闇の奔流
『ぐあああああああ! 闇の! 闇の奔流に呑まれるううぅぅぅぅ!! 圧倒的な闇がぁぁあ!』
だから言わんこっちゃない。
わしは止めた。悪いことを言わないから来たときと同じくバッタの魔物に乗り移って根城に帰れと言ったのだ。
それを無視するからこんなことに――
心の中に響く断末魔に涙しつつ、わしは精神魔物との短い思い出を回想する。
――――……
夕刻が近づく頃には、見張りの退屈さも相まってわしは眠気の波に押されつつあった。
どうせ起きていても大して役には立たぬ身だし、聖女様が抜かりなく見張りに立っている。目付が必要なレーコも寝ていることだし、わしも休憩してよいのではないだろうか。
そんな風に考え至った頃にはもう瞼の重みは最高潮に達しており、半ば意識は落ちていたと思う。
問題が起きたのはそれからしばらく後だった。
伏せた姿勢で寝息を立てていたら、急に全身に怖気が走ったのだ。
びっくりして目を覚まし、身を起こそうとしたがぴくりとも身体が動かなかった。俗にいう金縛りというやつである。
助けを呼ぼうにも口すら動かせず、視界の先にいる聖女様は呑気に泥を捏ねて遊んでいた。
一体何が起きとるの? と硬直しながら困惑していると、心の中に反響する声があった。
『ククク……まんまと騙されたな。よもや我があれしきの攻撃で死ぬと思ったか?』
攻撃とは何のことだろう。
わしが唸ると(金縛りで声は出ないけど)、謎の声は怒ったように噛みついてきた。
『とぼけるな! 我が憑りつこうとしたときに心の邪気を消して浄化を試みたであろう。なかなかの技ではあったが、我は辛くも難を逃れたのだ。そして気配を殺して雌伏していたというわけよ』
『あ、なるほど。お主はさっきの精神魔物かの?』
わざわざ声に出さずとも、考えるだけでこっちの言いたいことは伝わるらしい。
それにしても誤解がひどい。あれは浄化攻撃などではない。わしの生き様が他に類を見ないほど情けなかっただけである。
『馬鹿な……。貴様、いやしくも竜族だろう……? 力の頂点に立つべき竜族が『一番の悪事は美味しい葉っぱの独り占めです』だと? そんなふざけたこと、天地が認めようと我は認めんぞ』
『それが誤解でね。わし、厳密にいえばドラゴンっていうよりトカゲに近いのよ。魔力もないし力も強くないし』
精神魔物はしばし沈黙した。が、煮え立つような怒りの気配をひしひしと感じる。
単なるトカゲにあわや消されかけたということでプライドが傷ついたのかもしれない。
『まあ……いい。いずれにせよ、貴様には我を侮辱したツケを払ってもらう。貴様と共にいる――あの凄まじい魔力を備えた娘。あれを我が乗っ取り、その魔力で貴様を微塵にしてやろうではないか』
『悪いことは言わん。あの子に手を出すのはやめた方がええよ。絶対ろくなことにならんから』
『フ……。苦しいハッタリだな。そんなに我があの力を手にするのが恐ろしいか?』
どうしようとわしは思う。
話がまるで通じない。よく燃える干し草の集められた倉庫で火遊びをしようとする子供に「僕があそこで遊ぶのがそんなに恐ろしいか?」と言われている気分である。
危ない目に遭うのはそっちだというのに。
『こうも上手くいくとなれば貴様にも感謝せねばなるまい。我が水魔に乗り移っていたとき、あの娘は一瞬たりとも警戒を断つことはなかった。触れても到底乗り移ることは敵わなかったろうし、下手に動けば水魔ごと消滅させられる危険すらあった』
わしの気づかないところでレーコは常に殺気を漲らせていたらしい。怖い。
『だが、貴様に乗り移ってからは警戒がまるでなくなった。無防備に貴様の背で寝ているほどだ。これなら容易に憑りつけようものだ』
いかん。このままでは彼がレーコに喧嘩を売ってしまう。
わしは必死に精神集中して念じる。
『わしは美味しい葉っぱを独り占めしました。わしは美味しい葉っぱを独り占めしました……』
『ええい鬱陶しい。それが毎度のごとく効く便利な呪文だと思うな。既に貴様の邪気の少なさには慣れたし、さきほど銀竜に憑りつかせた分体からも魔力を補給した。貴様が受けた無力なブレスは、我の分体が寄越した補給の魔力塊だ。あれだけあれば、しばらく貴様の中でも活動できる』
息継ぎの空気袋みたいなものだろうか。話を聞く限り、この精神魔物にとってわしの中はひどく居心地が悪いらしい。
『ああ。だが、もうこんな場所とはお別れだ。これから我は至高の身体を得るのだ。あれだけの力があれば我こそが闇の王座に立つこともできよう。まだ見ぬ魔王とも渡り合えるに違いあるまい。我こそが最強になるのだ!』
『もしもーし。お主、絶対やめといた方がええって。来た時の魔物に乗り移って帰りなよって。本当にどうなっても知らんよ』
『黙れこのクソ雑魚トカゲめ! 我があの娘に乗り移ったら貴様を真っ先に八つ裂きにしてやるからな! フハハ! バーカめ!』
小物感溢れる捨て台詞を精神魔物が連呼しているうちに、潮が引くようにわしの身体の金縛りが解けて行った。
レーコに憑りつこうとわしの背中ごしに移動を開始したらしい。
間近に聞こえていた罵倒の声も、まるでやまびこのようにエコーのかかったものになる。
しかし、その声が急にわんわんと響く絶叫に変わった。
『ぐあああああああ! 闇の! 闇の奔流に呑まれるううぅぅぅぅ!! 圧倒的な闇がぁぁあ!』
やっぱり。
わしが首を回して背中を見ると、当のレーコはまだすやすやと普通に寝息を立てていた。




