第24章 有賀の聴取
「お邪魔します……」
ドアの隙間から室内を覗き込むようにして、有賀が顔を見せた。
「どうぞこちらへ」
と乱場に促されて有賀は、おっかなびっくりといった足取りで、乱場の斜向かいの席に腰を下ろした。
「有賀さん、もう少しの辛抱です。明日になれば雪崩が撤去されて、警察がここへ到着しますから」
「は、はい……」両手を膝の上に載せ、俯き加減で乱場の話を聞く有賀は、「で、でも、明日と言っても、一日は二十四時間もありますし……」
「そんなに遅くはならないでしょう」
「そ、それなら、いいんですけれど……」
「有賀さんは、普段は農業に従事していらっしゃるそうですね」
「は、はい……」
「雪が降ると農業は出来なくなるので、冬の間だけ、ここで働いていると言うことですね」
「ええ、ようは、出稼ぎで……」
「どんなものを育てているのですか?」
「主に、野菜や花を」
「おひとりで?」
「いえいえ」と有賀は、首をぶんぶんと左右に振って、「実家が農家なんです。で、私は、その農地の一角を任されて……というか、勝手に使っていまして」
「そうなんですか」
「はい。私の作る分なんて、うちの全体の収穫量から見れば微々たるもので、私の趣味の延長みたいな感じでやっているだけなんです……」
「それでも、凄いと思いますよ。野菜や花を育てるのって、管理が大変なんですよね」
「確かに大変は大変ですけれど、楽しいですよ。ああ、今度、うちの畑で採れた野菜を、乱場さまに送りますよ」
「本当ですか、嬉しいです」
「乱場さまは、好き嫌いはなさそうですものね」
「そんなことありませんよ」
「でも、ここで出された食事は、まんべんなく召し上がっていただいていますよね」
「そんなところまで見られていたんですか?」
「はい。やはり、料理担当としては、お客様のお食事っぷりは気になるものですから。だから、私、今度の事件のせいで、駒川さんと一緒に、従業員もお客様と同席して食事をいただけることになって、内心うれしかったんです。厨房からのチラ見じゃなくって、堂々と皆さんの食事風景を観察できますから……って、この話は駒川さんには内緒でお願いします。失礼ですよ、って叱られてしまいますので」
話すうちに、伏せ気味だった有賀の顔はだんだんと上向きになり、表情には笑みも見られるようになった。
「それじゃあ」と乱場は、この気に乗じんとばかりに、「その有賀さんの観察眼に期待して伺います。僕たちがここへ来てから、何か気になった点や、おかしいなと感じたことなど、そういったものは何かありませんか? どんな些細なこと、事件に無関係だと思っていることでも構いません」
うーん、と唸った有賀は、しばらく視線を虚空に留めてから、
「昨日の夜……」
「はい」
「いえ、夜と言っても、時刻の上ではもう今日になっていたんですけれど、私、ポンプの作動音を聞きました」
「――! ポンプって、厨房に設置されている、川から水を汲み上げるためのポンプですね?」
「そうです。その音で目が覚めちゃいましたから。私の部屋は厨房の隣なんですけれど、壁一枚隔てたくらいじゃ、あのポンプの音は遮れないんです。まあ、音がしたとはいっても、ほんのちょっとの間だけで、すぐに止まりましたけれど」
「ちょっとの間というのは、どのくらいだったか憶えていますか?」
「ほんの数秒くらいでした」
「今、時刻の上では今日だった、ともおっしゃいましたが、ということは、その時間――ポンプの作動音が聞こえた時間――も、憶えているということですか?」
「はい。私、目を覚ますと時間を確認する癖がついているんです。ここの仕事でも、農業でも、早起きをすることが多いものですから」
「なるほど」
「時間はですね、深夜の一時でした。もちろん、一時ぴったりではないんですけれど、一時二分とか、三分とか、そのくらいの時間だったのは間違いありません」
「そうですか。有賀さん、そのポンプを使ったのが誰なのか、確認したりはしましたか?」
「いえ、そこまではしませんでした。寒くってベッドから一ミリも出たくありませんでしたから。さすがに、ずっと音が続くようでしたら、いくらお客様でも、こんな深夜に非常識ですよって、ひとこと言いに行こうかとは思いましたけれど」
「でも、ポンプの音は数秒で止んだ」
「はい。ですから、私、安心してまた寝てしまいました」
「……それは、誰が、何の目的でやったことだとか、思いつくことはありますか?」
「……いえ。水が飲みたいのでしたら、ボトルに入れたものが台所の冷蔵庫にあるというのは、皆さんご存じのはずですし。量は1リットルは残っていましたので、それくらいあれば十分だと思いますし」
「確かに、真夏の炎天下じゃないのですから、一度に1リットル以上も水を飲む人なんていませんよね。……あのポンプの役割は、近くの川から水を汲み上げるだけなのですよね」
「そうです。水自体はきれいなので、そのままでも十分飲用できるのですが、いちおう、ポンプ吐出口のフィルターを通して使っています。落ち葉などの不純物が混じっている可能性もありますので」
「あの水はおいしいですよね」
「ええ、私も好きです。このロッジは、週一日お休みをいただいているのですが、そのときに麓の実家へ帰る際、ここで汲んだ水を大量にペットボトルに入れて持ち帰ることにしているんです、私。家族にも好評ですよ、ここの水は」
「有賀さんは、ご実家とこことの行き来は、車で?」
「そうです。車庫に私の車も入れてありますよ。でも、私は中型免許を持っていないので、ロッジのマイクロバスの運転は駒川さんにお願いしているんです」
「ということは、駒川さんもここへは自家用車で?」
「そうです。駒川さん、マイクロバスみたいな大きな車も簡単に運転してしまうのに、ご自身が乗っているのは、軽の四駆なんですよ。コロコロしていてかわいいやつ。私は、農作業の荷物運搬用も兼ねて、普通車のSUVに乗っているので、車庫を覗いたお客さんからは、よく車の持ち主を逆に思われてしまいますね」
「あはは」
「それにしても……」と有賀は小首を傾げて、「乱場さまにお話ししたら、何だか私も気になってきてしまいました。ポンプのことが……」
「わざわざ、深夜一時にポンプを動かして……しかも、数秒だけ……」
夜中にポンプの音を聞いた、という証言をしたのは、これで三人目となった。朝霧と岸長、そして有賀。間中にははっきりと、小坂井、曽根にもそれとなく訊いてみたが、眠りが深かったせいか、その三人は音には気付かなかったという。もっとも当然のことながら、それが真実かどうかまでは判断できないが。乱場自身にも、夜中にポンプの音を耳にしたという記憶はない。
「ちなみに、冷蔵庫にあった水の量に変化はありましたか?」
再びの乱場の質問に、有賀は、
「いえ、今朝確認したのですが、全然減った様子はありませんでした」
「そうですか……」
「あっ、それと」
「はい」
「今の話がきっかけで、もうひとつ思い出したことがあるんですけれど」
「なんですか?」
「昨日の夜、雨が降りませんでした?」
「雨、ですか? 雪じゃなくって?」
「はい、雨です」
「……ちょっと、僕には記憶がないですけれど……。何時頃のことですか?」
「夕食の後片付けが終わる頃でしたので……八時になる少し前だったと思います。私、厨房にいたんですけれど、外から水音がするのに気付いて」
「水音?」
「ええ。で、何だろう? 雨かな? って思って、窓を開けて外を見てみようと思ったんですね。でも、厨房の窓って、換気目的のためだけに付いている小さな回転窓で、私、あの窓を開けるのが苦手で、いつも手こずっているんですね、で、回し難い開閉用のハンドルと格闘している間に、雨音――というか水音?――は止まってしまいました。おまけにあの窓って全開にしても外の様子はよく見えなくって……。で、まだ片付けも残っていましたので、すぐに窓を――またハンドルと格闘しながら――閉じて、仕事に戻ってしまいました」
「……この時期に、この辺りで雨が降ることはあるのですか?」
「いえ」有賀は首を横に振って、「私が経験する限り一度もありませんね。今の季節、この辺りに降るのは必ず雪です。だから、変だなって思って。私の勘違いだったのかもしれませんけれど……」
「その雨は、どのくらいの間降っていましたか?」
「ごく短い時間でした。たぶん、一分もなかったのではないかと」
「そうですか……」
「……どうかされましたか? 乱場さま」
「――ああ、いえ」考え事をして俯き加減になっていた乱場は、顔を上げると、「大変参考になりました。ありがとうございます」
「私の話、何か事件に関係があるのものだったでしょうか?」
「そこまでは、まだなんとも言えませんけれど、どんな小さな情報が思いもよらない手がかりになって、解決へ繋がるか分かりませんからね」
「ですよね。そういうのって、私、憧れてるんです、実は」
「些細な手がかりから謎を解く、というやつにですか?」
「というか、その手がかりを探偵に気付かせるほうに、です」
「どういうことですか?」
「よくあるじゃないですか。助手が何の気なしにやった行動や、口にした言葉が、探偵の脳裏に引っかかって、『それだよ!』ってやるやつ」
「その、手がかりを出すほうに憧れているんですか?」
「変でしょうか? でも、かっこいいじゃないですか、『私、何か重要なことを言っちゃいました?』みたいな」
「それは、変わってますよ」
乱場が笑みを浮かべると、有賀も笑って、
「もし、私のこの証言が重要な手がかりになって、乱場さまが事件を解決したら、私、家族や友達に自慢しまくっちゃいますね」
「ぜひ、そうして下さい」
「はい」
もう一度有賀が笑ったところで、彼女への聞き取りは終了となった。




