第10章 回想へ
「待て、待て待て」
朝霧の追記によりヴァージョンアップした“滞在者名簿”を覗き込んだ汐見が、手を伸ばしてきた。
「どうしたんですか汐見さん。また飛龍革命ごっこですか」
「違うわ。何だ、その名簿は」
「私と汐見さん、さらに、乱場さんが訊き出してくれた滞在者の年齢などの情報、さらに、ギロチンの刃が落とされた時刻のアリバイの有無に、体重も書き足してみたのですけれど」
「そこじゃない。何でお前のキャッチコピーが変わってて、さらに私のも追加されてんだ」
「だって、配役から考えると、汐見さんが猪木で、私が藤波辰爾になるんじゃないかと」
「私なんかが、その偉大すぎるキャッチコピーを背負うなんて、恐れ多すぎるわ」
「書き直しましょうか? “革命戦士”にでも」
「名勝負数え歌始まっちゃうだろ。あと、ついでに、そのキャッチコピーにするなら、私の必殺技欄に“魔性のスリーパー”を追記しておいてくれ」
「卍固めでも延髄斬りでもなくて、その技を選ぶとは、さすが汐見さん、通ですね」
「本郷学園での闘魂継承者は私だと自負しているからな。ていうか、他にも余計な情報が書き足されてるし……。それと、乱場の“好きな人”の欄は消しとけって言ったろ」
「いいえ! これだけは!」
「じゃあ、次にヴァージョンアップするとき、せめて私の名前も付け足しておけ」
汐見は、はあ、とため息を吐いた。
入浴を終えると、間中、汐見、朝霧は乱場の部屋に集合し、各自が入浴時に得た情報を照らし合わせ、滞在者名簿のアップデート作業を行った。汐見と朝霧は――真ん中に座らせた乱場を挟んで――ベッドの端に腰を下ろし、間中は部屋備え付けの椅子に座り、これも部屋にあった小さなテーブルを囲む形で、四人は額を突き合せていた。
(ちなみに、入浴前に話していたとおり、実際に女性陣は最後に湯を落として浴室の掃除を行ったということだった。女性全員が全裸でその作業にいそしむ様子を赤裸々に乱場に訊かせようとした間中の口は、汐見と朝霧によって塞がれてしまった)
「こうして改めて整理してみると……」メモ帳を覗き込んで汐見が、「被害者の大瀬さんをはじめ、宿泊客全員はそれぞれ何の関連もない、見事な赤の他人同士だな」
「そうですね」と朝霧も、「何かしらの人間関係があるのは、ロッジの従業員である駒川さんと有賀さん、そして私たち本郷学園組だけですね」
「それじゃあ、このロッジに滞在している、わずか数時間の間に芽生えたってことか? 犯人が大瀬さんを殺害する動機は」
「しかも、殺し方が尋常じゃありませんよ。刃物で心臓をひと突きしたうえ、ギロチンで首を斬り落とすだなんて……」
「積年の恨みつらみ、今こそ晴らさん。て感じの殺し方だよな」
「そうですね。心臓へのひと突きはともかく、死体となったあとに首を切断してしまうというのは……」
「そこで、提案なんだけどな」
「何ですか。汐見さん」
「私たちが、ここ“スキーロッジ深雪”に来て、犯行が発覚するまでのことを、遡って思い返してみないか? いざ、こうして事件が起きてから振り返ってみると、そのときは、何気なく見過ごしたり、聞き過ごしたりしていた言動や会話の中に、何か大瀬さん殺害に至った動機が見えてくるかもしれないだろ?」
「記憶を頼りにして、ですか?」
「そう。もちろん、私たちの記憶だけじゃ心許ないから、他のみんなにも協力してもらってさ」
「そう上手くいくでしょうか。人の記憶って曖昧なものですから、それを頼りにしたところで、捜査の役に立つほどの記録が作れるかは大いに疑問です。こんな事件が起きると始めから分かっていたなら、何が起きたかですとか、他人の一挙手一投足を、次第詳細に記憶しておこうという意識が働いていたでしょうけれど。それこそ、メモを取ったり」
「でもさ、色々な探偵の事件記録小説を読むとさ、そういうのって、かなり細かく書かれてるじゃん。旅先で突然事件に巻き込まれたりしたような場合でもさ、事件が起きる前の出来事まで、綿密に」
「あれは、事件が全て解決したあとで書かれているからですよ。結末や犯人が判明しているうえで、探偵も含めた事件に関わった人たちへ書き手が取材して、事件に関する齟齬や食い違いが出ないように、ある程度脚色されて書かれているものなんですよ。だから、関係者の一言一句、一挙手一投足が、すべて実際の再現というわけではないんですよ」
「えっ? そうなのか」
「当たり前じゃないですか。事件小説の全文が事実を正確無比に模写しているなら、それを書いた作家、あるいは記述者は、どれだけ超記憶力の持ち主なんだって話になりますよ。お前が探偵をやれってレベル」
「……まあ、確かに、そうかもな」
「それとですね、ああいった小説は、事件の直前や、その最中に、どんなに印象的な出来事があったとしても、事件と直接関係のないようなものは省略されていたりしているものなのですよ」
「どういうこと?」
「汐見さん、“チェーホフの銃”をご存じですか?」
「もちろん。“ロシアン・ラストエンペラー”と呼ばれた総合格闘家だろ」
「それはヒョードルです。エメリヤーエンコ・ヒョードル。チェーホフの銃、というのはですね、お話の初期段階で提示した情報や描写に、あとになってから重要な意味を持たせる、という作劇技法のひとつです。曰く、『第一幕で壁に銃が掛けられていることが明記されたら、第二幕でその銃は発砲されなければならない』。いわゆる“伏線回収”みたいなものです。逆に言えば、お話に無関係な描写を無駄に入れ込んではならない、という警鐘と受け取ることも出来ますね。まあ、ブレイクタイム的に、本筋に関係のない会話なんかをあえて入れるケースもありますが。特に、殺人事件を扱うような話ですと、あまり緊張感のある描写ばかりが続いてしまうと、読者が疲れてしまいますから」
「なるほど」
「だから、もし、この事件が小説化されるようなことになったら、汐見さんは会話の中で、よくプロレスに関する言葉を引用していますけれど、あれは全部カットです」
「えー! どうして?」
「話には一切関係ありませんし、そもそも、プロレスを知らない人には何が何だか分かりません。『重要な暗号めいた言葉なのかも……?』と誤解されて、読者にとって質の悪いノイズになりかねませんから」
「じゃあ、出てきたプロレス用語については、私が注釈を書くよ。それならいいだろ」
「汐見さんの言動には、そういった無駄なノイズが多すぎるんですよ。例えば、今日の昼間にスキーをしていたとき、間中先生が滑走中に転倒してしまって、そのすぐ後ろを滑っていた汐見さんが、咄嗟にジャンプして間中先生を跳び越えたことがあったじゃないですか。あれ自体は、汐見さんの身体能力を物語る強烈なエピソードですけれど、これも事件にまったく無関係な事柄ですので、問答無用でカットされます」
「ちぇっ、あのジャンプはかっこよかったと思うんだけどな」
汐見は指を鳴らした。
「もっとも、この先、汐見さんのジャンプ力が事件に関連するような展開になったとしたら別ですが」
「ジャンプ力が事件に関連って、どういう状況だよ……」
「そうそう、汐見さん、あのときは本当にごめんね」
話に出ていた間中が、汐見に向かって手を合わせ、固く目をつむる。
「いえいえ、他の人のすぐ後ろを滑っていた私も不用意だったんで……」
「本当、後ろを滑っているのが汐見さんで良かったわ。でなきゃ、絶対に衝突していたものね」
「汐見さんで良かった、といえば」そこに朝霧が、「どうして先生は、今回の旅行に私たち映像芸術部を誘ってくれたんですか? 一緒に行くはずだったご友人が急用で参加できなくなったから、というお話は聞きましたけれど」
「そう。本当は、私を含めた三人で来るはずだったんだけどね。他の二人が、そろって、行けなくなった、なんて言ってきたものだから――そのうちのひとりの理由は彼氏がらみだって分かってんだけど――まあ、それはいいか。それなものでね、学校で仲のいい汐見さんと朝霧さんを誘おうと思ったの」
「確かに、私と汐見さんは、間中先生のお世話になる機会が多いかもしれないですね」
「そうそう、朝霧さんは普段からよく貧血を起こすし、汐見さんは怪我の治療でね」
「じゃあ、乱場さんは?」
「それはね……」と間中は、乱場を横目に見て、「二人を誘うには、まず乱場くんを連れていくのが話が早いかなって思ったからよ。ほら、“将を射んと欲すればまず馬を射よ”って言うじゃない」
「……そういうことでしたか」
「確かに」と汐見が、「無料でスキー旅行に行けて、さらに乱場も一緒となれば、私に断る選択肢はないからな」
「無論、私も」
と朝霧も続けた。ふふ、と笑みを浮かべた間中は、
「だからね、もうひとり分宿泊代を追加して、乱場くんを最初に誘っちゃったってわけ。どうしても朝霧さんと汐見さんと旅行に行きたいから、協力してって乱場くんに頼み込んだの」
「宿泊費をひとり分出してまで、私と汐見さんを誘いたかったってことですか? そんな手間をかけなくっても、普通に誘っていただければ、私も汐見さんも何の問題もなく了承しましたのに」
「そうそう、水くさいぜ、先生。ま、私は乱場と旅行に来られて、余計に満足してるけどな」
「それはもう」うんうん、と頷いたあとで、朝霧は、「ただ、こんな事件さえ起きなければ、もっと楽しかったのですけれど……」
「そうだ! 事件のことだ!」表情を鋭いものに戻した汐見は、「ええと……何を話してたんだっけ?」
「これまでの出来事を思い返してみようと、汐見さんが」
朝霧に言われると、
「そうだった」汐見は頭に手を置いて、「で、乱場、このアイデアは、どうだ?」
話を向けられた乱場は、頷くと、
「そうですね。いい考えだと僕も思います。ただ、それをやるには、朝霧さんも言ったように、他の皆さんにも協力を仰いだほうがいいでしょうね。僕たちの記憶だけでは限界がありますから」
「じゃあ、さっそく呼んでくるか」
ベッドから立ち上がりかけた汐見を制して、乱場は、
「今日はもう遅いです。このことを話すのは明日にしましょう」
「それもそうだな」
汐見は浮かせかけていた尻を、再びベッドにつけた。
「ただでさえ、アリバイなんかの聴取を終えたばかりです、みんな疲れているでしょうし」
朝霧が言うと、
「ああ、だが……」と汐見は腕組みをして、「その中の少なくともひとりは、事情聴取とは別のことでも疲れ果ててるはずだぜ。なにせ、大瀬さんを刺し殺して、ギロチンで首を斬るなんて非道な仕事をやってのけた犯人なんだからな……」
「あの、乱場くん」と、それを聞いた間中が、「犯人といえば、事件が発覚するまでのことを、みんなに訊くのはいいけれど、それはつまり……犯人にも――もちろん現状では誰が犯人かは分からないわけだけれど――同じことを訊くわけよね」
「そうですね」
「だったら、その犯人の言葉に信憑性は保証されないんじゃない? 自分に都合の悪い部分を黙っていたり、改竄して話してくることも十分考えられるわ」
「先生のおっしゃるとおりです。でも、それでも話を訊いてみる価値はあると僕は考えます。それに、もし犯人が何かしら自分に不都合な事実をねじ曲げて伝えようとしたり、故意に隠蔽しようとしても、それが犯人しか知り得ない情報でもない限り、同じことを見聞きした人が他にもいる可能性は高いと思います。なにせ、この事件の舞台は、迎えのマイクロバスに乗り込んでから、ここに到着してスキー、スノボを楽しんで、ロッジに帰ってきて夕食を終えたあとまでという、極めて限定された時間、空間だけで完結しているわけですから。そんな状況で、二人以上の人が同じ事柄を話しているのに、その証言に齟齬が生まれたとしたら……」
「むしろ、犯人が墓穴を掘る可能性もあるってことね!」
「はい。ですから、こういう聴取は一人ひとり個別に行うというのが捜査のセオリーですが、今回は全員を集めてやりたいと思います。そこで、誰かしらの証言に対して、“違っている”と指摘したり、されたりした人がいたら……」
「その証言内容を、詳しく吟味していけばいいわけね」
「ええ。ですが、それが他意のない、純粋な勘違いや記憶違いという場合もあるはずですので――むしろ、僕はこっちのほうが多いんじゃないかと思っていますが――二人以上の証言内容に齟齬が生じる事柄があったとしても、あまり執拗に問い詰めないほうがいいと思います。もちろん、内容は全て記録しておきますけれども。朝霧さん、お願い出来ますか」
「任せて下さい」
筆記を担当することになった朝霧は、愛用のペンを強く握りしめた。
「明日の朝食の席で、皆さんにも協力してもらうよう、僕から言いますよ。駒川さんと有賀さんにお願いしていた現場検証は、その聞き取りが終わってからにしましょう」
「それじゃあ、私が憶えていることだけでも、さっそく書き出しておきますね。記憶が薄れないうちに……」
そう言うと、朝霧は手帳にペンを走らせ始めた。
※※※
会津若松駅のロータリーに停車している、ロッジからの迎えのバスを前に、朝霧と乱場は他の二人――間中と汐見の到着を待っていた。
「乱場さんとスキー旅行に行けるなんて、私、凄く嬉しいです」
「僕もですよ、朝霧さん」
朝霧と乱場は、見つめ合うと微笑みを浮かべた。
「寒いですね……」
「そうですね……。あ、あの、乱場さん、手、握りましょうか……?」
「は、はい……」
恐る恐る差し出された乱場の手を、朝霧はそっと握りしめる。
「それにしても、間中先生と汐見さん、遅いですね……」
「そうね。寝坊でもしたんでしょうか」
「こ、このまま、先生と汐見さんが来なくっても、ぼ、僕は全然構いませんけれど……」
「えっ?」
「あ、ご、ごめんなさい、変なこと言っちゃって……」
「私も」
「えっ?」
「私も……同じこと考えてた……」
「あ、朝霧さん……」
「乱場さん……」
握り合う手を互いに引き寄せて二人は、潤む瞳で見つめ合い、そして、バスに乗り込んだ。
「駒川さん」乱場は運転席に座るロッジ管理人に声をかけ、「バスを出してください」
「承知いたしました」
アクセルを踏み込まれ、マイクロバスはゆっくりと走り出した。
「乱場さん……」
「このまま、二人で旅に出ましょう。どこか遠くへ……」
「……はい」
粉雪舞う会津の街を、一台のマイクロバスが走り抜けていく。愛する二人を乗せて……
※※※
「待て、待て待て」
「何ですか、汐見さん。せっかく筆が乗ってきたところだったのに」
「嘘を書くな、嘘を」
「違います。これはあくまで私の心象風景を文章化したものに過ぎません。ほら、事実だと思っていたら視点人物が見ている幻だったとか、そういう騙しを使ってくる小説だって、たくさんあるじゃないですか。それと同じことです」
「視点人物ていうか、思い切り三人称の文体じゃねえか。三人称で虚偽の記述をするのは、ダメ、絶対」
「ちぇっ……」
「もし、この事件が小説化されたら、ここでいったん章を切って、次章からはみんなの聞き取りをもとに構成した、事件が起きる直前までの経緯が書かれることになるな。もちろん、虚偽の記述のない三人称でな」
「そうは言いますが、汐見さん、その“虚偽かどうか”は、どうやって判断するんですか? 口だけなら何とでも、自分に都合のいいことや願望欲望垂れ流しの発言が出来ますよ。さっきの私みたいに」
「自分で言うなよ。ええと、それはだな……」
汐見が首を傾げたところに、乱場が、
「聞き取りの中で、二人以上の人の口から確認が取れたことだけを書けばいいんですよ」
「なるほど。例えば、今の朝霧の記述でいえば、書いた本人がどんなに事実だと言い張ったとしても、一緒にいた乱場が『そんな事実はなかった』と否定してしまえばそれまでで、採用されなくなるってわけだな」
汐見は指を鳴らした。
「お、汐見さん。いつもと違って妙に調子がいいじゃありませんか」
朝霧が感心した声を出すと、
「『調子がいい』は余計だ」
「やっぱりいつもどおりでした」
汐見の答えに、朝霧は、はあ、とため息を漏らした。
※革命戦士
プロレスラー長州力のキャッチコピー。ライバルの藤波とは、80年代に何度もシングルマッチで対戦し、一連のその試合は「名勝負数え歌」と呼ばれた。
※名勝負数え歌
当時、新日本プロレスの試合中継テレビ番組『ワールドプロレスリング』の実況を務めていた古舘伊知郎アナウンサーが名付けた。
※魔性のスリーパー
アントニオ猪木の必殺技のひとつ。
背後から両腕を相手の首に絡ませることにより頸動脈を圧迫し、脳への血流を遮断して失神に追い込む絞め技「スリーパーホールド」を猪木が使うと、このような独自名称の技になる。猪木の長くしなやかな腕は、スリーパーホールドを仕掛けるには絶好のものだった。
プロレスにおいては、いわゆる「首絞め」は反則行為であるため、スリーパーホールドを仕掛けるに際しては、気管を圧迫して相手の呼吸を遮断するような締め方は本来反則とされ、レフェリーもそこは入念にチェックしている。猪木のそれは、見ようによっては頸動脈ではなく気管を圧迫する「首締め」になっているようなものもあったが、そういった曖昧なレフェリングも含めて、猪木の「魔性」ではなかったか。




