一休みしたいけれど
「あのねレーコ。前にわし言ったよね。もう噛まないでって言ったよね」
「申し訳ありません邪竜様。この精霊が抜け駆けをしようとするものですから、我を忘れてついやってしまいました」
「今度こそもう二度としないと誓って」
「ご心配はいりません。邪竜様が命じられたお言葉は常に私の心に誓いとなって刻まれております」
「それだと前のお願いがスルーされた説明がつかんのじゃよなあ」
シェイナの手に確保された精霊さんは、わしを見てカチカチと歯を鳴らしている。
レーコは「親愛の甘噛み」と解釈しているようだが、どう見てもわしを狙っている。
ただ、恐ろしいには恐ろしいものの、今回ばかりはやや助けられたのも事実だった。
なにしろシェイナが、わしの正体に関して疑念を抱いていたフシがある。
わしが弱いと悟られるのは死活問題である。なによりレーコの暴走の危険が増す。
シェイナやハイゼンは信頼のできる人間だとは思うが、かといってわしの正体を知れば本国とやらに報告するだろう。
あまり多くの人々に知られる事態は避けたい。
――というわけで、わしはその辺のまだ残っていた雑草をぶちっと勢いよく引き抜いた。
「どうじゃなシェイナ。これがわしの真の姿じゃ……」
「あ、はい」
よし、わしに対する言葉がフランクなものから敬語になった。怯えさせて申し訳ないが、これは間違いなく効いている。
「それより邪竜……様? この子がすぐ噛みつこうとするのって、色が似てるからじゃない? あの金山の鉱石って黒っぽかったし、邪竜様の鱗の色と結構似てるかも」
「……つまり、なんじゃの。わしを山の石と勘違いしてるから食べようとしてくるの?」
「たぶん」
わしは何歩か後ずさった。そんなに何度も噛まれてはたまったものではない。
レーコが「ふっ」と勝ち誇ったように鼻で笑い、
「ちなみに邪竜様。私はしっかり邪竜様を邪竜様と認識した上で甘噛みしております。やはり私の方が一枚上手だったということですね」
「だからお主は一体何の勝負をしておるの?」
認識した上で噛んでくるのなら余計に悪質だし。
やや騒がしくなった現状を、ハイゼンが咳払いで整えた。
「それでは先ほどの内容で報告させていただきます。……と、邪竜殿。お待ちくださる間、この家の設備はどうぞご自由にお使いください。粗末なものばかりで恐縮ですが」
「ああうん、すまんの。そんじゃ……ちょっと興味あるから、お主が持ってるわしの記録とかを読ませてもらってええかの?」
「記録ですか?」
「そ。お主が若い頃に調べたっていう邪竜レーヴェンディアの文献ね。わしも自分のことがどんな風に書かれてるか確認しておきたいでの」
これについては前々から気になっていた。
やたら恐ろしい存在として扱われはするが、具体的に邪竜レーヴェンディアというのがどんなものか、当のわしが全然よく知らないのだ。
限りなく薄い希望だが、もしかするとこの状況を解決する情報が見つかるかもしれない。
わしが屋敷の入口に足を向けると、レーコが横に並んだ。
「僭越ながら邪竜様。その前に一旦湯浴みをされてはいかがでしょうか。愚かなる草どもの返り血は早く落とすに尽きましょう」
「草の汁ね。あんまり残虐な表現はどうかと思うよわし」
「実はこうなることを予見いたしまして、先ほどからもう湯の用意をしていたのです。ライオットの家では使用人も兼ねていましたので、風呂の準備も心得ております」
「ううん、そうじゃね。どのみちこのまんま家の中をウロウロしたら土とかで汚しちゃうからの」
もしかすると、その辺を配慮してレーコはわしに湯を勧めてくれたのだろうか。
もしそうなら、人様の迷惑を考えるという基礎的な思いやりはできているということになる。
レーコの情操教育が案外まともに進んでいることに尻尾を振りつつ、わしは先導に従って風呂に赴いた。
母屋とは別の離れにも似た小屋が、どうやら浴室らしい。
「私は外で湯加減を調整しておりますので、何かありましたらお声がけください」
「ありがとね。ところで、精霊さんの見張りは大丈夫かの?」
「この場にありつつも、私の第三の目の視界には入れております」
「そっかあ」
わしはすべてを聞かなかったことにして浴室の戸を前脚で押し開いた。
もうもうと広がる湯気が圧倒的な熱気でわしの視界を埋め尽くす。
――その湯気の向こうには、ぐらぐらと沸騰する地獄の釜のごとき風呂桶が待っていた。
「……レーコ? これは?」
「はい。邪竜様のお好みの湯加減に仕上げております」
鍋にするぞと脅された大昔の記憶がフラッシュバックした。わしに芸を仕込もうとしていた商人たちも、ここまで本気で釜を焚いたことはなかった。
「さあ邪竜様。どうぞお楽しみください」
わしは半泣きになるのを堪えつつ、やっとのことでぬるま湯を懇願した。
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亜空間の渦から落ちると、自分の町の片隅だった。
先日の事件のせいで泥まみれなのは今も変わらずだが、人々は事前の対策のおかげか大した不自由もなく生活している。
「ふう、よかった。町が無事みたいで」
町の守護者――聖女様は麦わら帽子を被りなおして安堵に微笑んだ。
水路に意識を巡らせて魔物を感知してみるが、町の中に怪しい気配はない。察知できる魔物らしき気配は、町の外からゆっくりと近づいてきていた。
「よぉしっ。来るならこぉいっ! 私の結界はそう簡単に破れないもん!」
自身はしっかり結界の内に立ちつつ、久しぶりの聖女らしい仕事にちょっと意気込んで胸を張る。
しばらく待っていると、魔物が草原の向こうからゆっくりと歩いてきた。
聖女様は「あれ」と目を広げた。
それは、ついさっきレーコが生首だけを釣り上げた、長髪の魔物だった。




