第一話「南へ」
お待たせしました。
第四章開始です。
トリア暦三〇二五年、十二月二十七日午前八時。
月魔族のヴァルマ・ニスカは、大鬼族の操り手五名、戦士十名、更にオーガ三十体に守られ、東の大山脈アクィラ山脈の麓を南東に向けて進んでいる。
彼女が命懸けで手に入れた月の御子であるルナは、大鬼族戦士が担ぐ輿に乗せられ運ばれている。当初は抵抗していたルナも、戦争が不可避となった時点で大人しくなり、今では協力的とは言えないものの無駄に時間を費やすような行動を取らなくなっていた。
ただ、慣れない輿に長時間乗っていたためか、顔色は優れず、昨夜は食事も満足にとることなく、すぐに横になっていた。
(拙いわね。御子様のご様子がおかしいわ。素直に従って下さるのは助かるんだけど、私は治癒魔法が苦手だから……これ以上無理をさせるのは難しいわ……それにイェスペリたちの士気も最悪だし……)
昨日、十二月二十六日に冒険者の街ペリクリトルで大規模な戦闘が行われた。魔族側約五千がペリクリトルを攻撃し、冒険者たちの必死の反撃を受け、壊滅的な損害を被り敗北した。
直接戦闘に参加しなかったものの、市街戦での敗北後も配下の翼魔をペリクリトルに残しており、ソキウス――魔族の国の名前――の西方派遣軍が全滅に近い損害を受け、僅かな兵のみが撤退できたことを知った。
ヴァルマは月の御子の護衛である大鬼族の隊長、イェスペリ・マユリと彼の部下たちにそのことを告げざるを得なかった。彼らは敬愛する大鬼族部隊の長、オルヴォ・クロンヴァールが戦死し、同族である大鬼族部隊が文字通り全滅したことに衝撃を受けていた。
イェスペリはともかく、若い戦士たちの中には、同族を見殺しにしたヴァルマに対して憎しみを込めた視線を送るものもいた。
アクィラの麓には広大な森が広がっており、道らしい道はない。そもそもアクィラの麓は危険な魔物が多く棲み、ペリクリトルの上級冒険者のみが魔物の討伐のために入るだけの危険な場所だ。
そして、今の季節は厳しい寒さと断続的に吹き付ける雪が更に移動を困難にしている。幸いなことに、ここ数日の天気は安定しており、森の中の移動に支障は出ていない。だが、木々の間からのぞくアクィラの山々には分厚い雲が掛かっており、いつ吹雪が吹き荒れてもおかしくはない状況だった。
ペリクリトル近郊からソキウスに抜ける間道の入口までは、直線でも四百km弱、危険な山麓をできるだけ避けるのならば、更に五十kmほどの距離が加算される。
大鬼族と空を飛ぶことができるヴァルマたちだけなら、深い森の中とはいえ一日辺り三十km以上進むことは容易だ。だが、ルナの体調を考えると、頻繁に休憩が必要で一日辺りの移動距離は二十km程度にしかならない。実際、昨日も五時間程度で十km進むのが精一杯という状況だった。
強靭な体を持つ大鬼族やオーガはともかく、ただの人間であるルナにとって、数十日に及ぶ逃避行は大きな負担になる。精神的にも追い詰められており、健康な状態でソキウスにある月魔族の街ルーベルナに連れて行くためには、細心の配慮が必要だった。
(少なくとも御子様の防寒具を用意しないと。ペリクリトルに近いこの辺りには開拓村はなかったけど、百五十kmくらい先に街道から外れた開拓村があったはず。そこで物資を調達しないといけないわね。それにしても忌々しい。翼魔が二体では偵察も碌にできないわ……)
ルナの装備は旅装ではあったものの、寒冷地で野営を行えるほどの装備ではなかった。更にペリクリトルから西に向かう移動中に拉致されたため、馬に積んでいた予備の衣服や細々とした日常品を失っていた。まさに身一つの状態だった。
彼女たちはペリクリトルからの追撃を防ぐため、できるだけ森の中を進むようにしていた。このため、人の住む地域からかなり離れており、必要な物資の補給を行うためには、一旦西にあるアルス街道――ペリクリトルと南の王国カウム王国の王都アルスを結ぶ主要街道―――に向かうか、カウム王国近くにある開拓村を目指す必要がある。
現在、彼女が自由に使える戦力は、眷属である翼魔二体と、ハーピーが五匹のみだった。物資補給のためにヴァルマ本人が翼魔たちを率いて小さな村を目指すことはできるが、その間、ルナの護衛はイェスペリたちだけになってしまう、
イェスペリは信用に値する男だが、不測の事態に対応できるほどの臨機応変さはない。
(せめて、もう一人同胞がいたら話は違ったんだけど、御子様から離れるわけにはいかないし、翼魔だけで行動させるのも不安がある……この辺りの開拓村ならイェスペリたちの戦力で簡単に全滅させられるわ。痕跡を残すことになるけど、食料なんかも補給したいし……)
十五人の大鬼族と三十体のオーガ、更に飛行能力を持つヴァルマと翼魔がいれば、二、三百人規模の開拓村どころか千人規模の街ですら蹂躙できる。アクィラに近いこの辺りの民たちは下手な兵士よりも強いが、それでも三級相当の魔物であるオーガに対抗できる戦闘力は持っていない。更に魔法が使える自分と翼魔がいることから、ヴァルマは村を襲うリスクは痕跡を残すことだけだと考えていた。
トリア暦三〇二五年、十二月二十八日午前七時。
ペリクリトルの街では、マーカット傭兵団約百人と、彼らと行動を共にすることを望んだ傭兵、冒険者約百人、計二百人が装備を整え、整列していた。
まだ日が昇った直後で、朝もやが街を覆っていた。傭兵や馬の吐く息が白いもやの中に消えていく。
追撃隊の指揮官、マーカット傭兵団の団長であるハミッシュ・マーカットは、彼の巨体に似合う立派な黒い軍馬に跨り、全員に出発を命じた。
先頭を行くのはレッドアームズの騎馬隊である四番隊。隊長のエリアス・ニファーの指揮のもと、四番隊は一糸乱れぬ行進を見せていた。
今回の行軍では移動速度を重視しており、全員が騎乗し、更に鈍重な輜重隊がいないため、迅速な行軍が見込める。二百もの兵士と馬が移動するため、本来なら輜重隊が必要になるのだが、今回は移動速度を重視することと、物資の補給が容易な街道のみを進み、最後にはカウム王国の防衛拠点、トーア砦――魔族の国クウァエダムテネブレとの国境を守る砦――に向かうことから、あえて輜重隊を外している。
通常なら、街道を進むといっても補給物資を載せた荷馬車は必ず同行するのだが、今回に限ってはペリクリトルという物流の拠点が戦場になったことから、街道沿いの街に行き場を失った物資が多く残っているため、それに期待したのだ。
このような特殊な状況により、荷馬車を一両も引き連れないという本来あり得ない行軍が可能になった。
十二月三十日。
その日はこの世界の暦で言えば、一年の締めくくり、大晦日に当たる。
だが、追撃隊の面々に一年の終わりを祝う雰囲気は微塵もなかった。
雪がちらつく中、アルス街道の難所、カルシュ峠を無事通過し、ボウデン村という小さな村に到着した。
貧しいボウデン村で一夜を明かし、トリア暦三〇二六年の年明けを迎えていた。
レイたちは夜明け前の薄暗い宿の食堂で貧しい朝食をとると、新年の挨拶もそこそこに、南に向けて出発準備を行っていた。
指揮官であるハミッシュは、全員が揃ったところで、その日の行程を説明した。
「今日は一気にカウムに入るぞ! 距離にして六十五kmだが、道は悪くない! エリアス! 今日は商隊もいないだろうが、いつも通り先触れを頼んだぞ!」
アルス街道は主要街道であるものの、森の中ではかなり道幅は狭い。ペリクリトルでの戦闘終了の早馬を聞いた商人たちが一斉に動き始めたことから、行軍速度が上げられなかった。
途中で先頭を行く四番隊が先触れとなって道をあけさせたことから、行軍速度は上がっている。
さすがに新年一日目に当たる一月一日に動く商隊は少ないと思われるが、次の街キルナレックはこの周辺では最も栄えている街であること、キルナレック周辺は治安がかなりいいことから、新年を祝う人々で通行を妨げられる恐れがあった。
レイの隣にいるアシュレイはキルナレックを通過することに対し、僅かに落胆の表情を見せていた。
そのことをレイが指摘すると、
「ああ、緊急時なのは理解しているのだが、あの街は酒がうまいことで有名なのだ。ラスモア村の特産の銘酒が集まってくるからな……」
レイは呆れながらも、「そんなにおいしい酒なのかい。心ここにあらずって感じだけど」とからかう。
「ああ、伝説的な酒だ。何でもその酒のせいで光神教の総大司教の首が挿げ替えられたそうだ。それほどの酒なのだ。強い酒精だが、芳醇な香りが口に広がり、一度は口にすべきだと……」
アシュレイは自らが熱く酒について語っていたことに気付き、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。レイはそんなアシュレイがいつもとは違って可愛く見え、
「行きは無理だけど、帰りならゆっくり逗留できるよ。それに、そのラスモア村っていうところに寄ってもいいしね」
「そうだな。帰りに寄ればいい。ルナを取り戻しさえすれば、当面の危機は回避できるのだからな」
アシュレイは真面目な顔でレイに答えると、表情をいつものように引き締めていた。
レイたち二人の周りにはステラの他に、ルナと同じパーティにいたハルバード使いのライアン、ルークスの獣人奴隷ウノたち五人、そして捕虜にした小鬼族戦士ダーヴェとラウリの二人がいた。
ウノたちは奴隷であるが、ペリクリトルの街で冒険者と傭兵ギルドの両方に登録していた。冒険者ギルドのギルド長レジナルド・ウォーベックはペリクリトル攻防戦でのウノたちの活躍に対し、一種の褒美として五級冒険者として登録することを許可した。また、傭兵ギルドも攻防戦の前に登録したことにし、戦闘経験を有していると認定したため、レベル五十を軽く超えているウノたちは四級傭兵になっている。
ステラは楽しげに話すレイとアシュレイの姿を見て、自分たちが厳しい戦いを生き延び、再び共に旅ができていることに満足していた。だが、その一方で自分は何をすべきなのか悩んでいた。
(私より役に立つウノさんたちがいる。あの人たちは偵察でも護衛でも私よりうまくやることができるわ。私はレイ様のために何ができるのだろう……)
同じような訓練を受け、更に実戦を多く経験しているウノと自分を比較し、落ち込んでいたのだ。
同じように自分に対し、自信を無くしている者がいた。
ライアンはマーカット傭兵団と行動を共にし、自信を無くしていた。膂力を生かした攻撃に自信はあったものの、マーカット傭兵団の猛者たちと比べれば、自分の技量がいかに稚拙か思い知らされていた。
(レッドアームズは凄ぇよ。俺と大して歳が違わねぇのに、まるで敵わねぇ。俺は今まで自分には才能があると自惚れていた。だが、それは俺が周りを見ていなかっただけだったんだな……)
ライアンは朝夕に行われるマーカット傭兵団の訓練に参加し、二番隊――ハルバードやグレイブなど長柄武器を得意とする隊――の隊長、獣人の巨漢ゼンガ・オルミガの指導を受けていた。
だが、三級傭兵のゼンガ――レベル六十八――のスピードに全く付いていけないのはともかく、二番隊の七級――レベル十六から二十五――の若手にも遅れをとり、自信を失っていたのだ。
ライアン自身、農村の生まれであり、正式な訓練を受けたことはなかった。ペリクリトルに出てきてから三年ほどで、我流ながらもレベル二十三に上がっているが、その後伸び悩んでいた。
(今の俺じゃ、レッドアームズに入団することすら無理だ。まして、これからあの大鬼族と一戦交えなきゃならねぇ。このままじゃ、前にみてぇに足手纏いになるんじゃないのか……)
彼はペリクリトル攻防戦の後半戦、草原での戦いで全く役に立たなかった。攻撃力を買われ、防衛司令のランダル・オグバーン率いる精鋭部隊に配属されたものの、全く良いところなく、緒戦で負傷していたからだ。
それに引き換え、マーカット傭兵団の若手は激戦で有名なミリース谷の戦い――ラクス王国東部のミリース村近くであった戦闘――で三千のオーク相手に一歩も引かなかった者たちだ。その負い目が彼の自信を喪失させていた。
ステラはライアンの考えていることが判っていた。自分も同じようにウノたちに劣等感を覚えていたからだ。
(この人も私と同じね。自分が役に立たないと感じているわ……でも、どうしようもない。すぐに強くなるなんてことはできないんだから……)
そこで彼女の心の中に閃くものがあった。
(そうよ! すぐに強くはなれない。でも、役に立てることはあるはず。どんなことでもいい。食事の手配や馬の世話、何でもいいんだわ。あの方のためにできることはきっとあるはず……)
ステラは心の中が急に軽くなったことを感じていた。
そして、同じように悩み、雑念だらけでハルバードを振るライアンに声を掛ける。
「雑念だらけですね。周りを気にしても何も変わりませんよ」
その言葉にライアンは自嘲気味に
「分っているさ、そんなこと。笑いにきたのか?」
ステラは頭を振り、自分の考えていたことを話していく。ライアンは信じられない表情で問いかけた。
「あんたが自信を失うっていうのは信じられねぇ。剣の腕じゃ、あのアシュレイさんより上を行っているんだろ? それに前の戦いでも十分に活躍したじゃねぇか……」
ステラはもう一度かぶりを振り、ウノたちに自分の役目を奪われたと感じていることを話していく。
「……でも、私は自分の出来ることをするわ。それは誰にでも出来ることかもしれない。でも、あの方の役に立てるなら、どんなことでも。それに私はもっと強くなる……」
強い決心を秘めた宣言に、ライアンは目から鱗が落ちる思いだった。
(やれることをやるか……そうだな。今できることをやるしかねぇな。それに俺にとっても今はチャンスなんだ。ゼンガさんみてぇな優秀な人の指導を受けられるチャンスなんか滅多にあるもんじゃねぇ……それにしても、俺を励ましに来てくれたのか?)
だが、ライアンはそのことを口に出さなかった。
今までの自分の行いを思えば、口に出すことができなかったのだ。
ただ、立ち去っていくステラに対し、心の中で頭を下げ、その後は一心不乱にハルバードを振り始めた。




