第十話「魔族の地へ」
トリア暦三〇二六年、一月二十日の早朝。
レイ・アークライトは防寒用の装備に身を固め、小雪が舞うトーア砦――カウム王国と魔族の地クウァエダムテネブレの間にある重要な防衛拠点――の門の前に立つ。
彼に従うのはアシュレイ・マーカット、ステラの他にルークスの獣人奴隷ウノ、セイス、オチョ、ヌエベ、ディエスの五人、更に小鬼族の捕虜であるダーヴェとラウリの二人。
ハミッシュ・マーカット、アルベリック・オージェらマーカット傭兵団の主要な面々が見送りに来ていた。
「気をつけて行ってこい。無理はするなよ」
ハミッシュの言葉にレイは頷き、
「はい。必ず帰ってきます。では、行ってきます」
そう元気に答え、出発した。
レイたちは魔族の斥候を警戒しながら、アクィラの山の中を慎重に進んでいく。
彼は魔族側が前線拠点レリチェ村と西側への抜け道の存在を知られたことから、警戒を強めていると考えたのだ。
ウノたち獣人奴隷たちが周囲を警戒しつつ、前回とは違うルート――真直ぐには北上せず北東に向かうルート――を通って山道を進んでいく。険しい谷や尾根を越えるため、少数精鋭ではあったがどうしても時間が掛かってしまう。レリチェ村が見える位置に到着するまで約五十km進んだが、既に出発から三日の時が経っていた。
幸いなことに警戒していた魔物の襲撃はほとんどなく、飢えた狼たちが何度か現れた程度で、精鋭である彼らにとっては何の障害にもならなかった。
だが、厳寒の山中ということで満足な休息が取れず、精神的に弱いレイは疲労のため、口を開くことすら少なくなっていた。更にこのメンバーの中では体力的に劣る小鬼族のラウリとダーヴェも疲労の色が濃かった。
一月二十二日の夕方、アシュレイがレリチェ村への偵察を提案する。
「明日の夜にラウリかダーヴェを村に潜入させてはどうだろうか? 敵の動向を知らねば、策の立てようがないだろう」
レイは少し考えるが、考えがまとまらない。
「危険じゃないかな。知り合いがいれば、すぐに不審に思われるし……」
アシュレイは首を横に振り、
「村人だけでも千人近くいるのだろう? それに今は大規模な後続部隊もいるのだ。見咎められる可能性は低いと思うが」
その言葉を聴き、レイは目を瞑り、考えをまとめていく。
(アッシュの言うとおりかもしれないな。小鬼族なら人数も多いし、見咎められる可能性は低い。目的はルナが村に居るかどうかを知るだけだから、それほど時間は掛からないはず。ウノさんたちにバックアップしてもらえば何とかなるかも……)
そして、彼女が自分の体調を気遣ってくれたことに気付く。
(明日の夜ってことは、明日の昼一杯は休めるってことか……気を使わせちゃったな……)
彼はゆっくりと目を開ける。
「そうだね。明日の夕方までここで休もう。夜になったらラウリとダーヴェ、それにウノさんたちに偵察してもらおう」
本来であれば、一刻も早くルナの所在を確認したいところだが、今の自分にはその余裕がないことを自覚していた。
(この調子だと先が思いやられる。山の中だけじゃなく、魔族の地に入ってからも寝台で寝ることなんて出来ないだろうし……まだ、たった三日なんだ。最低三ヶ月は掛かる。僕の体力、いや、気力はもつんだろうか……)
休息のための準備を始めると、ウノがレイの前に跪く。
「レリチェへの偵察の許可を頂きたいのですが……」
明日の潜入に備えて、村の場所と警戒度合いを確認しておきたいという提案だった。
「私とディエスの二人であれば、夜陰に紛れれば見付かる恐れは少ないかと。今日のうちに確認しておけば、明日の成功率は格段に上がります」
レイはウノの提案が合理的であると思ったが、疲労の溜まった状況では容易に判断がつかない。
彼はウノとディエスの二人を見つめながら、どうすべきか悩んでいた。
(ウノさんもディエスさんもそれほど疲れているようには見えない……でも、本当に疲れていないんだろうか? もし、無理をしているなら……)
レイが悩んでいると感じたアシュレイは、
「ウノ殿は自らの管理ができる御仁だ。そのウノ殿が問題ないと言うのだ。任せてみてはどうだ?」
その言葉にレイは頷く。
(確かに本当のプロはこういう状況で無理はしないはず。ここで無理して失敗すれば、すべてが狂うから。なら、任せてみようか……)
「それではウノさん、ディエスさん、お願いします。ですが、無理だけはしないでください」
ウノは片膝をついた状態で「御意」と応え、頭を下げる。そして、すぐに夕闇の中に消えていった。
■■■
時は四日前の一月十八日に遡る。
月魔族のヴァルマ・ニスカたちは、マーカット傭兵団の待ち伏せを回避し、レリチェ村の鬼人族部隊と合流した。
合流した部隊はエイナル・スラングス率いる小鬼族・中鬼族の混成部隊だった。ネストリ・クロンヴァール率いる大鬼族部隊はマーカット傭兵団を追撃するため先行し、更にレイの罠により、大きな損害を受けたため未だ合流できていない。
彼女は張り詰めていた緊張が解れていくのを感じていた。
(ようやく、同胞たちに合流できた。まだ、危険な山の中だけど、数百人の戦士たちが守ってくれている……とりあえず、寝台に横になりたいわ……)
自らの心労が解放されたことに心を奪われそうになったが、横で不安そうにしている月の御子、ルナの姿が眼に入り、気合を入れなおす。
(自分のことより、御子様のことを考えなくては。御子様は不安なはず。戦士たちからの視線が気になっているご様子だし……それにここには使える同族がいない。私が気を抜いてはいけない……)
レリチェ村には妖魔族系――月魔族や翼魔族などの翼を持った魔族――の呪術師、すなわち魔術師は、三人しかいなかった。更に眷属である翼魔はおろか、小魔すらいない。
これは妖魔族の呪術師のほとんどが、翼魔や小魔の召喚の儀などの大掛かりな魔法を行うため、都であるルーベルナに召集されたためだ。召喚された翼魔たちだが、陽動作戦であるラクス王国東部に投入されたため、カウム王国側にはヴァルマ率いる翼魔以外投入されず、現状ではレリチェ村に翼魔はいない。
翼魔の召喚はヴァルマ級の優秀な呪術師でなければ単独では行えず、彼女ほど優秀な呪術師はソキウス全体でも十人ほどしかいない。
更にラクス東部への奇襲を行うため、大規模な転送魔法を行っている。この転送魔法で送られたのは、大鬼族の操り手であるバルタザル・オウォモエラや中鬼族のユルキ・バインドラーらで、巨大なアクィラ山脈を飛び越える魔族側の秘策だった。
この転送魔法だが、ルーベルナにある神殿の巨大な魔法陣を使い、対となる魔法陣に人を転送する。このため、ルーベルナから一方的に送り込むことしか出来ないのだが、今回のような奇襲には非常に有効だ。
今回は大鬼族と眷族のオーガも送り込んでおり、かなりの人数を転送している。このため、一度では送り込めず、数度にわたって転送を行っていた。それでもかなりの負担が掛かるため、人数を絞っており、翼を持つ翼魔族の呪術師アスラ・ヴォルティと眷族の翼魔や小魔たちは転送の魔法を使うことなくアクィラを飛び越え、中鬼族はテイマーのみ転送し、オークは現地調達していた。
この転送魔法は通常の魔法に比べ格段に魔力の消費が多い。十名以上の高位の呪術師が数日間に渡り魔力を送り続ける必要があると言われているほどだ。更に普通の魔法より精神に掛かる負荷が大きく、完全に回復するまで半年以上掛かると言われていた。このため、呪術師たちの多くが未だに復帰できていなかった。
もう一点ここに妖魔族が少ない理由があるとすれば、鬼人族が妖魔族の呪術師を煙たがったことが挙げられる。ソキウス成立当時から、鬼人族と妖魔族の関係は消極的な同盟といった感があり、鬼人族の拠点であるレリチェ村に妖魔族が少ない原因の一つになっている。
ルナが鬼人族の視線を感じ不安そうな顔をしていると、ヴァルマが「ご心配要りません。御子様に害をなす者はおりませんので」と優しく語りかける。
ルナは小さく頷くが、心の中に絶望が広がっていた。
(ついに魔族の地に連れて行かれるのね……何人いるのか判らないけど、こんなにいたら……いくら聖君が凄くても無理だわ……)
それでもルナは諦めないと心に誓う。
(何が待っているか判らないけど、諦めるわけにはいかないわ。きっと、聖君は私を助けようとしている。さっきも私を助けるための軍隊がいたのかもしれない……)
更に自分は簡単に死ぬことが出来ないと考えていた。
(……ここで死んでも聖君にはそのことは伝わらないわ。もし、死ぬとしたら、彼にそのことが伝わるようにしないと……そうね、そのためには私が自力で逃げ出すことしかないわ。逃げる途中で殺されたのなら、その情報は外に伝わるはず……)
ヴァルマはルナの心中を慮ることができないまま、彼女に話し続けていた。
「……レリチェは大きな町ではありませんが、きちんとした家もありますし、食べ物も十分にあります。今までご苦労をお掛けしましたが、今宵はゆっくりとお休み頂けるはずです……」
ルナは「そうね。本当に疲れたわ」と表情を曇らせる。それは少しでも時間を稼ぐための演技だった。
一月十八日の午後にヴァルマたちはレリチェ村に入った。
レリチェ村は危険なアクィラ山脈の麓にあるとは思えないほど平和だった。
小さな盆地のような地形を利用し、危険な魔物からの襲撃を防いでいる。この盆地には小さな川が流れ豊富な水があることと、アクィラ山脈ではあるが比較的肥沃な土地ということもあり、周囲の森を切り開いた農地が広がっている。
さすがに真冬ということで、農作業をする農民は見られないが、水路の整備などをする村人が見受けられる。彼らは魔族ではなく、ほとんどが人族や獣人族だった。
レリチェは元々西方からの逃れてきた民たちが作った村だ。
村が出来て数十年ほどはひっそりと暮らしていたが、偶然魔族軍に発見され、ソキウスに編入された。当初は魔族のことを恐れていた村人たちだったが、恐ろしげな容姿の鬼人族を始め、魔族側は村人たちを暖かく自国に迎えた。当初は心の中で反発していた村人たちだったが、税の負担は思ったより軽く、更に魔族軍が駐留することで魔物による損害が激減したため、次第に彼らを受け入れていった。高い税金や無理な賦役に喘ぎ逃亡してきた村人にとって、ソキウスは第二の祖国となった。
そんなこともあり、ルナを守るイェスペリ・マユリらボロボロになった大鬼族戦士たちを村人たちは温かく迎えていた。
(どうして……魔族は、鬼人族は敵じゃないの? この村の人たちは普通の人間や獣人にしか見えないのに……)
ルナは混乱していた。
彼女を含め、西方の人々にとって魔族は憎むべき相手であった。ラクス王国――ペリクリトルの北にある王国――の東部に侵攻した魔族は、近隣の村を襲い若い女性たちを攫って眷属であるオークを作り出したという情報が流れていた。また、実際に転送魔法で送り込まれた中鬼族の操り手たちによって、オークを召喚していた。
この情報が流れると若い女性の魔族、特に鬼人族に対する嫌悪感は非常に強くなった。ルナも若い女性が魔物に無理やり妊娠させられ、更に惨殺されたという話を聞き、オークやゴブリン並に鬼人族を嫌っている。
イェスペリらと行動を共にしてからは、鬼人族が皆、“鬼”のような種族ではなく、理性がある“人”であると判ったが、それでも一度植えつけられた嫌悪感は中々消えなかった。
レリチェ村に入ると、ここの責任者である小鬼族のエイナル・スラングスが挨拶にやってきた。合流した際にも簡単な顔合わせをしているが、安全な拠点に戻ったことから、月の御子であるルナに改めて目通りを希望したのだ。
「月の御子様にはご機嫌麗しく……」
ゴブリンのような顔のエイナルが朗々と口上を述べることに違和感を覚えるが、時折見せる表情には有能な官吏のような雰囲気を感じていた。
(イェスペリもそうだけど、この人も言われているような蛮族じゃないわ。だとしたら、私にもチャンスがあるかもしれない。月の御子っていうのは神様に近い存在みたいだし、うまく利用できれば……)
ルナはそんなことを考えながら、エイナルの口上を聞いていた。
一方のエイナルだが、月の御子を見て落胆していた。
(月魔族が言うほど神々しくはないな。隣にいるヴァルマの方がよほど貫禄がある……こんな小娘を攫ってくるだけのために千人以上の同胞が散ったのか……)
顔には一切そんなことは表さず、笑みを絶やさなかった。ただ、その笑みはルナに嫌悪感しか抱かせなかったが。
ルナの隣にいたヴァルマが少しいらついた感じの視線を送ると、エイナルは「……長々と失礼いたしました」と頭を下げ、
「御子様のご降臨ということで興奮してしまいました。それではお疲れのようですので、宿泊先にご案内しましょう」
彼は自らが司令部としている家屋近くの民家に案内した。
三角屋根の二階建ての建物だが、辺境の村にしてはかなりしっかりした造りで、煙突からは煙が上がっている。
中に入ると、人族の若い女性が二人控えており、ルナたちの姿を認めると、深く頭を下げた。
エイナルは二人を指差し、
「御子様のお世話をするエリーとポーラです。田舎の村娘であるため、ご不自由をお掛けするかもしれませんが、ご寛恕のほどを」
エリーは痩せぎすの背の高い少女で、年の頃は十五、六歳。そばかすが目立つ顔には怯えのような表情が見えていた。
もう一人のポーラも同じ年頃の少女だが、かなり背が低く、小動物のような愛らしさがある。彼女の方が好奇心が強いのか、大きな目が落ち着きなく動いていた。
ヴァルマは二人に「こちらが月の御子のルナ様です。ご無礼のないように」とルナを紹介し、
「二人には当面の間、御子様の侍女を勤めてもらいます。何か疑問があれば、どのようなことでも構いません。すぐに私に聞きなさい」
やや強めの口調で二人に命じた。
自分に侍女が付くと聞き、ルナは落胆する。
(ヴァルマだけなら隙を突くことができたかもしれないのに……多分、べったりと付き纏われるんだわ……)
ルナの思いとは関係なく、ヴァルマが声を掛けてきた。
「まだ日が落ちるまでには時間がございます。湯浴みに参りませんか」
「湯浴み? お風呂があるんですか!」
この世界では特殊な地域を除いて、王族や上級貴族以外が入浴するということはほとんどない。湯を用意する労力とコストが壁となっているのだが、この辺境の村で湯浴みという言葉が出ること自体、驚きに値する。
ルナ自身、記憶を取り戻した当時は体を洗えないことにストレスを感じていたが、ティセク村という貧村で育ったため、自然と諦めるようになった。だが、その後は入浴が出来る環境にあったため、一ヶ月近く、満足に体を拭くことさえできなかった生活に辟易としており、湯浴みという言葉に過剰に反応してしまったのだ。
「はい。村の中に湯が沸く泉があるのです。石で作った浴槽ですが、十分な量の湯が使えますので……」
ヴァルマの説明が続いていたが、ルナは「温泉か……」と心ここにあらずという状態だった。
「エイナル殿には了承を得ておりますので、よろしければ参りませんか?」
拉致され、危険な森での移動で疲弊していたが、若い女性であるルナにとって自分が臭っているという事実は耐え難かった。
そのため、憎むべき相手であるヴァルマの提案を呑まざるを得なかった。
侍女に任命されたエリーとポーラを引き連れ、ルナとヴァルマは村の北側にある温泉に向かった。そこは山裾に近く、脱衣場に使う小さな小屋と目隠し用の塀が備えられていた。
司令官であるエイナルの指示が行き届いているのか、温泉付近に人影はなかった。だが、ヴァルマには数十m離れた場所に複数の気配があることに気付いていた。
(さすがに抜かりはないわね。小鬼族はこういう時に気が利いて楽だわ。中鬼族だったら、何も考えずに近くに兵を配置したはずだから……)
温泉は日本にあるような岩風呂に近い。粗末な手桶がいくつか置いてある程度で野趣溢れる秘湯の趣があった。
掛け湯をしようとすると、侍女二人が手伝おうとしたが、ルナはそれを断り、念入りに体を洗っていく。
(酷いものね。一ヶ月近く体を拭くことができなかったから仕方がないんだけど、ティセク村にいた時でも毎日体を拭いていたのに……でも、石鹸が欲しいわ。昔使っていた香りのいい石鹸が……)
彼女の隣では同じように体を清めるヴァルマの姿があった。美しい黒髪と同じ色の黒い羽根の翼、透き通るような白い肌、女性らしい柔らかな曲線を持つ肢体を見て、溜息を吐く。
(この人の方がよっぽど月の御子らしいわ。私なんて、髪も傷んでいるし、顔も日焼けしているし……)
そんなことを考えながらも、ゆっくりと湯船に浸かり、大きく息を吐く。
(本当に気持ちがいいわ。生き返ったっていう感じね。今日は野宿でもないし、夕食も普通のものが食べられる……逃げ出せるチャンスは少ないかもしれないけど、少しでも体力を回復しておかないと……そのためには今の状況をうまく利用しないと……)
雪がちらつく灰色の空を眺めながら、決意を固めていた。




