第十七話「扇動」
今回もルナ側の話です。
トリア暦三〇二六年、一月二十六日の夕方。
実質的な国境であるレリチェ村を発してから四日目、ルナたち一行は中鬼族の町、クフィリに到着した。
クフィリはレリチェから東に約百kmに位置し、アクィラの麓から続く森を出た草原地帯に作られている。町の周囲の白銀の平原には農村が多く存在し、生命を拒絶するような極寒の季節であるにも関わらず豊かな土地であることが窺える。
大鬼族戦士に守られた豪華な馬車は多く注目を集め、沿道には凍てつく寒さの中、多くの中鬼族の民たちが馬車の中の人物について噂していた。
月魔族のヴァルマ・ニスカが現れると、情報通の者が「月の御子の一行だ」という声を発した。レリチェ村から出された伝令により、月の御子が鬼人族の都ザレシェを経由して妖魔族の都であるルーベルナに向かうことは伝えられていたのだ。
しかし、それまでの村々とは異なり、歓迎の声はなく、眉を顰めるような遠慮のない視線が向けられていた。ヴァルマはその非礼に対し、内心では激怒するものの、表面的には無表情を貫いていた。
(中鬼族は何を考えている! 御子様に対して非礼すぎる……)
この仕打ちに対し、鬼人族の都ザレシェで抗議しようと考えるが、現状では中鬼族の協力が得られないことには、街道での移動に支障が出る可能性がある。そう考え、怒りを無理やり押さえこんでいる。
クフィリの町には城壁がなかった。市街地と農地との区切りに簡単な木の柵があるだけで、非常に無防備に見える。
ルナは中鬼族たちの不快な視線を感じながら、防備の薄さに違和感を抱いていた。
(永遠の闇は危険な土地だと思っていたけど、この辺りはそうでもないのかしら? 森からもそんなに離れていないし、城壁とは言わないけど、もう少し頑丈な壁がなくても大丈夫なのかしら?)
その疑問をヴァルマにぶつけると、「確かに危険ですが、中鬼族は元々そのようなことに無頓着な種族ですので」という呆れるような答えが返ってきた。
そして、馬車の窓を僅かに開けて、外を指差す。
「彼らは魔物が入り込んできても倒せばよいと考えているのです。ご覧になってください。皆、町の中でも武装していますから……」
そう言われて見てみると、中鬼族の民たちは皆、剣か斧を持ち、防寒着の下には革鎧を身につけている。ルナにとって鬼人族の年齢は分かりづらいが、まだ子供といってもいい年の者まで武装していた。
「確かにそうね。でも、やりすぎのような気もするけど」
ヴァルマは頷きながら、
「中鬼族は“力こそ全て”という考えが強いのです。魔物に殺されるような者は生きる価値がないと考える者が多いのです。より力のある大鬼族の方がよほど理知的なのですが……」
ルナは小さく頷くと、何気なく話題を変えた。
「だとすると、何の力もない私には価値がないということね」
その言葉をヴァルマは「いいえ!」と即座に、そして強く否定する。
「御子様には我らソキウスの民すべてを率いていく力をお持ちです。これは腕力や魔力と言ったものとは関係ございません」
ルナは薄く笑い「そうね。私には腕力はもちろん、魔力も誇れるほどはないわ」と自嘲する。その言葉に対してもヴァルマは頭を振る。
「いいえ、少なくとも魔力につきましては、私よりも、いいえ、月魔族の誰よりもお持ちでございます」
その言葉に、外を眺めていたルナはヴァルマの方を振り返る。そして、「えっ! 嘘……」と絶句する。ヴァルマは静かに笑みを浮かべながら、
「強い闇属性の力を感じます。ですが、私のお伝えしたいことはそのようなことではありません。御子様は闇の神の現身、その神々しさはそれだけで力となりうるのです」
「その割には、鬼人族は何も感じていないようだけど?」
やや意地の悪い言い方で反論するが、すぐに「まあいいわ。私を必要としてくれる人たちがいるのなら」と言って笑顔を見せ、話題を変える。
だが、心の中では別のことを考えていた。
(中鬼族は明らかに“敵”ね。うまく利用しないと……こんな時、聖君が居てくれたらよかったのに……あのくらい頭が良ければ今の状況をうまく使えると思うんだけど……)
そこでレイの“二つ名”を思い出し、噴出しそうになる。
(“白き軍師”なんて……学校の頃からは想像できないわ……)
そして彼女が知るもう一人の“二つ名”持ちのことを思い出す。
(“真闇の魔剣士”……あの人はこう呼ばれるたびに本気で嫌そうな顔をしていたわね。聖君も同じなのかしら。案外嬉しかったりして……)
そんなことを考えているためか、ルナの表情は明るかった。
隣にいるヴァルマはルナの表情が明るくなったことに安堵する。だが、その安寧はすぐに破られてしまった。
馬車が突然止まり、外では大鬼族の戦士イェスペリ・マユリの「そこを通してもらおう」という野太い声が響いていた。
ヴァルマが馬車の外に出ると、数十人の中鬼族戦士が街道を封鎖していたのだ。
「私は月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカよ。重要な任務の途中だから、邪魔はしないで頂戴」
中鬼族の支配地ということで、やや強めの口調だが怒りをぶつけるようなことはしなかった。だが、街道を封鎖する中鬼族戦士たちは一向に道を空ける素振りを見せない。
一人の若者――二十代前半くらいに見える裕福そうな若者――がイェスペリを睨みつける。
「味方を見捨てて逃げたそうだな」
その言葉にイェスペリ以外の大鬼族戦士が一歩前に出る。だが、イェスペリが右手を横に出すと、悔しそうな表情を浮かべて再び元に位置に戻った。
「我らは任務を遂行しただけだ。恥じるべきことは何もない」
中鬼族戦士トゥロ・ユハントは「レリチェからの報告は知っているぞ」と言い、侮蔑の表情で「俺たち中鬼族は最後の一兵まで戦ったが、お前らは女を運んだだけだそうだな」と言い放った。
その言葉にさすがに大鬼族戦士たちも怒りの声を上げる。
「貴様に何が分かる! 俺たちがどんな想いで戻ってきたのか……」
更に言葉を続けようとしたが、イェスペリの「もうよい!」という言葉で口をつぐむ。
「そのような詰まらんことを言うために道を塞いだのか。ならば、満足しただろう。すぐに道を開けろ」
感情を排した声でそう告げるが、トゥロは「詰まらんことだと!」と激高する。
「俺の家族は二人とも帰ってこなかった! ユハント家から出征した戦士は誰も帰らなかったんだぞ! それでも……」
ヴァルマは「戦だったのよ」と感情を排した声でそう言うと、「あなたのご家族は無駄死にではないわ。今回の遠征の最大の目的は達したのだから」と付け加えた。
彼女自身、この若い中鬼族に対し怒りを覚えたが、この場で揉めることは得策で無いと気を使ったのだ。だが、トゥロは更に逆上する。
「無駄死にじゃなかっただと! たかが小娘一人を攫ってきただけで偉そうなことを!」
その言葉にヴァルマの我慢も限界を超えた。そして、トゥロを射殺すような視線で睨みつけ、「無礼な!」と叫ぶ。
ヴァルマの叫びが中鬼族たちの怒りに油を注ぐ。中鬼族戦士が一斉に剣を抜き、馬車を取り囲んだ。それに対抗するかのように、イェスペリたち大鬼族戦士たちも武器を構え、馬車の周りは一触即発の状態となった。馬車の中ではルナが冷静に外の様子を窺っていた。
(酷い言い草ね。侵略戦争を仕掛けておいて……でも、彼の言っている事は間違っていないわ。小娘一人っていうところは……これはチャンスかも……)
ルナは外に出ようとゆっくりと立ち上がる。侍女として付けられた人族の少女エリーが「お、お待ちください」と止めるが、そのまま扉を開けて外に出た。
「貴方の言っていることに間違いはないわ」
突然現れ、大声で話し始めたルナに全員が注目する。
「多くの人が死んで、結局、あなた方が得たのは私のような小娘一人……」
ヴァルマが口を挟もうとするが、ルナは目でそれを制すると、片膝をつき、頭を垂れる。
「誰がこのようなことを命じたのですか! 安らぎを守護する闇の神がこのようなことを命じるはずがありません! 私は“月の御子”として、このような愚かしい決定をした者を許すことができません!」
“月の御子”、すなわち神の使いであるという事実、月魔族の高位の呪術師ヴァルマが敬う姿勢、更には美しい純白の毛皮で出来たコートという出で立ちにより、中鬼族たちはルナに神々しさを感じた。それだけでなく、闇の精霊たちが彼女の周りに集まっていることで、無意識のうちに気圧されてもいたのだ。
ルナは自分に向けられる視線の変化を感じていた。
(何ていったかしら? そう、ハロー効果だったわ。ヴァルマのお陰で後光が差しているように見えているみたいね……)
自分の周りの闇の精霊の力に気付くことはなかったが、この機会を利用して魔族の間に楔を打ち込もうと考えたのだ。
(私に出来ることは少ないけど、月魔族と鬼人族の間に溝を作ることは出来るわ。いいえ、鬼人族の間でも支配層とそれ以外の間で……うまくいけば、この場で混乱が起きるかもしれない……)
それ以上深く考えることなく、中鬼族を煽ろうとしたのだ。
「中鬼族の戦士はペリクリトルで罠に嵌って殺されたと聞きました! ですが、命じた者は誰も戦場に立つことなく、安全な土地で過ごしているのです! 闇の神の意志を曲げた者、それが誰かは分かりません! ですが、これだけは言えます! 中鬼族の皆さんも被害者であると!」
ルナの言葉に中鬼族たちは困惑する。
彼らは基本的には単純な思考の持ち主ばかりで、月の御子などという眉唾もののために一族の者が死んでいったことが許せなかったのだが、当の本人が中鬼族に同情を示したため、どうしていいのか分からなくなってしまったのだ。
ルナはここで更に声を上げた。
「私はペリクリトルの戦いで捕まったのではありません。街を出た後に仲間の命を盾にされ拉致されたのです! その時、いたのはここにいるヴァルマだけです。つまり、ペリクリトルに攻め入る必要などなかったのです! 私の仲間たちも恐らく大勢死んでいるでしょう……誰がこのような無駄な戦争を仕掛けたのでしょうか。私のような小娘一人攫うだけなら、月魔族の呪術師が数人いれば済んだのです!」
その時、闇の精霊たちの力が急速に増大していた。ヴァルマには数十人の呪術師が魔法を行使する時より遥かに強い力を感じた。
中鬼族たちはルナの言葉に頷き始める。
「確かにそうだ! 月の御子を手に入れるだけなら、俺たちの仲間が死ぬ必要はなかったんだ!」
その声は徐々に大きくなるが、それに従ってルナを崇めるような表情になる者が増えていく。
「御子様のおっしゃる通りだ! 誰かが中鬼族を嵌めるために無駄な戦争を仕掛けたんだ!」
ヴァルマはこの展開についていけなかった。
当初はルナの不用意な発言で暴動が起きるかと思ったが、彼女の言葉により中鬼族の中に“月の御子”を崇める者が出始めた。結果としては“月の御子”の存在感は大きくなったが、中鬼族の間に月魔族を中心としたソキウスの支配層への不信感を植え付けることになった。
(中鬼族からすれば、御子様のお言葉は受け入れやすいわ。でも、これで我々と中鬼族の間の溝はより大きくなってしまった。御子様が神の依り代になられ、ソキウスを導くから問題はないのだけど……)
中鬼族はルナに魅了されていった。
ルナの周りで舞う闇の精霊たちが自らの意志で魅了の効果を発揮したためだが、闇属性の使い手であるヴァルマですら、その事実に気付かなかった。あまりに強い精霊の力が渦巻いていたからだ。それは数万人の観衆の中で数人の声を拾い上げることに等しく、更に彼女に対しては行使されなかったため、気付くことができなかったのだ。
この騒動の話は瞬く間にクフィリの町に広がっていった。
中鬼族たちはルナの姿を見ようと次々と集まってくる。ルナはその様子に戸惑いを隠せなかった。
(どうしたのかしら? 私が煽ったのだけど、こんなにも人が集まるなんて……これも月の御子の力なのかしら?)
それでもこの状況を利用しようと、演説を続けていく。そして、月魔族の都ルーベルナや鬼人族の都ザレシェの指導者たちを糾弾し始めた。
「私は問いたいのです! 戦士たちは勇敢に戦い、死んでいきました! それを命じた者はどこにいたのかと! なぜ、戦士たちは異郷の地で誰にも看取られることなく死ななければならなかったのかと! 私の仲間だけでなく、皆さんのご家族がなぜ死ななければならなかったのかと! ルーベルナの指導者たち、ザレシェの指導者たちはなぜ、戦士たちと共に戦わなかったのかと!……」
この時、ルナは一種のトランス状態になっていた。
彼女自身、なぜこのような言葉が口を突いてくるのか、疑問に思っていたが、高ぶった精神は湧きあがる言葉を止めることはなかった。
「私はここに連れてこられた時、皆さんを敵だと思っていました。ですが、皆さんも私と同じ、被害者だと気付いたのです! 家族を、仲間を失った者同士だと……」
クフィリの町に大きなうねりが湧きあがっていく。中鬼族たちはルナを月の御子として熱烈に迎え入れた。
演説を終え、馬車の中に戻ると、急速に心の高ぶりが収まっていく。
(私は何を言っていたのかしら。あんなセリフがどうして……少し煽るだけだったのに……分からない……)
ヴァルマは中鬼族たちの敵意を感じながらも、ルナが神の代わりに自分たちを導いてくれる者であると確信し、歓喜に打ち震えていた。
(やはり御子様は神の御使い! 私は今、神と共にある……)
困惑の表情をしたルナとは対照的に明るい表情のヴァルマ、更にはこの状況についていけない二人の人族の少女。馬車の中は混沌とした空気に包まれていた。




