第十六話「ルナの決意」
ルナ側の話です。
トリア暦三〇二六年、一月二十六日。
レイたちが絶望の荒野に入った頃、ルナは月魔族の呪術師、ヴァルマ・ニスカに連れられ、一路、魔族の国ソキウスの都ルーベルナに向かっていた。
レリチェ村で手に入れた馬車と暖かい衣類で、厳寒の地を進む割には快適だった。レリチェを出発してから四日経つが、野営は一度だけで済んでいる。更にその野営も街道沿いに設置されている野営場所――食事の準備ができる炊事場がある広場――を使っており、暖かな食事を与えられた上、豪華な馬車での睡眠であり、アクィラの森を連れられていた時のような寒さに震えることはなかった。
ルナは途中で寄った村での歓迎のことを思い出していた。
(本当に神様扱いだったわ。思ったより人族が多かったけど、それでもこの扱いって……西から逃げてきた人たちの子孫だということだけど、宗教とか教育の影響なのかしら。この辺りの話はヴァルマも教えてくれないし……)
レリチェ村までは軍事道路としての街道が整備されており、中継地点としてところどころに村が作られていた。当初は開拓に積極的ではない鬼人族が東の街から出ることを嫌がり、中々整備が進まなかったが、西から逃れてきた人族や獣人族は自分たちの土地がもらえることと、選民意識の強い鬼人族の街に住みたくないことから、宿場町の整備に積極的に関わり、中継地点の村は徐々に整備されていった。その結果、レリチェ村の東側にある開拓村では人族や獣人族の割合が多い。
その人族や獣人族たちだが、彼らは自分たちを受け入れてくれたソキウスという国に忠誠を誓っており、その指導的な立場にある月魔族に憧憬の念を抱いている者が多かった。これは見た目の美しさと共に妖魔族――月魔族、翼魔族など翼を持つ魔族の総称――たちが行ったプロパガンダの成果でもある。それだけではなく、鬼人族とは違って、西から逃げてきた人たちと接触する機会が極端に少なく、そのため、不快な思いをしたことがないということも理由の一つであった。
人族や獣人族以外でも、宿場町にいる鬼人族は熱烈に月の御子を歓迎していた。彼らはソキウスの理想――西から逃れてきた者たちが連帯して国を作り、どのような種族であれ平等であるという思想――を信じている者たちであり、権力闘争を繰り返す鬼人族中枢より、いずれ現れると言われていた闇の神の生まれ変わり、月の御子に絶対の忠誠を誓っている。
ルナは過剰なほどの熱烈な歓迎ぶりに辟易としながらも、今後のことを考えて笑顔を絶やさないようにしていた。
(聖君があれほど必死に言っていたんだから、私を使った儀式は絶対にさせてはいけない。そのためには“敵”を油断させないと……今は住民の熱烈な歓迎に感動している小娘を演じる……)
そして、自分が何に使われるのかと考えると、背筋に冷たい物が流れ、心が泡立つ。
(……私をどんな儀式の生贄にするつもりなの? 私には闇属性魔法の才能がある。それも潜在能力だけなら自分以上だって、あの人は言っていた。だとすると、闇の魔物を召喚する“器”にするのかしら? まさか鬼人族がやるみたいな“苗床”にすることは無いと思うけど……もっと大掛かりな儀式……思い付くのは“神降ろし”くらいね。ヴァルマの言葉からもそんなニュアンスは感じられるし……だとすると、闇の神を現世に呼び出す依り代……)
そこまで考えてあまりのスケールの大きさに眩暈を覚える。
(神様なんて……日本にいる時には全然信じていなかったのに……)
そして、数年前のことを思い出す。
(そう言えば、この世界には神様がいるって、あの人は言っていたような気がするわ。ただ信心深いだけだと思っていたけど、本当にいるってことなんだ……でも、私に神様なんて凄い存在に対抗できるのかしら……ううん、今思い出すとあの人はこうなることが分かっていたのかもしれない。いろいろなことを教えてくれようとしていたから……)
昔のことを思い出し、涙が零れそうになる。
(逢いたい……私の手を握って励まして欲しい。昔みたいに……)
ルナは沈み込みそうになる心を叱咤する。
(あの人といることを拒んだのは私の方。あの時の私は子供だった。いいえ、今も子供のまま。全然成長していないけど、今回のことは私が自分で何とかしないといけないこと。だから、今は挫けない。聖君はきっと私を助け出そうと努力しているはず。だから、私もやるしかない!)
決意を新たにすると、横にいる月魔族の呪術師ヴァルマ・ニスカに話しかけた。
「この先の町は何という町だったかしら? 大きな町と聞いた記憶があるのだけど」
ヴァルマは「クフィリという町でございます」と明るい声で答える。彼女は月の御子であるルナが親しげな態度を見せてくれることに喜びを感じており、アクィラの森で見せたような厳しい表情を見せることが少なくなっている。もちろん、安全なソキウスの地に入っていることもあるが、頑なだったルナが協力的になり、心労が減ったことが大きい。
「今までのように歓迎してくれると嬉しいのだけど。レリチェでは結構嫌な思いもしたから」
その言葉にヴァルマが申し訳そうな表情で頭を下げる。
ルナはヴァルマの謝罪の言葉を待たずに話し始めた。
「私は拉致されたと、今でも思っています」
「そんなつもりは……」
ヴァルマは必死に言い募ろうとするが、ルナはそれを遮り、話を続ける。
「いいえ、事実は曲げようがありません。仲間の命を盾に脅されたのですから」
ルナはヴァルマの目を見ながら、更に続けていく。
「ですが、ソキウスに来てから少しだけ考えが変わりました」
ヴァルマは予想外の言葉に「お考えが変わられたのですか?」と驚きの表情を浮かべる。
ルナは「ええ」と頷く。
「私のことを必要として下さる方がたくさんいます。その方たちは犯罪者でもなく、過激な考えを持った方でもない、私と同じ普通の方たちです。私にどのような価値があるのか分かりませんが、そんな普通の方たちが私を必要としてくださるなら、応えるべきではないかと思い始めています」
ヴァルマはルナの心変わりに目を見開き、そして、平伏するように頭を下げる。
「御子様を不本意な形でお連れしたことを気に病んでおりました。そのようにお考え下さるとは……私ヴァルマ・ニスカは御子様に永遠の忠誠を誓います。何卒、我が忠誠をお受け取りください」
ルナは過剰な反応をするヴァルマに驚くが、表情には出さないよう努力した。
ルナはティセク村から自分を救い出してくれた冒険者の言葉を思い出していた。
(あの人はこう言ったわ。“今までで一番辛かったときを思い出せ。それより辛くなければ、まだ最悪じゃない。そんな時は意外と活路が見えるものだ”。確かに今の状況は人生で最悪じゃない。私の最悪はティセク村で隠れていた時。家族も知り合いもみんな殺された。私一人だけで、あの人が現れるまで、誰も助けてくれる人はいなかった。あの時に比べれば助けてくれようと努力してくれた人を知っている。ギリギリまで足掻いて、それでも生贄にされるなら、その時は命を絶てばいい……今は少しでも力をつけるべき……)
その覚悟を口にした。
「まだ受け取るわけにはいきません。一般の方たちは私を必要としてくださるようですが、ソキウスの中には必ずしも私を必要とされない方……言葉を飾る必要は無いですね。私を邪魔だと思いながら、利用しようとする方たちがいます。私はそんな方たちのために利用される気はありません! 今後も鬼人族が私を利用するだけの存在と思うようなら、自ら命を絶ちます! 以前は無理でしたが、今も出来ないと思わないことです!」
ルナの迫力に歴戦のヴァルマが気圧される。だが、不快な感情は湧かなかった。それどころか月の御子としての自覚が出始めたと嬉しくさえ思っていた。
ルナは気付いていなかったが、彼女の周りには闇の精霊が集まり、非常に強い力を放っていた。彼女の心の持ちようが変わり、精霊が反応するようになったためだ。
ヴァルマは頭を深く下げる。
(本当に御子様は闇の精霊に愛されておられる。これほどの力は誰からも、イーリス様ですら感じたことはないわ……)
ヴァルマはルナの力が魔族の実質的な指導者、月の巫女であるイーリス・ノルティア以上であると感じていた。実際、闇の精霊が見える彼女の目には祝福するかのように飛び回る精霊が映っていたのだ。
「如何に愚かな鬼人族といえども、御子様を侮るような態度はさせません。このヴァルマ・ニスカ、命に代えてもそのようなことはさせません」
そう言って深々と頭を下げるヴァルマをルナは冷や汗を流しながら見つめていた。
(この人は高レベルの魔術師。それも精神を操ることができる闇属性魔法の達人。もし、私の心を読むようなことが出来たら……唯一の望みは私には闇属性魔法が効きにくいことだけ。私に対して悪意のある闇属性魔法を掛けようとしても、闇の精霊が拒否すると言っていたはず……)
闇属性魔法は使える魔術師が少なく、今までその恩恵に浴したことはなかった。
(今考えるともっと真剣に魔法の訓練を行っておけばよかった……あの人は何とかして身に付けさせようとしてくれたのに、結局、魔力を感じることしかできなかった……でも、今はそんなことを言っている場合じゃないわ。幸い、この人は私のことを信じきっている。この人から魔法を習ってもいいかもしれないわ……)
彼女を救い出した冒険者は全属性が使える天才魔術師だった。ルナに闇属性魔法を教えたが、彼女自身の闇属性に対する印象が良くないためか、それとも別の要因かは判然としなかったが、ルナの心が闇属性魔法を拒否し、結局、魔法を修得することはできなかった。但し、基礎的な知識は持っており、心理的な障壁がなくなれば修得することができると教えられていた。
「一つお願いがあるのだけど」
ヴァルマは顔を上げ、「どのようなことでございましょうか」と即座に答える。
「私の役目というのが良く分からないのだけど、それは教えてもらえないみたいだから……」
そこで言葉を切ると、ヴァルマが申し訳無さそうに、「禁忌に当たりますので、私の口からは……」と口篭る。ルナはそれを無視してにこりと笑い、
「分かっているわ。だから魔法を教えて欲しいの。月の御子がどのような存在かは判らないけれど、少なくとも闇の神と関係しているはず。だとするなら、私にも闇属性の魔法が使えるわよね。そうじゃなくて?」
ヴァルマは無理難題を言われるのかと内心焦っていたが、ルナが月の御子としての自覚が出てきたことに歓喜の表情を浮かべる。
「もちろんでございます。元々、御子様には闇の精霊の力を知っていただく必要がございましたので、全く問題はございません」
ヴァルマは呪術師として、更には傀儡師としても優秀な人材だが、人の機微には疎いところがあった。月魔族の中で高い序列の位置におり、下位の者からは崇められることが当たり前という感覚が強く、逆に上位者である月の巫女にはどのように罵倒されようと反抗することなく服従していた。これは月魔族が闇の神の神殿を司る神官の一族であり、秩序を尊ぶためだが、月魔族の出生率が他の種族と比べて異常に低く、同族内で無用な争いを避けるという伝統も大きく関係していた。
このため、“上位者”であるルナに対してはほとんど疑念を抱くことがなかった。
ヴァルマは移動中の時間などを利用し、ルナに魔法の基礎を教えていく。
「まずは精霊の力と術者の持つ魔力の関係です……」
だが、ヴァルマの教える内容はルナの知っていることばかりであった。その話を聞きながら、別のことを考えていた。
(そう言えば闇属性の才能があるからっていろいろ教えてもらったわ。でも、その頃は闇属性魔法の使い手になることが凄く嫌だった。なぜかは分からないけど……でも、今は全くそんなことは思わない。なぜかしら……)
消えた闇属性に対する忌避感に疑問を持つものの、今は少しでも力を得るため、魔法を使えるようになることを優先した。
ヴァルマはルナの心の声に気づくことなく、更に基本の説明を続けていこうとした。
「次に呪文についてですが……」
そこでルナが「知識としては充分にあると思うわ」と遮り、自分の知っている知識を伝えていく。
「呪文は精霊たちに効率よく術者の願いを伝える言葉よね。基本となる構成は……」
一、二分説明すると、「このくらいは知っているから、実践の方をお願いできないかしら」と実際に魔法を使う訓練に切り替えるよう頼んだ。
ヴァルマはいかに月の御子といえどもいきなりの実践は難しいだろうと難色を示す。
「しかし、いきなり精霊の力に触れることはお体に影響が出る可能性があります」
「大丈夫よ。何となくだけど、闇の精霊たちが魔法を使えるって教えてくれている気がするの。こんなことは初めてなんだけど」
ヴァルマの目にも闇の精霊たちがルナを祝福している姿が見えており、間違っても彼女を傷つけることはないと感じていた。
「分かりました。では、まず精霊の力を感じていただきましょう……」
こうして、クフィリの街に向かう馬車の中でルナの魔法の訓練が始まった。




