ではないわね……」
ルナに会ったことがないイーリスはともかく、常に傍らにいたヴァルマですら、ルナの能力をあまり評価していなかった。時折、闇の精霊たちが歓喜する姿を見たものの、精霊たちが特別なことをしているという意識はなかった。そのため、ルナ自身が魔法をほとんど使えないという事実が先入観となり、高い能力を持つ呪術師が裏にいると考えた方が説得力があったのだ。
イーリスとヴァルマは事実を確認することなく、黒魔族の関与があったと思いこんだ。確かに転移者であるレイという特異な存在が関与していることは知り得ないが、黒魔族の関与以外の選択肢を排除したことは軽率の謗りを免れない。このことが後に大きな影響を及ぼすことになる。
ヴァルマはイーリスの考えに大きく頷き、彼女の指示を待つ。
「明日、私とキーラが翼魔を連れてザレシェに入るわ。御子様に謁見して真意を確認します。後は鬼人族が黒魔族の影響を受けているかも確認しないと」
「私も連れていって頂けないでしょうか! 御子様に私の気持ちをもう一度お伝えしたいのです!」
ヴァルマはそう懇談するが、イーリスは冷たい視線で一瞥すると、
「あなたが行って役に立つとは思えないわ。御子様が頑なになられるだけよ」
その言葉にヴァルマは落胆するが、「黒魔族が裏で糸を引くなら、イーリス様をお守りするために私が……」と更に言い募るが、
「あなたは御子様から追放されたの。その事実を忘れないで頂戴。それにサウルが現れても私なら何とかできるわ」
実際、黒魔族と月魔族の魔術の才能に優劣はない。しかし、黒魔族は月魔族に比べ身体能力で優位に立っている。彼らは中鬼族に匹敵する身体能力を持ちながら、翼魔族以上の魔術の才能を持っているのだ。
その事実を知るヴァルマはなおも言い募るが、イーリスは「私ではサウルに勝てないというの?」と冷ややかに言われ口を噤むしかなかった。
翌朝、イーリスはキーラと十体の翼魔を引きつれザレシェに向かった。
■■■
二月二十三日の朝。
鬼人族の都ザレシェの大政庁――鬼人族の行政府がある建物――の四階では月の御子ルナが鬼人族の族長たちと歓談していた。
十日前にヴァルマを追放してから、ルナは精力的に鬼人族たちと話し合う機会を設け、彼らを完全に掌握していた。更に反月魔族感情を植えつけていき、比較的冷静でありソキウスの融和を第一に考えていた大鬼族のタルヴォ・クロンヴァールすら取り込んでいた。彼は族長会議の首座であり、すべての鬼人族は妖魔族が敵であると認識し始めている。
ルナは命じていないものの、血の気の多い中鬼族たちは既に戦争の準備を始めており、都には物々しい雰囲気が漂っていた。それでも神の使いである“月の御子”を戴いているという誇らしさが見え、街には戦争独特の悲壮感はなく、高揚感のみが支配していた。
そんな物々しい街に、武装した翼魔を伴ったイーリスが降り立った。彼女は戦準備に勤しむ鬼人族を目にするものの、ルーベルナからほとんど出たことがないため、好戦的な鬼人族の日常だと勘違いしていた。
(相変わらず戦うことしか考えていない種族ね。こんなことだから獣のように罠に嵌って負けてしまうのよ。もう少し頭を使うことを覚えて欲しいわ……)
彼女の傍らにいる翼魔族のキーラはいつもとは違う鬼人族の視線に気付いていた。それまでは反目しあうとはいえ、ソキウスの民同士ということであからさまな敵意を受けることは少なかった。しかし、この街に降り立った直後に感じた鬼人族の視線には殺意すらあったのだ。
彼女はそのことをイーリスに告げるか悩んだが、イーリスもこの状況に気付いていると考え、特に何も言わなかった。プライドの高い月魔族に意見をして叱責される自分の姿が彼女の頭に過ぎったことも一因となっている。
キーラは大政庁前で門を守る中鬼族の兵士に声を掛けた。
「“月の巫女”イーリス・ノルティア様がお越しである。月の御子様への謁見の間に案内せよ」
特に居丈高に声を掛けたわけではないが、彼女の冷ややかな声が中鬼族の兵士には高圧的に聞こえた。普段なら気になる程度で済んだのだろうが、反妖魔族の機運が盛り上がっている状況では充分な火種となった。
「御子様に危害を加える恐れがある者を通すわけにはいかぬ。早々に立ち去れ!」
そう言いながら、同僚の兵士と槍を交差することでイーリスたちの入域を拒否した。イーリスはその行動に怒りを覚え、
「下郎が! 下がりなさい! 私は月の巫女! 鬼人族の兵士如きの許可は必要としない!」
その言葉に気が短い兵士が激高する。
「伝令! 月魔族が御子様を攫いに来たと族長たちに伝えよ! 誰でもよい! 増援を呼べ! ここを一歩も通すな!」
兵士の叫びに大政庁の中から武装した兵士たちがワラワラと飛び出してくる。事情は分からないものの、月の御子の危機であると聞こえており、全員が殺気に満ちた目をしていた。
イーリスはその行動に驚愕し、どうすべきか悩んだ。
(どういうことなの? 謁見を希望しただけで兵士が襲い掛かってくるなんて……)
動きを止めた彼女に代わり、キーラが翼魔たちに命令を発していた。
「イーリス様をお守りせよ! だが、こちらから手を出してはならん!」
イーリスとキーラの周りに屈強な翼魔たちの壁ができる。その壁に中鬼族の兵士たちの足が止まった。いかに頭に血が上っているとはいえ、闇の神殿の神官長である月の巫女に手を上げることが躊躇われたのだ。
中鬼族と翼魔のにらみ合いが始まった。しかし、すぐに救いの主が現れた。
「何をしておる! 御子様の宸襟を騒がすとは何事であるか!」
大鬼族特有の低く重い声が周囲に響く。中鬼族の後ろに巨大な体躯を持つタルヴォ・クロンヴァールの姿があった。彼は伝令から月魔族が現れたと報告を受け、混乱が生じないよう迎えに現れたのだ。
イーリスはタルヴォの姿を見て心の中で安堵する。しかし、その心中を悟らせないよう毅然とした表情で問い始めた。
「タルヴォ殿。説明してくださらないかしら? 月の巫女である私に剣を向けるということは闇の神に剣を向けることと同じです。鬼人族はソキウスを裏切るおつもり?」
彼女はここで大きなミスを犯した。普段のタルヴォであれば、月の巫女の名を出せば折れただろうが、月の巫女、すなわち闇の神殿自体が疑われている状況では最悪の言葉だった。
「神殿は御子様を拉致し、害そうとするという疑いがある。兵たちは御子様をお守りするために自らの義務に従ったにすぎん。第一、御子様に謁見するといいながら、何ゆえ眷属を伴っておるのだ。闇の神の御遣いであらせられる御子様に対して無礼であろう」
普段無口なタルヴォにしては舌鋒鋭く反論した。イーリスはそこでようやく自分のミスに気付いた。
(巫女の権威を振りかざしたのは失敗だったわ。向こうには御子様がいらっしゃる。御子様の信頼を失った月魔族は、彼らにとって既に敵ということね……)
そこで戦術を変えた。高圧的な表情から柔和な笑みに変え、
「おっしゃる通りですわ。今回は私の不手際のようね。キーラ、あなたは翼魔たちとここで待っていなさい。タルヴォ殿、これでいいかしら?」
タルヴォは無言で小さく頷き、「イーリス殿は儂が案内する。キーラ殿と翼魔を控え室に案内しろ」と中鬼族の兵士に命じた。兵士たちは直属の上司ではないタルヴォの言葉に反発しようとしたが、彼の有無を言わさぬ雰囲気に「はっ!」と答えることしかできなかった。
イーリスは最悪の事態は避けられたものの、自分の置かれた状況が決して楽観できるものではないと危機感を持つ。
(あの冷静なタルヴォまで……サウルはどこまで鬼人族を掌握しているの? もしかしたら御子様までも……そうであるなら、拙いことになるわ。彼らがもし“神降ろしの儀式”を行えば……危険すぎるわ……)
不安を抱きながらも笑みを絶やさぬように気をつけながら、大政庁の階段を上っていった。
新たな謎の種族黒魔族という存在が出てきました。
今のところ、外伝である「ドリーム・ライフ」に少し出てきただけの存在ですが、この時代の8年前に行動を開始しているサウルが今何をしているのか、その疑問は追々解消されるはずです。
(随分先になるような気もしますが……)
トリニータス・ムンドゥス~聖騎士レイの物語~2の発売から十日ほど経ちました。相変わらず売れているのかいないのか分からない状況で、第3巻のお話も全くありません。
もし、ご購入頂いた方がいらっしゃいましたら、アマゾン様のカスタマーレビュー等に評価をいただけると大変助かります。
よろしくお願いいたします。




