第二十八話「ルナの策略」
トリア暦三〇二六年二月八日。
鬼人族の都ザレシェから北へ三百五十km、そこに月魔族の都ルーベルナはあった。
静寂に包まれた都に一人の伝令が駆け込んできた。彼は月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカの命令を受けた小鬼族の戦士だ。
一月二十日に西への侵攻拠点レリチェ村を発してから半月以上、走りに走りボロボロになりながらもようやく到着したのだ。
レリチェからルーベルナまでは六百五十キメル、厳しい真冬の街道は危険に満ち、猛烈な吹雪や危険な魔物に遭遇しながらも単身で駆け抜け、“月の巫女”であるイーリス・ノルティアに謁見し“月の御子”奪還の報を直接が届けた。
イーリスは上機嫌で「ご苦労でした。ゆっくり休みなさい」と小鬼族戦士を労う。謁見の間で彼女と共に報告を受けた神官たちは自らの目を疑った。選民意識の強い月魔族の最高指導者が鬼人族の、それも一兵士に声を掛けることはなく、普段なら一瞥するだけたっただろう。
そんな神官たちの驚きも月の御子奪還の報という一大ニュースに簡単に消え去った。
月魔族にとって月の御子はまさに闇の神と同義であり、神の降臨が近いことに歓喜したのだ。
「御子様はお迎えにいかねばなりません」と言って神官たちに人選を任せ、自らは闇の神殿で神に感謝の祈りを捧げる。
(ようやく我らの悲願が達成されるのですね。我らを魔物のように追い払った西の者たちに、他の全ての神を信じる者たちに神の鉄槌を下すことが……)
神官たちは翼魔族のキーラ・ライヴィオ他九名の翼魔族を派遣することを決める。翼魔族はすべて戦闘経験のある優秀な呪術師であり、更に十体の翼魔を護衛につけることが決まった。
イーリスは月魔族が出迎えにいかないことに不満を漏らすが、神官から「月魔族の呪術師はお迎えした後の儀式に必要です」と諭され、「仕方ありませんわね。引き続きヴァルマに指揮を任せましょう」と渋々承諾する。
ルーベルナには数百人の月魔族が暮らしているが、戦闘経験を持つ者は極端に少なかった。これは出生率が極端に低い月魔族の血統を守るための措置であり、アクィラ山脈の西に向かう者は翼魔族と決まっていた。ルナを奪還したヴァルマは戦闘経験も持つ月魔族という稀有な存在だった。
呼び出されたキーラたちはイーリスの前で跪き、頭を垂れる。
「月の御子様がお戻りになられました」
その言葉に翼魔族たちの顔に歓喜の表情が浮かぶ。しかし、巫女の前ということでそれを言葉にすることなく頭を垂れていた。
「正確な場所は分かりませんが、恐らくザレシェ辺りにおられると思います。あなたたちに御子様をお迎えするという名誉ある任務を与えます。可能な限り迅速にザレシェに向かいなさい。ヴァルマを見つけ、彼女の指揮下に入るのです」
イーリスはそう命じると、一通の封書をキーラに手渡した。
「ここに新たな指示が書いてあります。これをヴァルマに渡しなさい」
キーラは捧げ持つように受け取ると、謁見の間から退出する。
歓喜に沸くキーラたちはすぐに出発の準備を始める。真冬の飛行ということで防寒に主眼を置き装備を整えていく。更に早急な帰還が必要になるため、帰路も飛行することになり、ルナのための篭も用意される。それらの準備のため一日を要し、二月十日にザレシェに向けて出発した。
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二月十一日。ルナは鬼人族たちの想像を超える熱烈な歓迎に困惑していた。
(思惑通りなんだけど……こんなに簡単にいくなんて、何かおかしい気がする。でも、この人たちを味方に付けておかないとルーベルナに送られてしまう……)
内心の困惑を隠しつつ笑顔を作り、鬼人族たちの歓迎の宴に付き合っていく。それだけではなく、族長会議の長であり、最も力を持つクロンヴァール家のタルヴォに接近し、彼の庇護の下に入ろうと考えていた。
彼女の護衛であるイェスペリ・マユリはクロンヴァール氏族の出身で、タルヴォの嫡男オルヴォ・クロンヴァールの副官的な地位にあった。ルナは愚直ではあるが忠義に篤いイェスペリと同様に、クロンヴァール家も信用できると判断したのだ。
(中鬼族はあまり信用できないわ。アルノという人は処刑されたけど、最初はみんな私のことを疑っていた。それが突然手の平を返すし……)
それでもブドスコ家やバインドラー家といった力のある氏族の宴には顔を出している。特にこれといった理由はないが、味方は多い方がいいと考えたためだ。
(ヴァルマの話だと、そろそろルーベルナに向けて出発しないといけないみたいだし、どうしようかしら。ルーベルナまでは三百五十キメル。道も険しくなるから半月以上は掛かるんだけど、聖君が追いかけているとしても、できるだけこの場所で時間を使った方がいいはず。でも、本当に追いかけてくれているのかしら……)
彼女が拉致されてから既に一ヶ月半。その間、レイたちと接触することもなく、ただ“守ってみせる”というレイの言葉だけを信じて耐えていた。しかし、本当に自分を助け出そうとしているのか、特にウノら獣人奴隷たちの凄まじい能力を知っているだけに、未だに連絡が来ないことが不安でたまらなかった。
(あの人たちなら連絡してきてもおかしくはないと思うんだけど……いいえ、絶対に聖君なら何とかしてくれる。この世界にいる数少ない同胞なんだもの……)
ルナは頬をパーンと叩いて気合を入れる。近くに控えていた侍女エリーが驚き、「どうかなさいましたか」と駆け寄るが、ルナは「何でもないわ。少し眠気を覚ましただけよ」と答え、「今からソメルヨキ家の宴に参加するのよね」と話題を変える。
(私ができることは鬼人族を味方につける。そして月魔族と対立させる。それで時間を稼いで聖君たちが動いてくれるのを待つ。彼に頼っているだけで情けない話だけど、これしか思いつかない……でも、私が“儀式”に使われたら世界が滅びるかもしれないなら、どんなことをしても阻止しないといけない。怖いけど、このナイフで自殺することも考えておかないと……)
懐に入っている小さなナイフに触れる。これはザレシェに来る途中で偶然手に入れた物で果物ナイフ程度の貧弱な物だが、頚動脈を切ることならできると自害用に肌身離さず持っていた。
ルナは漆黒のドレスに着替え、ソメルヨキ家の屋敷に向かった。
ソメルヨキ家の屋敷はザレシェの中心、大政庁に近い場所にあった。華美ではないが風格を感じさせる佇まいで、小鬼族一の名家の屋敷であることが窺える。
鬼人族の家屋は茅葺屋根にやや黄色い漆喰の壁、引き戸が多数使われており、どことなく古い日本家屋に似ている。この屋敷も檜のような木の皮で作った檜皮葺の屋根であり、どことなく神社を思わせる佇まいを感じ、ルナは懐かしさを胸にしながら屋敷に入っていく。
中も日本家屋に似ており、板張りの床で靴を脱いで生活するスタイルだ。さすがに畳はないが、木の皮を編んだラグのような敷物が敷かれており、調理・暖房兼用に作られた囲炉裏とあわせて古民家を思わせる。
当主であるソルム・ソメルヨキは「このようなあばら家にようこそおいでくださった。大したことはできぬが、ごゆるりとしてくだされ」と相好を崩して歓迎する。
大鬼族には慣れたものの、ゴブリンに似た小鬼族の男性には未だに慣れていない。駆け出し冒険者時代に討伐していた相手に似ているためで、同様にオークに似た中鬼族の男性も苦手だ。もちろん、大鬼族の男性もオーガに似ているが、オーガのような大物とはあまり遭遇しなかったことから逆に馴染みがなく、造りが怖い顔の男性と言う程度の認識で忌避感は少ない。
ルナは引き攣った顔で「歓迎の宴に感謝いたします」と答え、大きなクッションに腰を下ろす。その後ろには大鬼族の護衛イェスペリがおり、彼の身体は小鬼族の屋敷には大きすぎるのか、窮屈そうに胡坐を掻いている。
いつもと異なる点がある。常に行動を共にしているヴァルマの姿はないのだ。
これはルナが命じたためで、先日の族長会議でも分かるように鬼人族の月魔族の呪術師に対する忌避感は非常に強く、無用な軋轢を生じさせないようにとの配慮が表向きの理由だ。ヴァルマは不満に思うものの、この街の鬼人族がルナに危害を加えることはないと判断し、ベントゥラ氏族の屋敷で待機している。
しかし、ルナには別の思惑があった。ヴァルマは何度となくルーベルナへの出発を促し、ルナが嫌がる素振りを見せても自分の主張を曲げようとしなかった。更に鬼人族との関係が親密すぎると諫言していた。それに煩わしさを感じたことと、鬼人族と味方を得た今、ヴァルマを傍に置く意味が無いと思い始めたのだ。ただ、月魔族の力は侮り難く、完全に決別する踏ん切りがつかない。
贅を尽くしたとは言い難いが、真冬にしては豪華な食事が供される。囲炉裏で焼いた川魚や味噌のような調味料を塗った肉料理、更に新鮮な野菜が所狭しと並べられていく。穀物でできたどぶろくのような濁った酒が平らな杯で出されるが、ルナは口をつける程度でほとんど手を伸ばさなかった。
(お酒を見ると思い出すわ。あの村のお酒は本当に美味しかったって。ふふふ、昔は全然美味しいと思わなかったんだけど。私も少し大人になったのかしら)
人間の女性とほとんど変わらない小鬼族の女性たちが彼女の世話をする。
(女の人はほとんど人間と変わらないからいいんだけど、見た目がゴブリンにしか見えない男の人はちょっと……冒険者になったばかりの頃に散々脅されたから。でも、今思うと全然危険なんてなかった。本当に私は子供だったわ。あの人がどれだけ私のことを守ってくれたか、今になって分かるなんて……)
宴は滞りなく進み、ソメルヨキ家の主だった者たちが次々と挨拶をしていく。
「さすがは御子様ですね。闇の精霊たちが周りで楽しそうに踊っているようです」
そう言って、小鬼族の呪術師スロ・ソメルヨキが牙を見せる。彼としては笑顔を作っているつもりだが、ルナには自分に喰らいつきそうな凄惨な表情に見えていた。
「闇の精霊が? そうですか。ヴァルマも時々同じようなことを言いますが、私には全く感じられませんね。スロ殿は優秀な呪術師なのですね」
ルナはその恐ろしい顔に引き気味であったが、それはおくびにも出さず、笑顔で会話する。しかし、内心では別のことを考えていた。
(今のヴァルマはまだ信用できるわ。でも、彼女は月魔族。未だに儀式のことを一切教えてくれないし、早く出発しろとしきりに言ってくる。鬼人族を味方につけた今、彼女は必要ないかも……でも、月魔族の闇の魔法は危険だわ。私はともかく、鬼人族にはよく効くと言っていたから。だとすれば、優秀な呪術師を味方につけておくことはこの先役に立つかもしれないわ……)
月の御子に“優秀な呪術師”と評され、スロは「身に余るお言葉」と感動を隠すことなく平伏する。
彼女は「私は思ったことを言っただけですよ」と微笑みかけ、更にソルムに向かい、
「ヴァルマは優秀な呪術師ですけど、治癒魔法はそれほど得意ではないようです。スロ殿をお貸しいただけるなら、私も安心なのですけど……」
ルナはレリチェ村にたどり着くまでに高熱を発し死を覚悟したと付け加える。
「確かにあの時の御子様は苦しそうであられた」とイェスペリが言うと、ソルムは「そのようなことが……」と絶句し、「御子様を危険に曝すとは月魔族も口ほどにもない」とヴァルマを非難する。
「我がソメルヨキ家に否はございませぬ。スロ、これ以上ない名誉だ。御子様のお供をせよ」
ソルムがそう言うとスロは「はっ!」と言って頭を下げる。
「ソメルヨキ家に必要な方ですのに……本当によろしいのですの。治癒師が足りないということは?」と気遣いをみせる。
「我がソメルヨキ家は代々呪術師を輩出する家系。スロ以外にも治癒師はおります」と胸を張って答えるが、「私に才はないのですが」と笑う。
「私も先日まで魔法は使えませんでしたから。いつ使えるようになるか分かりませんよ」
ルナがそう答えると、ソルムたちは目を見開いて驚く。ルナはそれに気づかない振りをして話を続けていく。
「ソキウスに来てからです。闇の神の力を感じるようになったのは。でも、まだまだ未熟なんです。ですから、スロ殿にはよろしくお願いしたいですわ」
「スロとお呼びください」といい、「身命に賭して御子様をお守りいたします」と深々と頭を下げる。
ルナはヴァルマの対抗馬には少し弱いものの、新たな味方を見つけたことに心から満足していた。
(ヴァルマがイェスペリやペッカを操ろうとしてもこれで分かるわ。あとはクロンヴァール家と大鬼族を味方につければ、月魔族も簡単には手出しできないはず……)
ルナはそう考え、積極的に演説を行った。族長たちを掌握したとはいえ、民衆を味方にすれば更に有利になると考えたのだ。
小雪が舞う中、ザレシェの街角で民たちに言葉を掛け、彼女の言葉に闇の精霊たちが力を載せていく。まさに“言霊”という言葉が相応しいほどの力を持った演説だった。
「……私は鬼人族が嫌いでした。私たちが住む土地を襲い、仲間たちを殺したからです。ですが、今では考えを改めています。皆さんも被害者だったのだと……ソキウスの理想はすべての種族が平等であることです。しかし、今のソキウスはどうでしょうか! ルーベルナの一部の神官たちは自らを闇の神の代弁者であると強弁し、平等の精神を踏みにじっています。私は月の御子として、この状況を看過することはできません!……」
ルナの扇動に民たちの反月魔族、反ルーベルナ感情は一気に燃え上がっていく。ザレシェにも極少数の翼魔族がいるが、彼らは自分たちの屋敷から出ることも叶わず、更にはルーベルナの出先機関である闇の神殿が封鎖され、翼魔族の神官たちは神殿から排除された。
この事態をタルヴォは憂慮した。彼はルナを屋敷に招く栄誉を他の氏族に譲っていたため、大政庁で魅了されたものの、完全に心酔するには至らず自我を保っていたのだ。
(御子様のおっしゃることは分かる。だが、この状況はいささか拙いのではないか。このままでは“月の御子”と“月の巫女”の二つにソキウスは割れる。このような時にソルムの知恵が必要なのだが、奴ですら御子様に完全に心酔しておる……)
タルヴォは翼魔族の屋敷を自らの氏族に警備させるとともにルナに謁見を求めた。




